18世紀のドイツで活躍した哲学者のカントは、啓蒙思想の代表的な人物です。 『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』という三大批判書を著し、カントの哲学は批判哲学と呼ばれました。 彼の哲学は、西洋哲学史において画期的な意義を持ち、後世の多くの思想家に影響を与えました。 しかし、カントの哲学だけでなく、彼の人生自体も興味深いものです。 今回の記事では、カントがどのような人生を歩んだのか、彼の人間像や教員時代、また思想的な背景にも迫りたいと思います。

イマヌエル・カントは1724年の4月に、ケーニヒスベルクという町で生まれました。
ケーニヒスベルクで育ち、ケーニヒスベルク大学で学び、大学の教師として46年間も教壇に立ち、1804年2月にケーニヒスベルクで亡くなります。2ヶ月後には80歳の誕生日を迎える予定でした。
ケーニヒスベルクはバルト海に面した貿易都市であり、当時はプロイセンの飛び地でした。人口は約6万人で、プロイセンでも有数の大都市でした。イギリスやオランダの商船が港に出入りし、植民地の物産品などを運んできました。
カントはケーニヒスベルクのような貿易都市にいることで「旅行しなくても世界の出来事を知ることができた」と述べています。
現在のケーニヒスベルクは、ロシア領であり「カリーニングラード」と呼ばれています。
地図を見れば分かりますが、ケーニヒスベルクはドイツ本国からかなり離れた場所にありました。カントの時代でも、ケーニヒスベルクとロシアとの関係は深く、一時的にケーニヒスベルクがロシア領になったこともありました。
カントの父親は馬具(革紐)職人で、生活は余裕がありませんでした。
しかしカント自身、勉強が得意だったこともあり、親戚の援助によってケーニヒスベルク大学に進学しました。16歳で入学し、哲学や数学、物理学を学んでいます。卒業論文として「活力測定について」というテーマを書き、22歳で卒業しました。
大学卒業後、しばらくは貴族や商人の家庭教師として生計を立てます。そして31歳のとき、母校ケーニヒスベルク大学で私講師となりました。
私講師とは無給の先生で、大学からの給料はありません。講義の内容を宣伝して学生を集め、その受講料が先生の収入になります。
固定給をもらえる正教授に採用されたのは、カントが46歳のときでした。それ以前の約15年間は、経済的に不安定な生活を送っていたことになります。
カントが大学で開講した科目は多岐にわたります。論理学、形而上学、物理学、数学、自然地理学、倫理学、工学などを担当しました。
生活のためには多くの受講生を集めて、お金を稼がなければなりませんでした。この時期のカントは、週に最低16時間、最大28時間の講義をこなしていたと言われています。
毎日5時間から6時間の授業をしていた計算です。
私講師時代だったカントのある1日のスケジュールは以下の通りです。
午前8時から9時まで論理学、9時から10時まで力学、10時から11時まで理論物理学、11時から12時まで形而上学(昼食)、午後2時から3時まで自然地理学、3時から4時まで数学という具合です。
信じられないスケジュールですが、同じ時代を過ごしたヘーゲルやアダム・スミスも多くの授業をこなしています。カントを含めてこの時代の哲学者は、生活がかかっていたため、ハードな状況でも辛抱強く頑張らなければなりませんでした。
私講師としての経験が4年目に入った頃、カントは知人宛ての手紙で以下のように書いています。
「私は毎日、同じような講義を続けながら教壇の前に座っています。まるで重いハンマーで金敷きをたたくようなリズムです。ときどき、もっと高尚な内容の好みが私を刺激しますが、困窮(生活苦)という現実が激しく私に押し寄せ、私を常に重労働に追いやってしまいます」
カントが私講師の時代には、ヨーロッパで「七年戦争」と呼ばれる戦争が勃発しました。期間は1756年から1763年までの7年間でした。この戦争では、プロイセンとイギリスが一方に立ち、ロシア、オーストリア、フランスが他方に立ってヨーロッパ全土で戦闘が繰り広げられました。
