スミスの『国富論』は、誰もが知る古典です。ただの経済書ではなく、その影響力は抜群です。 現代の資本主義に基づく競争社会も、スミスの思想を下敷きにしていると言ってもいいでしょう。 『国富論』は近代社会の到来を告げるバイブルなのです。 出版の前年、スミスはある会合に提出した文書のなかで、彼が言いたかったことを要約しています。 「一国を最低の野蛮状態から最高度の富裕にまで導くためには、平和、軽い税、および正義(法)の寛大な執行のほかはほとんどなにも必要としない。その他の一切は事物の自然の経過によってもたらされるからである。この自然の経過を妨げたり、事物を他の水路に無理に向けたり、あるいは、ある一点で社会の進歩を停止させようとするすべての政府は反自然的であり、自己を支えるために圧政的かつ暴政的であらざるをえない」。 ここに書かれている内容が、スミスの言いたいことの全てになります。 今回の記事で詳しく見ていきたいと思います。

人間の社会は大まかに見ると三つの層からできています。
(1)家族
(2)市民社会
(3)国家(政治社会)
市民社会は主に経済の世界です。人々は働き、財を生産し、売買します。この繰り返しを通じて、人々は自分とその家族の幸福のために働き、努力します。市民社会において人々がもっとも重視する目的は、自身と家族の幸福です。他人の幸福ではありません。
国家とは政治の世界です。国家の目的は税金を徴収することですが、建前としては社会全体の繁栄、公共の福祉であり、国の安全になります。政治の仕事はエリートが担当する仕事です。スミスの時代は、庶民ができる仕事ではありませんでした。
当時の議員(政治家)は無給だったからです。無給であったとしても、全く困らないような人々が政治の仕事をしていました。その多くは貴族階級の人々です。貴族たちは大地主でもあり、領地からの収入だけで生活できます。そのため給与など必要ありません。それに加えて暇な時間はたくさんあります。彼らのような“余裕のある”人々が政治をしており、またそういった人々が政治をすべきという、共通の了解事項がありました。
政治は毎日生活のことばかりを考える、貧乏人の仕事ではなかったのです。イギリスで議員に歳費が支給され始めたのは1912年、なんと20世紀になってからでした。
政治の世界は経済の世界に比べると、建前だけかもしれませんが、高貴であると考えられています。自分(だけ)の利益を求めて行動する人よりも、社会全体の利益を考えて行動する人の方が「偉い人」であるとされます。だから政治は、庶民や商売人には向かない世界なのです。こういった理由から政治家は威張ります。自分は偉いとさえ思っています。
政治家は下々のものたちの行動を監督し、指導し、矯正しようとしたくなります。下々のものたちは自分の利益しか考えないから、彼らの行動を放任しておくと、社会はとんでもない方向に進んでしまうと考えるからです。下々のものたちは子供のような存在であり、政府は未熟な子供を指導する(時には厳しい)父親であるとされます。
この国家観(国家は市民社会よりも偉い、上位である)をスミスは覆しました。スミスによって「政治と経済」「政府と社会」「政治家と市民」の関係が逆転させたのです。
「政治家は悪人である、嘘つきである、私腹を肥やすことしか考えていないごろつきである」。このような非難は昔からありました。もちろん今もあります。こういった背景から、無能な政治家を追放して、優秀な政治家に置き換えようというのが、一般的な発想になります。しかしスミスはそのような考え方を取りません。政治家が優秀(無能)であるかは、あまり重要ではないのです。
政治のシステムがなによりも大事なのです。優秀な政治家とは、ほとんど何もしない政治家です。政治がすべきことは、平和、軽い税、法の公平な執行だけです。あとは「ものごとの自然な成り行き」が、私たちを幸福な世界へと運んでくれます。
以下の文章には、有名な「見えざる手」について述べられています。
「人びとは、普通には、社会・公共の利益を増進しようなどと意図しているわけではないし、また自分が社会の利益をどれだけ増進しているのかを知っているわけでもない。……生産物が最大の価値をもつように産業(企業)を運営するのは自分自身の利益のためである。だがこうすることによって、彼は他の多くのばあいとおなじく、このばあいにも、見えざる手に導かれて、自分では意図してもいなかった目的を促進することになる。彼がこの目的をまったく意図していなかったということは、その社会にとって、彼がこれを意図していたばあいにくらべて、かならずしも悪いことではない。社会の利益を増進しようと思いこんでいるばあいよりも、自分自身の利益を追求するほうが、はるかに有効に社会の利益を増進することがしばしばある。社会のためにやるのだと称して商売をしている連中が、社会の福祉を真に増進したというようなはなしは、いまだかつて聞いたことがない」(『国富論』第四篇第二章)
自分の利益を追求して行動すると、その結果として、他人の利益や社会全体の利益も増大する。一見すると奇妙な事態がこの世界には存在します。「自分の利益を追求し行動してください、そうすれば社会全体のためになります」と、スミスは言いました。
なぜそうなるのでしょうか?
