自分で選んだ結婚のはずなのに、いつもその結婚についてボヤいている知人が居た。その人が自分の妻のことを話す時、その人の周りにはどこからともなく薄い靄が立ち込めてきて、顔があんまり見えなくなった。それは比喩じゃなくて、本当に。
「じゃあ何で結婚しようと思ったんですか?」
「あのねぇ、若い頃は勢いに任せてただ一人で突き進むのよ。突き進み先もたくさんあるわけ。でもそのまま色々な地点を通過していくとね、果たしてこのまま走り続けて、で、結局俺は何が欲しかったんだっけ、って。そうすると俺なんで走ってるんだっけ、って。一人で居る事が寂しくなっちゃうというか、途方もなく。なんだか迷子の気持ちになっちゃうんだよね。そういうタイミングが来るんだよ」
知人は知人の望み通りに自分の迷子を終わらせた訳だけど、その目には一向に何かに納得した色がみえない。
僕と知人は会うたびに色んな喫茶店でお茶をして、でも知人が妻のことに言及すると靄が立ち込めるから、最近ではもっぱら近所の公園か路上で落ち合う様になった。
「じゃあ結婚して良かった事ってなんなんですか?」
僕の質問に知人は、優しい笑みを浮かべたまま硬直して、そしてそのまま黙った。その内に、知人の周りに立ち込めていた靄はいよいよ顔どころか全身を覆っていき、やがて彼そのものが小さな入道雲みたいになった。それでも彼が沈黙を貫くから、いよいよその人格ごと靄に飲み込まれてしまったのかと僕が心配し始めた頃、靄の奥から、
「………魚もたべるようになった事!」
元気な語気の割にくぐもったその声が、聞こえたか聞こえなかったか。
僕はコンビニで買ったアイスコーヒーのストローを噛みしだきながら靄が薄まるのを待ってみたけど、やがて靄が消え去ると、マジックみたいに知人の体もそこから消えていた。
知人の肉体ごと靄と化して、そしてその知人ごと晴れたのかも知れなかった。
僕は彼が置き去りにしたアイスココアの缶を持って帰ってキッチンでゆすいで、それを今でも流し台の隅に、一応置いている。
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