カントの故郷であるケーニヒスベルクにおいても、1758年にロシア軍に占領され、占領は1762年まで続きました。ただし占領されたとはいえ、町の生活に大きな変化はありませんでした。
大学でも通常通り運営され、カントはロシア軍の士官たちに数学や築城・用兵術などを教える講義をしています。
私講師として活躍を続けたカント。執筆した著作も増えて、カントの名前はドイツ中で知られるようになりました。
ケーニヒスベルク大学は彼に「詩学」の教授職を打診しましたが、カントは「自分には向いていない」と断っています。他の大学からもオファーがありましたが、カントはケーニヒスベルクを離れたくなかったため、これも断りました。
カントは母校のポストが空くのを辛抱強く待ち、ついに1770年にケーニヒスベルク大学の論理学・形而上学の正教授に就任しました。当時46歳でした。そのあと1801年に退職するまでの約30年間、ケーニヒスベルク大学に勤めました。私講師時代を含めると、約45年間になります。
正教授になったあとも、講義の負担は相当なものでした。週に4日、1日7時間から9時間、水曜日と土曜日は8時間から10時間の講義があり、さらに土曜日の朝7時から8時まで復習の講義も行われました。
今考えると驚くべき数字ですが、カントは当たり前のようにこなしていたそうです。私講師時代から引き続いて、カントは論理学、形而上学、数学、物理学、自然地理学、人間学など、幅広く講義をしています。
60歳を超えて、初めて自分自身の家を持つことができました。家は立派なもので、2階建てで8つの部屋を備えていました。1階には講義室もありました。当時の大学教師は自宅でも講義を行っていたからです。他には使用人の部屋、2階には寝室、食堂、書庫、客間、書斎がありました。使用人は屋根裏部屋で寝ていたそうです。
カントは生涯独身でを貫いています。部屋は質素で、家具も最小限、蔵書もほとんどありませんでした。カント自身は本を所有しない人でした。蔵書のほとんどは他人から寄贈されたものでした。
60歳を超えたカントの生活は以下のとおりです。晩年になると、講義時間は週9時間程度に減少しています。
・朝5時に起床し、着替えて書斎に入り、紅茶を2杯飲んで勉強を始めます。
カントは1日1食が健康に良いと考えていたため、朝食は取りませんでした。
・午前7時に講義を開始します。受講生は80人から100人ほどです。
・午前の講義が終わると、午後1時に昼食を取ります。
カントにとって1日1食の昼食は唯一の食事でした。一人で食事をすることは良くないと考えていたため、カントは決して一人で食事をしませんでした。食事の参加者は、3人以上9人以下が良いと言っています。ただしカントの家には食器が6人分しかなかったため、最大で5人までとなりました。
食事中は会話を楽しみますが、哲学などの重いテーマは避けられました。食事中に難しいことを考えると健康に悪いと信じていたからです。カントの好物は鱈とチーズで、飲み物はワインで、ビールは健康に良くないと飲みませんでした。
食事とおしゃべりの時間は長く、講義の有無によっても異なりますが、夕方の4時から5時まで続くこともあったそうです。
・そのあとは有名なカントの散歩の時間です。
午後7時に散歩するカントを見ることで、人々は時間を把握していたと言われています。それぐらい散歩の時間は正確でした。
散歩は一人で行いました。友人と一緒に散歩することはありませんでした。誰かと一緒だと会話をしなければならず、会話によって外気が口から入ることは、健康に悪いと考えていたからです。どんな天候でも散歩することが健康の秘訣である、とカントは書いています。
・散歩のあとは、軽い読書をして過ごし、夜10時にはベッドに入ります。
理想的な睡眠時間は7時間と考えていました。カントは身長が157センチと小柄で、虚弱な体質でした。そのため彼は健康に気を使い、規則正しい生活を心掛けていたのです。
以上が哲学者カントの生活になります。カントの几帳面な生活ぶりは有名ですが、私たちの日常生活とそれほど大きな変化はないのかもしれません。