神によって創造された世界には自然の調和がある。ヒュームとは異なり、スミスは神を信じていました。「見えざる手」がこの世界の裏側で作用しているため、宇宙と世界の運動には一定の規則性があります。
春、夏、秋、冬と季節が巡り、ありとしあらゆる存在が生まれ、成長し、衰退し、そして死んでいく。しかし世界は再生し、誕生と死を繰り返します。「この世界の秩序と運動を支配している何かが存在するはずである」。一見、無秩序に見える現象の中にも秩序が存在するはずです。世界の運動は、神が定めた意図を実現するように進行しています。
私たち人間が神の意図を意識していなくても、私たちの行動は神の意図・目的を実現するようになっているのです。
スミスは『国富論』ではほとんど神について語りません。「見えざる手」とは書きましたが、「“神の”見えざる手」とは書いていません。しかし『道徳感情論』は違います。『道徳感情論』では、あちこちで「自然の創造者(神)が設定した計画」について述べられています。スミスの主張は、キリスト教徒からすると自然な考え方になるでしょう。
スミスが斬新だったのは、近代社会の学問のなかに「神(自然の調和)」を導入したことでした。私たちの社会は放っておいても、見えない秩序が自動的に働き、なぜか自然と理想の状態に至るとしたのです。
<h3>パイの論理と文明社会のパラドックス<h3/>
「見えざる手」の動きは2つの場面で見ることができます。1つはパイの論理において、もう1つは市場の自動均衡メカニズムにおいてです。
今回はパイの論理を中心に説明します。『国富論』の冒頭部で、スミスは次のような問いを出します。
(1)原始的な社会では全員が働きます。老人も子どもも働きます。しかし、彼らの社会は貧しいです。
(2)文明社会では働かない人がたくさんいます。貴族は働かないし、貴婦人も働きません。しかし、社会の下層にいる人々の生活もそこそこ豊かです。
なぜこのような状況になるのでしょうか?このパラドックスを解くことが『国富論』のテーマです。
答えはとても単純で、それは「生産力(パイ)の向上」にあります。パイの論理で説明してみます。社会の富をパイの大きさでイメージしてみてください。アップルパイでもいいし、ミートパイでも構いません。
豊かな社会は大きなパイを持ち、貧しい社会は小さなパイしか持ちません。原始的な社会では全員が働きます。しかし生産力(技術など)が低いため、小さなパイしか生産できません。この小さなパイは全員で分けます。だから全員が平等に貧しいのです。文明社会では働かない人がたくさんいます。その代表例が貴族です。社会の一部の人々だけが生産に関わります。
しかし文明社会は技術力と生産力が高いため、大きなパイを生産できるのです。
<h3>経済が社会を救う、政治ではない<h3/>
文明社会とは所得が不平等な社会です。富裕層と貧困層に社会は必ず分裂し、経済のパイは不平等に分配されます。労働階級にはパイのわずかな部分しか配分されません。大部分は働く必要のない階級(資本家)が得るのです。しかしパイの絶対的な大きさが拡大すれば、下層階級の所得も向上する可能性があります。
パイが「100」で、配分率が10%であれば、10です。しかし、パイを「1000」に拡大すると、その10%は100になります。配分の“比率”は同じでも、配分される“量”は増えます。社会はパイを平等に分けることで解決しません。平等主義によってではなく、パイの拡大、つまり生産力の向上によって実現されます。
これがスミスの考え方です。
「よく統治された社会では、人々の最下層まで富が広く分配され、その富は分業の結果として生じる多種多様な技術による生産物の巨大な増加によるものである」(『国富論』第一部第一章)。
