ヘーゲルの名を聞くと、多くの人々は複雑で難解な哲学を思い浮かべるかもしれません。 しかし彼の哲学人生は「革命、戦争、疫病」といった波乱に満ちた時代のなかで繰り広げられました。 ヘーゲルの思想は自身の経験に深く根ざしており、人間の自由、歴史の流れ、社会の進歩といったテーマを語る彼の洞察は、今日でも私たちに多くの示唆を与えてくれます。 今回の記事ではヘーゲルの人生をたどりながら、その思想がどのように形成されて、変化していったのかを探りたいと思います。

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは、カントが生まれた約50年後に誕生しました。1770年の8月27日、ドイツのシュトゥットガルトで生まれたヘーゲル。しかし当時のドイツは、まだ1つの国として統一されておらず、多くの小国に分かれていました。ドイツがビスマルクの力で統一され、1つの国(ドイツ帝国)になるのは、1871年のことです。
シュトゥットガルトはヴュルテンベルク公国の中心都市で、この公国は当時人口50万人ほどの小さな国でした。ヘーゲルの父親は、この公国で財務省の書記官をしていました。
ヘーゲルが8歳のとき、尊敬するレフラー先生からシェイクスピアー全集をプレゼントされ、彼の大ファンになります。ヘーゲルはシェイクスピアーの作品から多くの影響を受けており、自身の著作や講義でたびたび引用しています。
例えば『 精神現象学 』では『 マクベス 』や『 ジュリアス・シーザー 』などの悲劇を取り上げ、人間の自由や罪と罰について考察。また『 歴史哲学 』では『 ヘンリー四世 』や『 ヘンリー五世 』などの歴史劇を参照して、英雄や国家、世界精神について論じています。さらに『 美学講義 』では、シェイクスピアーの作品を「世界史の哲学」と呼んで高く評価し、その芸術的価値や弁証法的な構造について分析しています。
18歳になったヘーゲルの進学先はチュービンゲン大学の神学部に進みます。父親は聖職者になってほしいと願っていたようです。
大学を卒業したときヘーゲルでしたが、彼は聖職者になりませんでした。このとき23歳です。スイスのベルンやドイツのフランクフルトなどで、住み込みの家庭教師をしながら哲学の勉強を続けています。ヘーゲルが29歳になったとき父親が亡くなり、少額ながらも遺産が手に入ります。それほど大きな額ではないものの、家庭教師をやめてもしばらくは生計を立てられるほどの金額だったようです。
ヘーゲルは家庭教師を辞め、友人や知人を頼ってイエナに移住。31歳のとき、大学の私講師として仕事にありつきました。
私講師とは固定給がなく、受講生から徴収するお金が収入のすべてです。ヘーゲルのクラスの受講生は平均して20人から30人で、ヘーゲルは論理学や哲学、さらには自然法や数学も教えました。授業は毎日2、3時間、週にすると10時間から15時間もあります。34歳のときにイエナ大学の助教授になりますが、これも受講料中心の生活になるため、ヘーゲルの生活は大変だったようです。
ヘーゲルがイエナにいた時期、ヨーロッパは大変な動乱の時代でした。1789年に始まったフランス革命は紆余曲折を経て、ナポレオンの独裁へと至ります。
ナポレオンはフランス革命の体現者として、理想と栄光を身にまとい、ヨーロッパの旧体制を相手にして戦っていました。フランス革命を他国に輸出するヒーロー(英雄)として、自分自身を演出していたとも言えるでしょう。そのためヨーロッパのインテリたちはナポレオン軍を歓迎したのです。
ナポレオン軍はドイツにも侵攻し、1806年10月にドイツ軍を撃破。ヘーゲルが住んでいたイエナを占領しました。ヘーゲルは自室の窓から、馬に乗ってイエナを視察するナポレオンを目撃します。
このとき「“馬上の世界精神”を見た」と友人へ手紙を書いています。
『精神現象学』はナポレオンの時代を表現した作品であり、ヘーゲルの最高傑作とも言われます。フランス革命の精神(理念)には感激したヘーゲルですが、ナポレオン軍によるイエナ占領によって、ヘーゲルの生活設計は狂ってしまいます。外国の軍隊に占領されたため授業などできず、1807年の3月、イエナ大学は閉鎖されてしまいます。