カントは正教授になったあと、10年以上も何も書かなくなりました。私講師時代にはたくさんの著作を執筆したカントですが、正教授になると安定した生活が訪れたことで「勉強をやめたのではないか」と陰口を叩かれました。
しかし、そうではありませんでした。カントは非常に困難な問題に取り組んでいたのです。これまでの哲学を根本から覆すような哲学を構想していたのです。
1781年、カントが57歳のときに、11年の沈黙を破って『純粋理性批判』を発表します。そのあとも、重要な著作を次々と生み出しました。
『道徳形而上学原論』(61歳)、『純粋理性批判』第2版(63歳)、『実践理性批判』(64歳)、そして『判断力批判』(66歳)です。
まさに疾風怒濤の勢いです。
しかし70代になると、カントのエネルギーも急速に衰え始めます。
72歳になると体力が持たず、講義を行うこともできなくなります。1796年の夏が、最後の講義となりました。1798年に『人間学』を出版しましたが、これが最後の著作です。
1801年11月には、大学に退職届を提出しています。77歳になったカントは、文章を書くことさえできなくなっていました。退職届は知人に書いてもらい、カントは署名するだけでした。
そのあとカントは数年間生き続けましたが、老化は進み、友人が誰かも分からなくなります。再会を喜び、抱きしめる友人に対して「あなたは誰ですか?」と尋ねたそうです。
あの天才のカントも老いてしまったのです。
人生の意味が分かるまで、人間は時間がかかります。若い時には理解できなかったことも、年を取ると分かるようになります。しかし、そのときには老いが始まり、死ななければなりません。人間の切なさについて、カントはとても残念そうに書いています(『人類の歴史の臆測的な起源』)。
老いたカントは耳もよく聞こえず、目もよく見えず、一人では歩くこともできない状態になってしまいました。妹が共に暮らし、彼の介護をしています。
そして1804年2月12日の午前11時、老衰によってカントは亡くなりました。享年79歳、あと2ヶ月で80歳でした。
生涯独身を貫いたカント。特筆すべき浮いた噂もなく、修道士のような生活も送っていません。料理にはうるさく、服装にも気を使いました。彼は哲学とおしゃべり、散歩を楽しみ、自分なりに人生を満喫したと言えるでしょう。
冨田恭彦(2017)『カント入門講義: 超越論的観念論のロジック』筑摩書房
- 著者
- 恭彦, 冨田
- 出版日
カントは西洋哲学の巨人として知られますが、彼の理論は難解で理解しにくいものです。本書では、冨田恭彦先生がカントの主要な著作や資料を読み込み、カントの思想を平明な筆致で解説されています。カントがどうして「物自体」と「現象界」という二元論を採用したのか、またその二元論がどういう意味を持つのかが詳しく説明されています。カントの哲学を初めて学ぶ人や、カントの思想に興味がある人にオススメです。
高峯一愚(2022)『カント講義』論創社
- 著者
- 高峯一愚
- 出版日
本書ではカントの代表作である『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』を分析しており、カントの思想が分かりやすく解説されています。高峯一愚先生は、日本カント協会の委員長を務められ、カントの『純粋理性批判』などの翻訳を手掛けています。高峯先生は豊富な実例や図解を交えて、カントの難解な用語や概念をわかりやすく説明してくれています。原著を読む前の助走としてオススメです。
御子柴善之(2015)『自分で考える勇気 − カント哲学入門 』岩波書店
- 著者
- 御子柴 善之
- 出版日
本書ではカントがどうして「世界平和」を目指したのか、またそのためにどんな理論を展開したのかが、わかりやすく説明されています。カントの主要著作である『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』『永遠平和のために』を一緒に読み進めることで、カントの思想を効率よく理解することができます。早稲田大学の教授である御子柴先生が高校生を対象に執筆したのが本書になり、カントの人生に関しても興味深く知ることができます。