私たちは、民主主義社会に生きています。 民主主義とは、人々が自分たちの意思で政治や社会に参加し、自分たちの運命を決めることができる制度です。 民主主義は、人々に自由や平等や人権を保障するとされています。 しかし、民主主義には限界や危険性もあります。 民主主義においても、多数派や権力者によって少数派や異端者が抑圧されることがあります。 また、民主主義においても、個人の自由が社会の規範や世論によって侵害されることがあります。 このような問題に対して、どのように対処すべきでしょうか? 今回の記事では、ミルの哲学を『自由論』を中心に説明したいと思います。 ミルを知ることで、民主主義社会における個人の自由と責任について、深く考えることができるでしょう。

ミルといえば『功利主義』と『自由論』です。『自由論』は、ミルが53歳(1859年)のときに出版されました。妻ハリエットを失った翌年になります。
『自由論』のテーマは、タイトルの通り「自由」です。
近代の歴史とは、まさに自由を求める歴史です。自由とは、拘束のない状態のことです。では、何からの拘束を排除しようとしたのでしょうか。
それは、社会(市民)が王侯貴族の専制から自由になろうとしたことです。
前近代の社会は身分制の社会で、王と貴族が支配し、庶民はその権力に服従していました。王侯貴族はお金が必要になると、農民や商工業者に税金を課し、払わない人々を処罰します。王の権力を批判する人々がいれば、政治権力はそういう人々を自由に逮捕・投獄しましたし、場合によっては処刑することもあります。
王の行動を最終的に制限する力はなく、王は自由気ままな意志で思い通りのことができます。
少し単純に書くと、これが前近代社会の姿でした。
「自由とは何か」と問うこと自体、庶民にとってはありえなかったのです。
しかし経済活動が活発になると、市民(商工業者)の力が強くなります。経済力をつけた市民たちは、王の権力を制限しようとしました。
「議会の承認がなければ、王は勝手な行動をとれない」という政治の仕組みもでき上がります。
王はこの仕組みに反抗しますが、しかしイギリスのような商工業の発達した国では、王も議会と法を無視して勝手な行動が取れなくなります。
「自由とは、政治的支配者たちの専制から身を守ることを意味していた」と『自由論』には書かれています。市民は政府の権力を制限し、自分たちの身を守ろうとするのです。政府の権力は制限されなければならない。
これが「自由のための闘い」なのです。
政治に関して、イギリスにはある前提があります。
「政治は私たち庶民と関係のない世界である」という前提です。「政治は高貴な生まれの人々や貴族たちの仕事であり、無教養な庶民が手を出すべきではないという」考え方があります。
庶民は商売をし、政治はエリートの仕事という風潮があったのです。ジョン・ロックやアダム・スミスの政治哲学にも、このような発想が底流として流れています。
庶民から見れば、別世界にある政治権力は鬱陶しいものです。「私の商売の邪魔をするな、あっち行け」という感覚になります。この感覚から「自由とは政治的支配者たちの専制から身を守ることを意味していた」という言葉が生まれてくるのです。
私たち庶民は貴族たちの仕事、つまり政治の邪魔をしないようにしましょう。だから「貴族の皆様も私たちの仕事、つまり商売の邪魔をしないでください」ということなのです。
しかし、世の中は変わります。
市民たちは、政治はもう自分と違う世界の人間がやることだとは思わなくなります。自分たちが選挙で支配者を選ぶのが当然だと感じるようになるのです。そして「選挙による“期限付き”の支配者」を当たり前だと考えるようになります。
こうなると話は少し変わってきます。
過去の政治(政府)は「彼ら」の世界であり「私たち」の世界ではありませんでした。だから、彼らの行動をできるだけ“制限”しようという話になります。
しかし、民主主義の時代になると話は違ってきます。
政府は「私たち」であり、私たちが「政府そのもの」になります。自分たちが支配者を期限付きで選んでいるからです。他人の権力であれば、できるだけ制限したいと思います。そうでないと自分が不利益を受けます。
しかしながら、自分の権力であればどうでしょうか。制限したいと思うでしょうか。そんなことはありません。自分の権力であれば、無制限に使用したいと思います。
そのため民主主義にはたくさんの課題があるにも関わらず、民主主義の偉大さを叫び続けることになります。
「人民の権力、人民の意志は万能である!」「 人民の意志を制限しようとするのは反動的な行為である」
このように民主主義の考え方が広がってくると、もう誰も政治権力の制限を言わなくなります。
しかし「民主主義の危険性に無自覚になるのはとても危険なことである」と、ミルは警鐘を鳴らします。
「権力を行使する『民衆』は、権力を行使される民衆とかならずしも同一ではない。また、いわゆる『自治』とは、各人が各人によって治められることではなく、各人が他のすべてのものによって治められることである。さらに民衆の意志とは、実際には、民衆のなかでもっとも活動的な部分の意志、すなわち多数者あるいは自分たちを多数者としてみとめさせることに成功する人びとの意志である。したがって、民衆がその成員の一部を圧迫しようとすることがありうるのであって、これにたいしては、他のあらゆる権力の濫用にたいしてと同様、十分な警戒をはらう必要がある」
