経済学の父と称されるアダム・スミスの名前は、時代を超越し、現在の資本主義を理解するための基礎となっています。 現代の経済学にも多大な影響を与えるスミスは、どのような人生を歩んだのでしょうか。 スコットランドの小さな町から始まり、世界の経済理論を揺るがすほどの業績を打ち立てた、スミスの人生を見ていきたいと思います。

アダム・スミスは1723年にスコットランドのカーコーディという町で生まれました。
具体的な誕生日は分かっていませんが、洗礼を受けた日は6月5日でした。スミスは同じくスコットランドのエディンバラで1790年の7月に亡くなります。そのときの年齢は67歳でした。
スミスの父親は、スミスが生まれる前に亡くなっています。父親は弁護士で税関の役人で、母親は地方の名家出身でした。父親がいなかったため、スミスは母親の手で育てられました。
スミスは生涯独身で、ほとんどの時間を母親や従姉と一緒に過ごしました。スミスの母親は1784年に、スミスが61歳のときに90歳で亡くなりました。
カーコーディは当時、人口約1500人の港町でした。スミスは地元の小学校を卒業後、14歳でグラスゴー大学に入学しています。スミスは17歳で大学を卒業し、そのあと奨学金を得て、イングランドのオックスフォード大学に入学しました。スミスは23歳まで、大学に在籍しています。
6年間生活したイングランドに、スミスはとことん失望します。
スミスがスコットランド出身であったため、イングランド人から差別を受けたことが大きな理由のようです。スコットランド人にとってイングランドは、あまり住みやすい場所ではありませんでした。哲学者のヒュームも後年、定住先を探しているときに「パリが一番良いところだが、それでも外国。ロンドンは都会だが、スコットランド人には冷たい」と述べています。最終的にはヒュームもスミスも、スコットランドで晩年を過ごし、そこで亡くなりました。
当時のオックスフォード大学の退屈さにも、スミスはうんざりしていたようです。
オックスフォードは古い大学で、その古い伝統を持っています。古典的な学問が大切にされ、教師たちのプライドは高い一方で、新しい学問には興味を示していません。学問をアップデートする気もなく、昔ながらの方法をそのまま続けていました。この大学でスミスは何も学べなかったのです。
スミスは後年、オックスフォードに対してある種の報復を行いました。彼は『国富論』のなかでこのように述べています。
「オックスフォードの教師たちは何も学んでいない。だから、講義ができない。講義には準備が必要だが、オックスフォードの教師たちはそれを嫌う。しかし、それには一つの手がある。「外国語の本を購読する」ことだ。ラテン語やギリシア語の本を教材にし、学生にそれを翻訳させる。教師は学生よりも語学力があるから、学生の翻訳の間違いを時々直してやればいい。それだけで十分なのだ」
教員たちの語学力は学生よりもあるため、学生の翻訳が間違っていたらときどき直してあげるだけで、教員はそれ以外の仕事は何もしませんでした。ただただ教員が楽をするための方法です。「こんなもの本当の授業とは言えない」「教えているように見せかけているだけだ」と、スミスは書きました。そして、さらに付け加えます。
「オックスフォードの教師たちは、今では、教えているように見せかけることさえやめてしまった」
この主張が収められている『国富論』は有名になり、当時のヨーロッパでよく売れました。この本のおかげで、オックスフォードの教員がどんなにひどいのか、ヨーロッパ中の人が知ることになります。
ベンサム(1748年~1832年)という有名な哲学者がいますが、彼もオックスフォードについて「私の人生で一番無駄な時間だった」と書いています。「オックスフォードでは学問をすることは絶対にできない」とさえ言い切っています。スミスだけではなく、のちの大物が口を揃えて批判するぐらいなので、やはりオックスフォードはとてもひどかったのでしょう。
しかしオックスフォードもちょっとした仕返しをしています。スミスが学者として有名になっても、大学は彼に博士号をあげませんでした。
スミスはオックスフォードの教員がダメになった理由を分析しています。
それは給料制度のせいだと言いました。教員は固定給をもらいます。受講生が多くても少なくても関係ありません。学生がつまらない授業でも関係ありません。何でもいいから授業をやってさえいれば給料をもらえます。これが最大の問題である、とスミスは言いました。
客が来なければ、店は潰れます。客が入らなければ、音楽家は仕事がありません。売れない商品を作る工場は廃業します。これが普通の状態です。