困り果てたヘーゲルは、友人の紹介で新聞の編集者となりました。しかしすぐに辞めて、1808年、ニュルンベルクにあるギムナジウムの校長になりました。38歳でした。
ギムナジウムとは、日本でいうと公立学校にあたる中高一貫校のようなものです。ヘーゲル校長のギムナジウムに通う生徒は約40人でした。しかし本来なら管轄外である小学校などもヘーゲルの管理責任だったようで、そこには約160人の生徒がいたと言われています。つまり合計で、約200人の生徒を持つ校長先生だったのです。
校長と聞くと立派な職業をイメージしますが、戦乱の影響もあって給料の未払いが常習化していたようです。校舎も古くなり、さらにトイレは軍に接収されたため、生徒たちは近所の民家を利用して用を足していたと言います。その結果として近所からは学校にクレームが寄せられ、それに対応していたのがヘーゲルだったのです。
1811年、ヘーゲルはこの校長時代に結婚をしています。
お相手はニュルンベルクで議員していた方の娘さんで、貴族のお嬢様でした。彼女の年齢は20歳、ヘーゲルは41歳でした。幸せな結婚生活だったようで、2人の男の子が生まれました。長女は若い時に亡くなっています。そのうち1人は大学教師、もう1人は高級官僚となりました。
しかし、ヘーゲルにはもう1人の息子がいました。イエナで家庭教師をしていたとき、彼は下宿先の女将と関係を持ち、彼女はヘーゲルの子ども(ルートヴィッヒ)を産んでいます。当たり前ですが、ヘーゲルと女将のあいだには、いろいろとトラブルがあったようです。トラブルの期間、女将の子どもはどう育てられたのか、よく分かっていません。最終的には妻の了解を得て、1817年、庶子であるルートヴィッヒをヘーゲルは引き取っています。
このときルートヴィッヒは10歳くらいだったのです。ヘーゲル家での生活は、あまり居心地がよくなかったようです。それも当然かもしれません。結婚6年目のヘーゲル夫人はまだ20代で、2人の幼い子どもがいたのですから。
ルートヴィッヒはギムナジウムを出たあと、商人の見習いとして就職しました。しかしトラブルがあって、父ヘーゲルはルートヴィッヒを事実上の勘当し、縁切り状態としました。このあとルートヴィッヒは、18歳のときオランダの植民地軍に志願し、インドネシアに派遣されました。そして父ヘーゲルが亡くなったのと同じ年、1831年にジャカルタで病死しました。
ギムナジウムで校長を務めていたヘーゲルは、現状に満足できませんでした。志はとても高く、校長を務めながら『論理学』という大著を出し、名前も売れ出しました。1816年、努力が報われたヘーゲルは、ハイデルベルク大学の教授に招かれます。46歳でした。
ハイデルベルク大学では固定給が付いた待遇でした。加えてライ麦・小麦の現物支給もありました。相変わらず教授の仕事は多忙で、ヘーゲルは週に16時間もの授業を担当していました。受講生の平均は20人から30人ほどです。
ハイデルベルク時代に、ヘーゲルは『エンチクロペディア』という本を出しています。これは論理学、自然哲学、精神哲学の3部門を展開した哲学百科のような本で、ヘーゲル哲学の全体像が見えるような作品です。
ヘーゲルの名声は高まり、ドイツの強国プロイセン政府は、ヘーゲルをベルリン大学の教授に招きます。ヘーゲルも喜んで教授職を受け入れ、首都ベルリンに移住しました。1818年、ヘーゲルは48歳でした。同じ年の5月、カール・マルクスがライン地方の町に生まれています。
ベルリンでの講義もまたハードで、週に10時間もの授業がありました。論理学、歴史哲学、宗教哲学、法哲学など、何でも教えたそうです。ヘーゲルは一貫して教育の重要性を強調しましたが、彼自身も優れた教育者でもありました。