今もそうですが、所得の平等を主張する人々がいます。
しかし、パイを平等に分配しようとする運動は社会を戦争状態にします。平等を主張すれば、上流階級や金持ち階級は強く反発するからです。さらに加えて政治的な権力は金持ちが持っています。
そのため平等を求める運動は、政府を打倒する革命運動となり、内戦に発展します。しかしパイ自体を増やせば、内戦を引き起こす必要はなく、人々が互いに殺し合う必要もありません。「パイを拡大しましょう。そうすれば、全ての人が幸せになります」。スミスはこう考えるのです。
幸せな社会を創出する役割は、政治の力ではなく経済の力です。政治的な革命ではなく、生産力(パイ)の向上によって社会の幸福は達成されるでしょう。経済成長こそが社会の平和の鍵なのです。
経済成長(パイの拡大)を実現するためにはどうしたらいいのでしょうか?
その答えは「政府が何もしないこと」です。すなわち人々の自然な本能を尊重し、各個人の利己心を自由に発揮させることによって可能になります。その結果として、私たちが日々行う自己利益の追求は、社会全体の幸福を実現します。
これが「見えざる手」の仕組みなのです。
人間が自分の生活を改善しようと常に努力する行動こそが、個人だけでなく国の富も作り出す原理となります。そして、この原理は我々の成長を促す動力となります。政府の無駄遣いや行政ミスなどのエラーが生じても、そのエラーを修正する力が働くからです。病気になったり、医者の処方する薬が間違っていても、身体が自然に健康と活力を取り戻す様子に似ています。
人間は誰もが幸福を求めています。幸福になるためには多くの要素が必要ですが、その中でもまず必要なのが富、つまりお金です。「お金が重要ではない」と言えるのは、すでに一定の富を持っている人だけでしょう。
もし政府の規制がなくなれば、人々は最大の利益を得られる場所で活動します。例えば、繊維産業が利益をもたらすならば繊維産業、不動産業が活況ならばマンションを建てるでしょう。
人々は利益を得るために、常に最善な行動を選択しようとします。この行動パターンは、私だけでなく周りの人々も同じです。
そのため最善な選択をめぐって、お互いが競争相手となります。競争に勝つため、幸福な生活を得るためには、生産性を向上させるために絶えず自己修練(努力)が必要です。
ビジネスで例えた場合、もしライバル企業よりも低コストで生産できれば、市場シェアを拡大できるチャンスです。このような競争を通じて、生産技術は自然に向上し、先進的な技術は社会全体に広がります。技術の遅れに固執していれば、企業は倒産してしまいます。
人々の自己利益を追求する行為は、社会全体の幸福を高めるのです。
これがスミスの考え方です。
人々は自分の利益のために競争し、勝利を追求します。この自己利益を追求する行為が、社会全体の利益(公益)になるには条件があります。
競争によってパイが拡大するときだけです。その場合に限ります。もしパイが大きくならなければ、私の幸福が他者の不幸につながることになります。私がより多くを得れば、他者にはより少ないものしか残らないからです。つまりパイが拡大しない場合、自己利益が同時に社会全体の利益になることはありません。
「見えざる手」の働きは停止します。見えざる手が機能する前提条件は、パイが絶えず拡大し、経済成長が止まらない場合のみです。もしパイの拡大が期待できない時代、まさに今の日本のような社会では、スミスの理論とは別の考え方が必要になります。
もし経済が成長しなければ政府が保護すべきである、と私たちは考えます。しかしスミスは違います。