大学も生徒の人気度によって、給料を上げ下げする。これがスミスの改革案です。イングランドの大学も同じようにすれば、少しは改善するだろうと言いました。しかも、スコットランドの大学はそのような給料が変動するシステムを採用しています。
「イングランドよりもスコットランドの大学の方が、良い授業をしていた」とスミスは自慢げに言っています。
1751年、スミスは23歳のときにオックスフォードから、故郷・スコットランドに戻り、仕事を探します。
貴族の家庭教師を目指しましたが、競争が激しくて無理でした。そんな就職活動中のスミスは、一般の人を対象にした英文学の講義をしました。今でいう市民大学講座みたいなものです。
これが評判になったスミスは、母校グラスゴー大学の教員になりました。28歳のときです。スミスは母親や従姉と共にグラスゴーに移住し、一緒に生活しました。今のグラスゴーはとても大きな町ですが、当時は人口が2万人ほどで、大学の学生は300人ぐらいでした。
教員の給料は大学からもらう「固定給」と、学生からもらう「受講料」で成り立っていました。授業の内容や面白さ、学生の評価が収入に直結するシステムです。
固定給はお給料の4割程度なので、受講生が増えたり減ったりすると、収入も大きく変わります。先生の月給を50万円だと仮定すると、固定給は20万円で、残りの30万円は受講生から集めないといけません。新しい学期が始まると、先生が学生を集めます。
一般の講義は値段が決まっていて、演習はもっと安かったようです。登録した学生が先生にお金を渡すシステムになるため、学生が授業を休んだ場合には授業料を返すか、あるいは補習をしなければいけませんでした。当時の支払いは紙幣ではなく銀貨でした。銀が少ない偽物の銀貨で払う学生もいたため、教室で学生からお金をもらうときに、重さを秤でチェックしていた教員もいたそうです。
先生としてのスミスはとても忙しく過ごしました。
講義は毎週月曜から金曜まで、毎日午前7時半から8時半まで。そのあと毎日午前11時から試験が行われました加えて週に3回は特別講義を開催していました。そのため週に15回ぐらい授業をしていたと思われます。
今の日本の大学では、1人の教員が週に5回ぐらい授業をします。3回の人もいるので、いかにスミスが大変だったのか分かります。
スミスの講義のテーマは広範囲に及び、論理学、文学、法学、道徳哲学(経済学はその一部)を教えていました。カントやヘーゲルと同じように、当時の哲学者は数学から物理学、経済学まで、あらゆる分野を担当していたのです。スミスが書いた論文なかには「天文学の歴史」や「古代の物理学の歴史」があります。
授業で忙しい勤務の合間に、スミスは研究を続けます。
1759年、36歳の時に『道徳感情論』を出版。この本は大成功を収め、スミスの名声も高まります。その結果、ある有力な貴族から子供の家庭教師として働くように頼まれます。貴族の要求は、子供の大陸旅行に同行してほしいというものでした。
家庭教師の条件は年収300ポンドと、帰国後は終身年金として年収300ポンドです。
スミスのグラスゴー大学での収入は、良い年で年収300ポンド、悪いときは150ポンド程度でした。平均して年収170ポンド程度だったと考えられています。また当時、裕福な貴族の子供たちを自宅に下宿させる、という習慣がありました。スミスは、その滞在費で年収100ポンドを得ています。スコットランド人の平均年収(当時)は、約40ポンドだったため、彼はかなりの収入を得ていたことになります。
大学教師というのはとても忙しく、毎日講義を行うのは、なかなか大変です。またスミスにとって外国旅行は魅力的で、そのなかでもフランスの知識人たちに会うのは楽しみでした。終身年金300ポンド(!)という条件も、もちろん魅力を感じていました。
この時代には公的な年金制度などもちろんありません。その代わりとして、貴族や王が個人的に気に入った人物に年金を支給していました。しかし、あくまでも私的なものになるため、王や貴族が衰退すると年金も終わります。庶民にとってはあまり関係のない話かもしれません。
そういうわけで、スミスはグラスゴー大学を辞めます。1764年1月、40歳のスミスは若き貴族(18歳)と一緒に、フランスへ旅立ちます。帰国は1766年の11月で、事故があったため予定より早かったそうです。スミスは43歳になっていました。
旅の途中、ジュネーブでは憧れのヴォルテールと会えました。パリではケネーやチュルゴーなど、著名な経済学者たちと交流しています。パリのサロンの常連にもなりましたが、なにかスキャンダルを起こすといった話はありませんでした。
帰国後は故郷のカーコーディに引きこもり『国富論』の執筆に専念しています。『国富論』が出版されたのは、約10年後の1776年になり、スミスが53歳の時でした。
