落語とジャンプから学んだことで日常を生きる①

3月はさみしい。放送局のアナウンサーになって以来、兎にも角にも別れが多い。番組改編の時期が、すっかり苦手になってしまった。4月から始まることの準備もあるものだから、何年間もお世話になった人との別れも軽いものになってしまったりする。周りの人を見てみてもそんなノリで、ふわっと別れてふわっと始める。そこにも物足りなさを感じてしまって、どうにも行き場がない。

ただ自分には、誰のせいでもない、自分1人の努力ではどうにもならないさみしさを緩和してくれる場所がある。寄席だ。朝の番組を担当しているときは、定時に仕事が終わった後でも昼席に間に合ったので、平日の新宿や池袋によく行ったものだった。

 

落語聞いたり色物を楽しんだりしていると、考え事や悩みの思考が止まるから良い。一度考え事に耽ってしまっても、気が向けば噺や曲芸に戻れる。自分の日常と江戸時代を行ったり来たりする自由を許容してくれるところにも、寄席の魅力を感じる。前座から始まって真打の大ネタで終わるような定番の流れも心地よく、客席の心持ちも揃っている気がする。演目の前後の流れを汲んで、演者によってかける噺が選ばれてゆく様は、スナックのカラオケみたいだ。出演者や観客で薄い羽衣に包まれているような、互いに強要していない一体感……

 

私が落語に出会ったのは、2017年。ナイター中継のない期間限定の番組で、「サンキュータツオと渋谷らくご」という番組が始まった。その際、番組の意向で、落語の知識がないアナウンサーをアシスタントに起用することになったらしい。ちなみに文化放送は古くから落語家の方がパーソナリティの番組を放送しており、今も立川志の輔師匠や林家たい平師匠の人気番組を放送していたり、落語会や関連イベントもよく開催したりしている。2017年当時のアナウンス部で、寄席に行ったことがないアナウンサーは私くらいで、選ぶ余地なく私はその番組のアシスタントに指名された。

 

内容は、サンキュータツオさんがキュレーターをされている「渋谷らくご」の音源を放送し、私の質問を交えながらタツオさんが初心者向けに落語の解説をしてくれる。正真正銘の知識皆無から始まった私は、前座見習い→前座→二ツ目→真打ちという階級についてや、噺の前に話されるまくらの意味。協会や流派のことなど落語に関わる基礎知識を毎週、それはそれは丁寧に教わった。タツオさんは大学教員でもあるので(私の立場で言うのも変だけれど)教えるのが上手く、芸人でもあるので大変面白おかしく対話してくれた。これを半年間経験させてもらって、落語に興味を持たない人はいるのだろうか。回を重ねるごとに、誘われていない公演にも通うようになっていった。

 

「渋谷らくご」は渋谷で毎月5日間開催されている興行で、寄席とも独演会とも違うスタイルで開催されている。私が初めてお邪魔したのは、台所おさん師匠と神田松之丞さん(当時)の「ふたりらくご」と括られる落語会。落語と講談の流れにも、無論、芸にも猛烈に引き込まれた。台所おさん師匠のまくらは、娘さんとピザをおかずに白米を食べる話で、人を傷つけない身辺雑多の語りでここまで人の興味をそそり、笑いを誘えるのかとすっかり心酔した。落語は、ひとつ噺を聞くと同じ演目を他の噺家さんで聞きたくなる。沼にのめり込んでゆくというよりは、噺→人→噺→人……と枝葉がどんどん広がってゆく感じだ

 

こんなきっかけから落語にハマった私は、勤務後や休みの日にも寄席や落語会に足を運ぶようになった。いま「週刊少年ジャンプ」に連載中で話題を集めている落語がテーマの作品『あかね噺』も、連載開始から前のめりで読んでいる。

 

著者
["馬上 鷹将", "末永 裕樹"]
出版日

 

高校生の桜咲朱音の父は落語家の阿良川志ん太。父の稽古中の姿などから落語に魅了される幼少期を過ごすが、ある日志ん太が破門になり、落語家を廃業してしまう。落語家の最高位である真打を目指し、あかねが成長してゆく物語……。

落語に明るくない読者にも分かりやすく、1つ1つ専門用語も丁寧に解説してくれる。回が進むごとに徐々に徐々に知識が増えて、私は「サンキュータツオと渋谷らくご」での日々を思い出す。落語の場面は江戸を生きる人たちが描かれるから物語が分かりやすいし、高座の様子とオーバーラップしてゆく様は、落語を生で聞いているのを体験しているみたい

 

落語をテーマにした作品は漫画に限らず様々触れてきたけれど、『あかね噺』の“少年ジャンプ感”にはとにかくやられる。応援したくなる主人公に、徐々に増えてゆく仲間。ライバルが登場しても昨日の敵は今日の友だったり、目指し続ける目標やつらいことにも挑んでゆく意義がしっかりと見える。そして何より、読んだ後、自分に活力が湧いている。「ジャンプ」の漫画には、自分が海賊王を目指してなかったり、悪魔に変身する能力を持ってなかったり、鬼退治に行く気持ちがなくても、自分事に出来る不思議さがあると思う。自分とはかけ離れた世界の話を読んでいたはずなのに、何故か自分が前を向いていたり、日常を乗り越える思考を提示してもらえていたりする。友情・努力・勝利からくる感動が、なんだ落語界にもあったのか!と気づかされる。

 

例えば、高座に上がる前の緊張が語られる場面では

人生において自己肯定感以上のバフは無い

ヤバい時にどれだけ自分を信頼出来るか

その信頼に足る根拠の積み立てが重要な訳

 

高座に上がるまでの努力がこのように表現されている。日々、我々が取り組んでいる事。表に出せるのはほんの一部で、その背景には人の知識や手間、拘り、思惑、受け継がれてきた歴史など見聞き出来ないものが膨大にある。そんな中で何が1番自分を安心させてくれるのか、この1ページに答えが描いてあった。

 

落語界にみつけられた“少年ジャンプ味”を噛み締めながら、さみしい時期には私は寄席に出向く。


 

続きは#9をお読みください!

【#9】文化放送アナウンサー西川あやのの読書コラム/落語とジャンプから学んだことで日常を生きる②

【#9】文化放送アナウンサー西川あやのの読書コラム/落語とジャンプから学んだことで日常を生きる②

新社会人の皆さん、みんなの唐揚げにレモンを絞るか、悩まなくても大丈夫! 落語家の背中から学ぶ気遣い論。

 

このコラムは、毎月更新予定です。

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writer Twitter:西川あやの

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