保護政策は大抵の場合、最悪の結果をもたらします。誰かを保護(補助)すると「政治とカネ」と呼ばれる現象が生じます。政府からの補助金を求めて、多くの人間が群がります。保護する側も保護される側も、結果として悪影響を受けてしまう。これがスミスの考えです。
例えば、国家が特定の企業を保護すると、特定の業種がその企業の独占になります。独占があれば競争は存在せず、競争がなければ経営努力も必要ありません。こうして政財界の癒着と腐敗が始まります。独占企業の利益追求は、社会全体の利益になりません。独占企業は利益を得ますが、社会全体のパイは増えないからです。この場合「見えざる手」も機能しません。
見えざる手は競争環境のなかでしか働かないからです。競争環境の中では、企業が利益を得ようとすれば、公共の利益を満たさなければなりません。売り上げを伸ばそうとすれば、民衆が求めるものを供給しなければなりません。そうでなければ競争から敗退します。しかし独占企業には競争者がいないので、高い価格を設定して販売しても問題ありません。競争者に市場を奪われる心配もありません。価格を上げて独占企業が利益を得るとき、社会の誰かが損をしています。
何時いかなる場合でも「見えざる手」が働くわけではないのです。
国家は可能な限り経済への関与を控えるべきであり、道路や橋の建設(管理)も民間に任せるべきである、とスミスは主張します。
国家が管理すると、地域の有力者の利便性が優先されてしまう可能性があるからです。地方の有力な知事が所有する別荘(ほとんど使用されない)の近くに、道路を敷いたケースが過去にありました。普段ほとんど使用されず採算が合わない道路であっても、公務員は自分の財布が痛むわけではないため、どうしても他人事になってしまいます。そのため無駄な公共事業が連発されてしまう、とスミスは言います。
昔も今も、公務員のマインドは変わらないようです。
水田洋(1997)『アダム・スミス 』講談社
- 著者
- 水田 洋
- 出版日
日本における社会思想史研究の代表的人物であり、スミス研究の第一人者でもある水田洋先生が、スミスの思想と生涯を豊富な資料を駆使して解説したものです。 スミスの代表作である『道徳感情論』と『国富論』の内容を分かりやすく説明するとともに、彼が生きた時代背景や影響を受けた人物にも触れています。 スミスの思想が現代社会にも示唆を与えることを示している一冊です。
堂目卓生(2008)『アダム・スミス–「道徳感情論」と「国富論」の世界』中央公論新社
- 著者
- 堂目 卓生
- 出版日
スミスは人間を利己的な存在と見なすのではなく、共感や正義といった道徳感情を持つ社会的動物と考えました。 また人間は、自己の弱さや虚栄心によって富を追求しますが、それを経済発展につなげるにはフェアプレイの順守や政府の役割が必要です。 本書は、スミスの思想を現代的な視点から読み直し、市場と道徳の緊張関係を考える一冊になっています。
アダム・スミス(2023)『国富論(上)』(山岡洋一 訳)日本経済新聞出版
- 著者
- ["アダム・スミス", "山岡 洋一"]
- 出版日
『国富論』は、経済学の古典として知られていますが、その原文は難解であり、多くの人にとってハードルが高いものです。 本書は翻訳家である山岡洋一先生によって、現代の日常語に置き換えられ、スミスの思想が忠実にかつ読みやすく訳されています。「市場、労働、富、価値」といった経済の基本概念が、理解しやすい例え話や簡潔な言葉を用いて明らかにされています。またスミスが活動した18世紀イギリスの社会や、歴史に関する豊富な解説が随所に散りばめられており、彼の思想的背景を深く理解することができます。原著にチャレンジしたい方にオススメの一冊です。