生涯にわたって、スミスは2冊の本しか出版していません。1759年の『道徳感情論』、そして『国富論』だけです。この2冊の改訂に、スミスはエネルギーを注ぎました。『国富論』は死の前年(1789年)までに、第5版を重ねています。『道徳感情論』は亡くなる数ヶ月前に、第6版を出版しました。この2冊はどちらも傑作と評価されており、ヨーロッパ各国の言語に翻訳され、出版されました。
その意味では、彼は幸福な学者としての生涯を送ったと言えるでしょう。
1777年、スコットランドの税関委員に任命され、翌年にエディンバラに赴任。これは高級官僚の職で、それほど多忙な仕事ではなく、年収は600ポンドと高収入でした。これに加えて300ポンドの終身年金がつきます。54歳になったスミスは、このときも母や従姉たちと共に生活しています。
王侯貴族並みの生活ができる収入ですが、スミスの生活そのものは質素でした。お酒や女性に使うわけでもなく、特別な趣味もありませんでした。ギリシャ・ローマ時代の古典を読むのが唯一の趣味だったようです。
母や従姉、そして親友で哲学者だったヒュームも先に亡くなってしまいます。
1790年7月、フランス革命が拡大する報道を聞きながら、スミスは亡くなりました。享年67歳。
死を悟ったスミスは、今までのノートや草稿の大部分を焼却しています。
カトリーン・マルサル(2021)『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か? これからの経済と女性の話』(高橋璃子訳)河出書房新社
- 著者
- ["カトリーン・マルサル", "高橋璃子"]
- 出版日
本書は、経済学の現行理論とその影響について深い洞察を語られています。本書の著者でカトリーン・マルサルは、経済学がどんなに私たちの生活に影響しているかを率直に問いかけ、男性中心的で自己中心的な「経済人」のモデルが人間の豊かさを捉え切れていないことを教えてくれます。
アダム・スミスの議論からスタートし、彼が研究を続けるために頼りにした家事やケアの営みの重要性を目を向けさせ、その価値が現行の経済学によって違って無視されてきたことを気付かせてくれます。また、経済学の自己中心的な一面を教えてくれる話として、ローレンス・サマーズの有毒廃棄物に関する発言を紹介します。
この本の魅力は批判に終始するのではなく、作者が新たな経済学の考え方において、ケアや自然、感情を中心に据え、金銭以外の価値を認識することが大切だと教えてくれる点にあります。この著者の姿勢によって、私たちの日常生活の問題がより明確に理解され、豊かな生活を追求する勇気を得ることができます。
中村隆之(2018)「はじめての経済思想史 アダム・スミスから現代まで」講談社
- 著者
- 中村 隆之
- 出版日
青山学院大学経済学部教授の中村隆之さんが著した、経済学の歴史をわかりやすく解説した書籍になります。本書では、アダム・スミス、ミル、マーシャル、マルクス、ケインズなどの有名な経済思想家が、どのように現実の経済問題に取り組んできたかを紹介しています。
本書のテーマは、「よいお金儲け」と「悪いお金儲け」の違いです。経済学の本質は「よいお金儲けを促進し、悪いお金儲けを抑制することだ」と、著者は主張しています。よいお金儲けとは、社会全体の幸せやサステナビリティに貢献するお金儲けのことで、悪いお金儲けとは、自分だけの利益や短期的な利益を追求するお金儲けのことです。
経済学の歴史を通して、私たちが今直面している経済問題について考えるヒントを与えてくれる本になっています。
ジェシー・ノーマン(2022)「アダム・スミス 共感の経済学」(村井章子訳)早川書房
- 著者
- ["ジェシー・ノーマン", "JESSE NORMAN", "村井 章子"]
- 出版日
イギリスの保守党の国会議員であるジェシー・ノーマンさんが著した、アダム・スミスの評伝と思想解説の本です。
アダム・スミスが「利己主義の擁護者」や「自由放任の信奉者」といった神話を打ち破り、経済学だけでなく政治学や倫理学などにも影響を与えた「人間の科学」を展開したことを本書は紹介しています。
アダム・スミスを理解するためのキーワードとして、本書では「共感」をあげています。 アダム・スミスは、「共感」を人間の社会性や道徳性の基礎と考えました。「共感」は市場や経済活動にも必要な要素であり、よいお金儲けと悪いお金儲けの区別にも関係しています。
アダム・スミスの思想を現代的な視点から読み解き、格差やグローバル化などの課題に対するヒントを提供してくれる一冊になっています。