上記の言葉は『自由論』第1章から引用したものです。とても深いメッセージだと言えるでしょう。
民衆の権力とは、必ずしもすべての人々の意志を反映しているわけではありません。多数派(マジョリティー)や、活動的な少数派の支配する意志である場合もあります。
民衆の権力は、自分たちと異なる考えや価値観を持つ人々に対して、不当な圧力や差別を加えることがあります。
そのため民衆の権力にも、ほかの権力と同じように、適切な監視や制限が必要です。
ミルが恐れていたのは、政府や法ではなく、世論だったのです。人間の行動を規制する力は2つあります。1つ目は法律、2つ目は世論です。
まず法律によって人々の行動が規制されます。例えば、泥棒をすれば罰が与えられるし、交通違反にも罰があります。人々に罰を与えるのが法律の仕事です。しかし、法律で人々の行動をすべて監視し、処罰することはできません。そうなると無限の法律が必要になってしまいます。当然、人々は反発するでしょう。
例えば、公共の場で裸になると罰があるでしょうが、自室で何をしようと罰はありません。法律は個人の私生活の奥深い部分には入り込みません。これが近代のルールです。
しかし、世論は違います。世論、すなわち人々の視線は、大変厳しいものがあります。法律的には問題のないことでも、私たちの行動を厳しく監視し、非難することがあるからです。それが世論の特徴です。
「『誰もしないこと』をすると言って、あるいは『誰もがすること』をしないと言って非難される男性は、そして女性ならばなおさらのこと、彼あるいは彼女が何か重大な道徳的過失を犯したかのように、軽蔑の言葉の対象となる」と、ミルは『自由論』で述べています。
ハリエットとの交際(不倫)に対して、ミルは世間から厳しいバッシングを受けました。彼は世論に逆らい、多くの友人(知人)さらには兄弟たちとの関係も断ち切りました。
この文章を書いたとき、ミルには世論への怒りがあったはずです。
実際に世論は、法律(政府)よりも恐ろしいものです。
「社会は多くの種類の政治的圧迫よりもさらに恐れるべき社会的専制を形成することになる。なぜなら、社会的専制は、通常、政治的圧迫の場合ほど重い刑罰によって支えられているわけではないが、はるかに深く生活の細部に食い込んで、魂そのものを奴隷にしてしまい、これから逃れる手段をほとんど残さないからだ」
ネット社会になって世論の暴走は、ミルの時代よりもますますひどい状況になっています。法律は見逃してくれることがありますが、世論は決して見逃してくれません。どこまでも追いかけ、人々を追い詰めるのです。
では、この世論の正体は何でしょうか?
ミルによれば、アメリカでは白人、イギリスでは中産階級(ビジネス階級)が世論の主役です。凡庸である彼らは「自分たちと異なる行動をする人々」や「異なる考え方をする人々の存在」を許しません。
「出る杭は打たれる」という考え方です。凡庸な人々は、優れたものを低くすることで安心します。例外的なものを許容しないのです。
「自分自身の幸福を、自分自身のやり方で追求する自由」を認めるべきだと、ミルは警告しています。
しかし、世論の専制は広がるばかりです。
「ヨーロッパは、すべての人を一様にするという中国の理想に向かって、はっきりと進みつつある」と、ミルは書いています。人々は同じものを読み、同じものを聞き、同じものを見、同じ場所に行き、同じ対象に希望と不安を向け、同じ権利と自由を持ち、それらを主張する同じ手段を持っていると述べています。
まさに現在のSNS社会そのものではないでしょうか。
世論と凡庸な人々を非難するミルの言葉には、もうほとんどニーチェと同じ響きがあります。
大衆社会を嫌う人々は、英雄を待望しています。超人を待ち望んでいます。ミルが待望するのは「例外的な個人」の出現です。個性的な人間、例外的な人間が社会の進歩を切り開くのだとミルは書いています。
「まさにこのような状況においてこそ、特に例外的な個人が、大衆と異なった行動を取ることを、引き留めず、奨励されなければならない」
ミルの『自由論』には、注意すべきところがあります。一種のエリート主義があるところです。
「自分自身の幸福を、自分自身のやり方で追求する自由」が「自由の基本」だとミルは考えます。しかし自由を権利として認められるのは、啓蒙された人々だけです。
文明以前の段階にある未開人、無教養な人間に「自由の資格はない」とミルは書いています。
「専制政治は、その目的が彼らの向上にあり、そしてその手段が、その目的を実際に達成することによって正当化される限り、未開人を扱う正しい方法である(『自由論』第1章)」
これは間違った理屈です。イギリスのような文明国が、未開人を支配する目的は「未開人の幸福」ではありません。イギリスの経済的利益のために未開人を支配するのです。利益がなくなると思えば支配を放棄します。文明化という使命が達成されたからではないのです。
ミルの主張は家族(親)にも及びます。無教養な親に対する国家の介入です。
