ドラマや映画などの制作に長年携わってきた読書家プロデューサー・藤原 努による、本を主軸としたカルチャーコラム。前回から「辞職プロデューサー、渾身のブックレビュー」とテーマを変えてリニューアル! 今回は、とあるきっかけで読むことになった小説を2冊ご紹介します。その中に登場するそれぞれの実在モデルには、共通の愛すべき特徴がありました……。
読書のきっかけは、いつもほんとうに思わぬところからやってくるものだなと思います。
今回のまず一つ目は、昨年11月に会社を辞めると決めて一人で佐賀県の温泉に旅した時に、そんなによく知らなかった明治維新の大立者と出会ったことでした。
当人の毀誉褒貶もあって怒涛の人生を歩み、最後はある意味悲劇的な末路をたどることになった佐賀県人・江藤新平。
何というドラマチックな人生。貧乏から成り上がって時代の変わり目に勝ち組となり、しかしその明晰さと厳格さが仇となる転換が待ち受ける。そんな物語を持つ人物に何気ない旅で出会ってしまうなんて。
検索して見つけたのが司馬遼太郎『歳月』でした。
晩秋の佐賀県嬉野温泉の入浴の心地は素晴らしいものでした。“美肌の湯”などと喧伝されているのは知っていたのですが、ほんとにこんなにツルツルしたお湯があっていいのか!?と、大浴場に他に人がいなかったせいで大声を出したぐらいです。
で、この温泉に浸かって明治新政府と戦うために仲間の到着を待っていたのが、明治7年の江藤新平でした。これは『歳月』の中にも出てくるエピソードです。
それでも嬉野温泉だけでは時間があまってしまうので、一度も行ったことなかったJR佐賀駅で途中下車し、あまり何も考えずに佐賀城址公園までまっすぐの道を歩いてみました。
そこに佐賀城本丸歴史館という建物があり、折しもその中で『江藤新平展』なるものが催されていたのです。僕の中ではそれまで、江藤新平と言うと、西郷隆盛が西南戦争を起こすに至る直前に『佐賀の乱』を起こして処刑された人、ぐらいの印象でした。
かつて直木賞作家の木内昇さんの『漂砂のうたう』という小説を読んで辛うじて知っていた知識です。それでも木内さんの文章は、登場人物の言動について丁寧に描き出すので、だいぶ前の読書ではあったものの、僕自身の心にも残っていました。
そしてこの『江藤新平展』を見ているうちに、どうにも何だかだんだん矢も盾もたまらない思いになりました。佐賀藩の下級武士から成り上がって、群を抜く勉強量と交渉能力の高さから明治維新後に日本の法律をつかさどるトップである司法卿にまでのぼり詰め、しかし自らが作った司法制度に絡め取られるかのように、最後は政府にとっての“逆賊”となって無惨な形で処刑され、首を晒されることになる人生―
検索したら佐賀市内の本行寺という寺の中に江藤の墓があったので、その足でお参りもしてきました。
江藤新平の一生は、大枠だけを見ると西郷隆盛と似ています。
それぞれの藩から成り上がって、明治維新の立役者となり、しかしその後征韓論を唱えて、下野し地元で政府と戦い、命を落とすことになる。
しかし違っているのは、西郷はそのキャラクターのよって後世の人々から一種の英雄のように見られがちなのに、江藤の場合はそれがないのです。
江藤は若い頃からその明晰さや弁舌を買われて、本来のその地位では目通りもかなわない藩主の鍋島直正に自らの考えを伝えて信頼を得ることに成功し、明治維新の際の官軍の立役者の一人になっていきます。
江戸時代末期の佐賀藩には、薩摩や長州のような倒幕に向け動くような気運はありませんでしたが、一方で近代的な大砲などを他藩より持っていたこともあり、江藤はそれを使って、戊辰戦争で役に立つところを見せます。しかしその後の彼の人生を見ると、結局はそこがクライマックスだったのかもしれないと思えてきます。
維新後、日本の法律を整えるという仕事を一番にやっていく江藤は、とことん合理的な思考でその雄弁ぶりも他者を寄せつけないレベルであったのに、その一方で今の日本にもふつうにあるような人間の情に寄せた物の考え方や、さらには政治的な判断を下す(組織や人の言動の裏を読んで上手く立ち回ると言うような)思考が決定的に欠けていたようなのです。
それによって明治維新後に西郷隆盛などと同様、新政府の大久保利通らと袂を分かち、西郷に先んじて新政府に対して『佐賀の乱』を起こすことになります。江藤は自分がこの戦争を起こせば西郷も政府に対して兵を上げてくれると考えていたようですが、西郷は呼応してくれませんでした。そして大久保からの強烈な憎しみを一身に受け、捕らわれて惨死することになります。
西郷の場合は、最終的には負けたにしてもこれなら政府に勝てると言うところまでさまざまな準備や人間関係を築いていくと言うのもあって、人間の器そのものが江藤よりも大きかったのだろうと思います。