彼が教鞭を執ったベルリン大学では、彼の講義はとても人気があり、学生からの評価も高かったと伝えられています。一説によれば、ヘーゲルの講義は学生が必死になってノートに取ろうとするほど内容が濃密であったため、彼が教室を出ると、授業のあいだ鳴り続けていたペンの音が突如として止んだと言われています。受講生は平均40人から60人、中にはプロイセン政府の高級官僚や軍人も多くいました。
当時の文部大臣アルテンシュタイン男爵がヘーゲル哲学のファンだったため、ヘーゲルは彼から多くのサポートを受けていました。ヘーゲル哲学はプロイセンの「国定哲学」となったのです。ヘーゲル反対派に言わせると「プロイセンの御用哲学」になります。
1827年の夏、ヘーゲルはあこがれのフランス・パリへ旅行しました。
当時のフランス文化や政治に興味を持ち、そのときの記録が残っています。フランス政府や王党派と共和派の対立について分析し、またパリの美術館や劇場、カフェなどを訪れ、フランス人の生活様式や思想について観察しています。このときシェイクスピアーの戯曲を上演するコメディ・フランセーズ(フランスの国立劇場)に感銘を受けたそうです。
旅行の帰途、ヘーゲルはヴァイマールにいたゲーテを訪ねて親交を深めています。彼はゲーテの詩や芸術論に敬意を表し、ゲーテもヘーゲルの哲学に興味を示しました。2人は互いに影響を与え合い、友情を育みました。
ベルリンではヘーゲルを中心とした学派が形成されてきました。派閥ができると学問も終わりと言いますが、学者の世界では、派閥はなんとなく自然に生まれるもののようです。ショーペンハウアーなどが、ヘーゲル哲学を糾弾するために動いたこともありましたが、逆にカウンターをくらって簡単に粉砕されています。
1829年、ヘーゲルはベルリン大学の総長に就任し、名声の頂点に立つことに。
しかしここでヘーゲルは突然に亡くなってしまいます。亡くなる数日前にも普通に講義をこなしていたため、まったく突然の死でした。死因はコレラともあるいは胃の病気とも言われますが、詳しいことは分かっていません。
亡くなったのは1831年の11月、享年61歳でした。
仲正昌樹(2018)『ヘーゲルを越えるヘーゲル 』講談社
- 著者
- 仲正 昌樹
- 出版日
本書は、仲正昌樹先生によるヘーゲル哲学の入門書です。精神を中心とした歴史の発展を描き、現代思想に多大な影響を与えた哲学者であるヘーゲル。ヘーゲルの主要な概念や論理を分かりやすく解説されており、現代の思想家(ラカン、ハーバマス、アーレントなど)のヘーゲル解釈も紹介しています。ヘーゲルは「理性、自由、市民社会、法、国家」など、哲学の根本課題を体系的に考察した思想家であり、現代を生きる我々にとって必要な知性であると本書では主張されています。ヘーゲル哲学に興味のある人や現代思想に関心のある人におすすめの一冊です。
長谷川宏(1997)『新しいヘーゲル』 講談社
- 著者
- 長谷川 宏
- 出版日
長谷川宏先生によるヘーゲル哲学の入門書です。長谷川先生は、ヘーゲルの翻訳を担当されています。ヘーゲルは「弁証法」という思考法を用いて、意識や歴史の発展を論じた哲学者です。ヘーゲル思想の全体像や主要な概念をわかりやすく紹介されている本書では、現代社会の自由と自立を求める意義についても説明されています。「知」の優位を主張したヘーゲルは、道徳や宗教を超えた思索を展開した思想家であり、現代思想にも多くの影響を与えています。
竹田青嗣、西研(2010)『超解読! はじめてのヘーゲル「精神現象学」』講談社
- 著者
- ["竹田 青嗣", "西 研"]
- 出版日
哲学者の竹田青嗣先生と西研先生による共著で、ヘーゲルの主著『精神現象学』の解説書になります。『精神現象学』は「自然、自己、他者、共同体、神」などに関する人類の経験を通して、人間による「意識」の成長過程を描いた難解な書物です。しかし本書では『精神現象学』の内容をわかりやすく読み砕いて説明されています。フランスの哲学者であるメルロ・ポンティは、ヨーロッパ哲学史においてもっとも重要であり、かつ難解な『精神現象学』を「小説みたいにおもしろい」と言いました。本書を読めば、メルロ・ポンティと同じような体験をできるかもしれません。