「身体のために食物を与えるだけでなく、精神のために教育と訓練を与えることができるという大きな見込みがないのに子供を産むのは、不幸な子供と社会との両方に対する道徳的犯罪である(『自由論』第5章)」
つまり「子供にきちんとした教育を与える自信のない人間は子供を持つな」ということです。そのため「経済力のない人間が結婚するのを禁止する法律」は正しいと主張します。
ミルによれば、この禁止は「自由への侵害」ではありません。子どもに害を与えることを禁じるための法律なのです。だから自由に対する正当な規制なのです。また子どもに教育を与えることを怠っている親には罰を与えよう、罰金を取ろうとも書いています。
ミルには選挙権について独特の考え方がありました。
教育を受けた人々は1票ではなく、2票あるいはそれ以上の複数投票権を与えるべきだと主張しました。この主張は『代議制統治論』という本で述べられています。『自由論』の2年後に出版されたもので、ミルが55歳のときです。
ミルは『自由論』において「世論の専制」を批判しましたが、ミルによれば世論とは、イギリスの中産階級の意見です。
中産階級とはビジネス階級、すなわち「資本家階級」でした。教養のない階級ではありません。言ってみれば、凡庸な教養のある階級でした。この複数投票権の構想は、そうした凡庸な中産階級に対抗するためではなく、労働者階級をターゲットにしていたのです。
ミルは以下のように考えていました。
(1)あらゆる人が投票権をもつのは当然であるとしても、平等の投票権があるかどうかは別の問題である。
(2)この国における労働者の政治的知性の水準は低い。こういう人びとが選挙権をもち、彼らの意向を反映した議会(法律)ができると危険である。そういう法律は「階級立法」であり、教養と財産のある階級を標的にしたものとなる。
(3)それゆえに無教育な(しかし数は多い)人びとによる「階級立法」から教育ある人びとを防衛する必要がある。
(4)そのために一部の人びとには複数の投票権をあたえることにする。しかし人びとを区分するばあい、財産で区別せず知性で区別すべきである。
(5)大学の卒業生、高等教育機関の卒業生、知的職業についている人びと、彼らを複数投票権有資格者とし、登録する。
(6)これで無教養な人びとの数の力に対抗することができる。複数投票権の制度がみとめられないうちは、普通選挙制度を導入することはかえって有害である。
ミルはこのように主張しています(『代議制統治論』第九章)。
ミルは自由の闘士であった一方で、極めてエリート主義の強い思想を持っていました。
彼が世論の専制への批判を展開するときでも、そのエリート主義の傾向を垣間見ることができます。大衆社会への批判者には、どこかエリート主義を唱える人が多いものです。
「功利主義」について述べた本でも、ミルは快楽(幸福)に高級なものと、低級なものがあると論じていました。読書や音楽から得られる快楽と、セックスや酒から得られる快楽は同じではないと、彼は考えていました。
そして功利主義は「教育によって高級な快楽を求める人間を創り出すことを目指している」と書きました。
しかし問題は「何が高級な快楽であり、何が低級な快楽であるのか」です。そして、その基準を判断するのは誰かになります。
ミルにとって、この答えは明確です。低級な快楽しか知らない無教養な人には、高級な快楽を判断する資格はありません。
低級と高級の両方を経験した人間、すなわち知識人が最終の判断者である、とミルは考えていました。低級な欲望は容易に満たすことができますが、高級な欲望を充足させることは困難です。
「満足した豚であるよりは、不満足なソクラテスであれ」とミルが書いたのは、このような文脈からなのです。
ジョン・スチュアート・ミル(2012)『自由論』(斉藤悦則訳)光文社
- 著者
- ["ジョン・スチュアート ミル", "Mill,John Stuart", "悦則, 斉藤"]
- 出版日
国家の価値は、国家を構成する人々の価値によって決まる、とミルは考えています。人々の価値とは「知的に成長することで、自分の考えや生き方を自由に表現できること」です。しかし国家が人々を単なる道具として扱い、個性や活力を奪ってしまう制度や政策を採用すると、国家自体も衰退してしまいます。人々の幸福を目指すならば、国家は人々の自由を尊重し知的に成長する必要がある、とミルは主張します。『自由論』には、岩波書店と光文社があります。光文社のほうが新しい翻訳になり、解説も充実しているため、初心者の方は光文社がいいかもしれません。
児玉聡(2016)『功利主義入門 ー はじめての倫理学』筑摩書房
- 著者
- 児玉 聡
- 出版日
功利主義という倫理学の理論について、わかりやすく解説した入門書です。功利主義の歴史や主な思想家、現代社会での応用例などが紹介され、倫理学を学ぶことの意味や方法が説明されています。倫理学に興味がある人だけでなく、日常生活や社会問題について考える人にも役立つ内容です。著者の児玉聡先生は、功利主義に対する一般的な誤解や批判に対して、丁寧に反論しています。功利主義が人間の尊厳や権利を無視する思想ではなく、人間の幸福を最大化するため、人間の多様性や自由を尊重することの重要性を説いています。功利主義について知りたい人や、自分の倫理観を確かめたい人に本書はおすすめです。