しかし江藤新平という男には、自らの合理的な思考そのままに真っ直ぐに生きただけのようなところもあり、その短絡さゆえの悲劇性みたいなところが、僕のような人間にはグッときてしまうのでした。
『歳月』は、作者の司馬自身がどこか江藤を少し馬鹿にしているような空気も感じられるのですが、そう言う人間が最後は壮絶な犬死にとも言うべき結末を迎えるところに、僕は非情な物語性を感じてあっぱれ!と思わずにはいられませんでした。
今回の二つ目は、そこから100年以上の歳月を経て現代。
この1月に退社のために会社のデスク周りの整理に行った時に、同僚に「藤原さん、有川浩のモデル小説読みました?これ、えげつないですよ」と言われ、もう好奇心のモヤモヤが拭えずすぐ買って読みました。
村山由佳『PRIZE』。
未読の人のために先に誤解なきように言っておかなくてはならないのですが、この小説は、作家・村山由佳の創作なのでこれが現実の作家・有川浩の言動などをすべてベースにしているわけではありません。その証拠に、村山さんご自身も、版元も、この小説が実在の作家にインスピレーションを受けたとさえ言っていない。
まあ有川浩さんが今も現存している作家であることを思えば、出版業界に関わる人たちはこの作品の主人公のモデルが有川浩さんだと分かっていても表立っては口にできないということなのでしょう。
しかしこう言う言い方をしてしまっては身も蓋もないかもしれませんが、現在の彼女の著作活動自体はあの華々しい時期のことを思えば今では過去の人という感じもします。こう言うタイミングだからこそ、そして村山由佳のような作家がいたからこそ、ここまである意味現実とスレスレの小説企画が成立したのではないかと言う気がします。
村山さん以外で思いつくのは林真理子ぐらいですが、彼女が今有川浩のモデル小説を書くモチベーションは何一つ存在しないし、いい意味で俗な現実(あるいはイタイほどの事実)への興味を強く持っており、同時に圧倒的な文章力構成力を持つ人は村山さんしかいなかったのだろうとすごく勝手に想像しました。
これはきっと編集担当者が村山由佳に、有川浩を題材にした小説を書いてみないかと提案したのに違いないと僕は思いました。
この小説自体、メインのストーリーが、売れっ子女性小説家が唯一絶対の信頼を置いた若い女性編集者との蜜月と失墜を描いたものだから余計にそう思ってしまったのかもしれません。
直木賞が欲しくてたまらない作家は、この小説の主人公以外にも潜在的には現実にいっぱいいるだろうと想像しますが、ここまで明確に他人を巻き込んでそれを主張する人と言うのもあまりいないんじゃないかと思います。
だいたい作家本人がそれを声高に主張すると、かなりイタく見えるのではないかと、その業界外にいる僕のような人間でも容易に想像できてしまうからです。
それにしても、この小説、全く脱帽的な面白さでした。後半は村山由佳の創作力の面目躍如たる感がありますが、彼女(村山)は小説家としての自分がもしこの主人公(有川?)であったなら、どう言う風な言動に出るだろうと考え抜いた末にこの物語は生まれたんじゃないかと言う気もする。
他者をどうしても許せない気持ちになる、とはどう言うことか。
ふつうに生きている分には、人間なかなかそこまで追い込まれることはないと思うのですが、小説家のようなそれこそ身を切るような仕事をしている人には、常人には思い及ばないほど繊細な逆鱗が存在するのでしょう。
いい小説でした。読んだ人間がなぜだか意味もなくやる気を掻き立てられる、そんな読書時間であった気がしました。
僕は今回のこの2冊を読んで考えているうちに改めて自分の好みというものに改めて気づきました。僕はたぶんうかつな人間が好きなのだと思います。冷静に客観的に考えればもっと別の言動をすべきだと誰もがわかるのに、その人はそうはならない。
全くなんて劇的な人たちなのでしょうか。
Tシャツが本を読むきっかけになってもいいんじゃないか|辞職プロデューサー、渾身のブックレビュー#1
ドラマや映画などの制作に長年携わってきた読書家プロデューサー・藤原 努による、本を主軸としたカルチャーコラム。「ある業界人の戯れ言」として約2年にわたり連載してきましたが、今回から「辞職プロデューサー、渾身のブックレビュー」として心機一転!長年勤めてきたホリプロを退社することを決意した今、改めて読み返した書籍とのめぐり合わせを綴ります。
info:ホンシェルジュX(Twitter)
未来の「仕掛け人」のヒントになるコラム
華やかな芸能界には、必ず「裏方」と呼ばれる人々の試行錯誤の跡がある。その「裏方」=「仕掛け人」が、どんなインスピレーションからヒットを生み出しているのかを探っていく特集です。