ハンナ・アーレントは、20世紀を代表する政治哲学者の1人です。 アーレントは、ナチスによる迫害や絶望の時代を生き抜いた女性として、様々な困難に立ち向かいながら自らの思考を追求し続けました。 全体主義に対する鋭い分析や、人間の活動と条件に関する考察など、アーレント独自の視点は哲学界に今もなお大きな影響を与えています。 今回の記事では、ハンナ・アーレントの人生を紹介したいと思います。

1906年、アーレントはドイツに生まれました。父親は技師をしていましたが、アーレントが7歳のときに病死しています。しかし祖父が多くの遺産を残したため、その資金で暮らすことができました。
アーレントが15歳のとき、若い教師の授業をクラスメートと一緒にボイコットし、退学処分となります。そのあと独学で勉強し、大学の入学資格試験に合格しました。
マーブルク大学では神学と哲学を研究。ハイデガーとの不倫関係でゴタゴタしましたが、ヤスパースの下で研究を続けました。22歳のとき、博士号を取得しています。
このときアーレントは政治に無関心でしたが、時代がそれを許しませんでした。1933年、ナチスのヒトラーが首相に任命され、権力を掌握。ユダヤ人狩りが始まり、ユダヤ人だったアーレントも迫害の対象になりました。
アーレントは反ユダヤ主義の資料収集や、亡命者に援助の活動を行ったため、一度逮捕されています。このとき、自分の名前を「アンナ・アレント」と偽り、なんとか逃げ切ることに成功。1941年、フランスを経由し、アメリカに脱出(亡命)しています。
第二次世界大戦が終わっても、アーレントはアメリカに滞在し続けます。大戦中に『全体主義の起源』の執筆を進め、大戦後の1951年に出版しています。このときアーレントは45歳でした。
この本(『全体主義の起源』)によって、アーレントは一躍有名人となります。同年(1951年)には、アメリカの市民権を獲得し、アメリカ人に。アメリカの大学で教えながら、多くの政治哲学の本を出版しました。
保守でもリベラルでもない、アーレント独特の境地を切り開いていったのです。
かつては不倫関係にあったハイデガーとアーレント。ここでは第二次世界大戦後のエピソードを紹介したいと思います。
1933年、ハイデガーはナチ党に入党し、同年フライブルク大学の学長に就任します。当初はナチスの思想や政策に一定の共感を示し、大学改革や哲学教育の方針をナチスの理念に沿って推進しようとしました。しかしナチスの実態や暴力性に次第に失望し、1934年に学長を辞任しています。
そのあともナチス党員ではありましたが、公的な活動はほとんど行いませんでした。
大戦後の1946年、ナチスに加担した罪を問われたハイデガーは教授資格を剥奪され、大学から追放されました。
このときアーレントは、ハイデガーの大学復帰を後押ししています。
1949年、彼女はハイデガーに手紙を書き、彼の思想がドイツの再建に必要だと訴えました。またアメリカの学者や出版社に営業をかけて、ハイデガーに関する著作の英訳や出版を働きかけています。
ハイデガーとアーレントは1950年にフライブルクで再会します。このときお互いの思想や生活について語り合いましたが、政治的な問題は話さなかったそうです。アーレントはこの再会を「私の人生で最も重要な出来事」と評しています。
1951年、アーレントの努力もあり、ハイデガーは名誉教授の地位を回復しましたが、教壇に復帰することはありませんでした。細々と哲学的な著作や講演を続けましたが、ナチスへの関与についてはほとんど言及していません。その態度がたびたび批判の対象になっています。
1963年、アーレントは『エルサレムのアイヒマン − 悪の陳腐さについての報告』を発表し、大論争を巻き起こしました。『エルサレムのアイヒマン』は、アーレント自身がナチスの戦犯アドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴した記録です。雑誌『ザ・ニューヨーカー』に連載されました。
ナチス・ドイツの親衛隊隊員だったアイヒマンは、アウシュビッツ強制収容所にユダヤ人を移送し、大量虐殺(ホロコースト)に関与した戦犯です。第二次世界大戦後に逃亡しましたが、1960年にイスラエルの諜報機関に捕らえられ、裁判で死刑判決を受けて絞首刑に処されました。
アーレントはアイヒマンが裁判で見せた態度や発言をつぶさに観察して、ある結論に達しました。
アイヒマンは「極悪人」などではなく、ごく普通の小心者で無思想な役人(官僚)に過ぎなかったと言うのです。自分の行動がもたらす結果について深く考えず、彼は「上司の命令に従っていただけ」と主張を繰り返します。彼女はアイヒマンのような無思想性が、人間にある悪の本能が猛威を振るう可能性について言及。
これを「悪の陳腐さ」と呼び、誰でもアイヒマンになってしまう可能性を指摘したのです。
『エルサレムのアイヒマン』は大きな反響を呼び、賛否両論に分かれて意見が交わされます。多くの批判や非難を受けましたが、アーレントは自身の見解を撤回することはありませんでした。
アーレントは結婚を2回しています。
最初の夫は哲学者のギュンター・シュテルンで、1929年に結婚しましたが、1937年に離婚しています。2番目の夫は政治活動家のハインリッヒ・ブリュッヒャーで、1940年に結婚しましたが、1970年に死別しました。
その5年後にあたる1975年、アーレントはニューヨークの自宅で心臓発作を起こし、亡くなりました。69歳でした。アーレントが亡くなった翌年(1976年)、不倫関係にあったハイデガーも人生に幕を閉じています。ハイデガーは86歳でした。
仲正昌樹(2009)『今こそアーレントを読み直す』講談社
- 著者
- 仲正 昌樹
- 出版日
アーレントの思想を現代に生かすための入門書です。著者である仲正先生は分かりやすい解説で定評がありますが、本書ではアーレントの思想を「分かりやすさ」に頼らないで、理解することが試みられています。仲正先生は「分かりやすさ(単純化)」こそが、全体主義につながってしまう危険性を指摘。アーレント的な思考方法こそが現代社会に必要であると主張しています。
牧野雅彦(2015)『精読 アレント「全体主義の起源」』講談社
- 著者
- 牧野 雅彦
- 出版日
『全体主義の起源』は冷戦時代に深い衝撃を与えた書籍になります。ナチス・ドイツやソ連のスターリンによってもたらされた、前代未聞の政治体制である「全体主義」。「この全体主義がどのようにして生まれたのか」について、歴史をさかのぼって探求しています。全体主義は専制や独裁制の変種でもなければ、野蛮への回帰でもなく、20世紀に初めて姿を現したまったく新しい政治体制である、とアーレントは主張しました。全体主義の生成過程は、ヨーロッパ近代が潜在的に抱えていた矛盾が現れてきただけだ、と言うのです。本書籍では『全体主義の起源』について分かりやすく解説されています。
ハンナ・アーレント(2016)『責任と判断』(中山元訳)筑摩書房
- 著者
- ["ハンナ アレント", "ジェローム コーン", "中山 元"]
- 出版日
1975年に死去したアーレントの遺稿を編集した論文集です。ナチスのホロコーストやスターリンのジェノサイドなど、全体主義による犯罪に対して、アーレントは個人の責任と判断の能力をどう考えるべきかを問い続けました。本書は第1部「責任」と第2部「判断」の二部から構成されています。第2部において、アーレントはアイヒマン裁判などを題材にしながら、政治的な判断や道徳的な判断を行うために必要となる、思考の能力や条件を模索しています。 また「身からでたさび」というエッセイでは、自分自身が書いた『イェルサレムのアイヒマン』に対する批判にも回答しています。