5分で分かるヒュームの人生|人生は家計簿!?大学教授にならなかった孤高の天才|元教員がわかりやすく解説

更新:2026.5.23

デイヴィッド・ヒュームは、1711年にスコットランドで生まれ、1776年に亡くなりました。 65歳で亡くなり、死因はガンでした。彼は無神論哲学という嫌疑のため、大学での職を得ることはできず、哲学者としてペン1本で生計を立てました。 死の数ヶ月前に、ヒュームは独特な「自伝」を書きました。この自伝は、哲学や自らの思想を語るものではなく、半ば会計簿のように、人生の収支決算表のような内容でした。稼いだお金の詳細について詳しく書かれており、そのためヒュームはお金ばかり考えていた、という悪評も立ちました。 しかしながら、この会計簿のような「自伝」こそ、ヒュームの「哲学」そのものが表現されているのです。 今回の記事では、この「自伝」を参考にしながら、ヒュームの波瀾万丈な人生を見ていきたいと思います。

大学院のときは、ハイデガーを少し。 その後、高校の社会科教員を10年ほど。 身長が高いので、あだ名は“巨人”。 今はライターとして色々と。
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エディンバラでの学生時代、仕事の失敗

ホッブズやロックが生きたイギリスは、それなりに大変な時代でした。革命や内乱を経験し、そのとばっちりを受けて、彼らは亡命生活も経験しています。

ホッブズは10年ほどパリに逃げ込み、ロックは6年近くオランダで亡命生活を送りました。国王側の人間はフランスに逃げ、反国王側の人間はオランダに逃げる、当時のイギリスでは普通だったのです。

アダム・スミスやヒュームが生きたイギリスは、国内の混乱は収束し、平和で安定した時代でした。18世紀のイギリスは、新しい時代に合わせた政治・経済構造を築き上げ、産業革命の真っ只中に位置していました。この新しい時代は、工業と都市が中心となる時代で、牧歌的な田園生活は終わりを迎え、企業家の時代が始まりました。

近代社会が始まり、まさにヒュームやスミスの時代でした。

ヒュームは1711年にスコットランドのエディンバラで生まれました。12年後には、スミスもこの近くの町で生まれました。ヒュームの家族は地方の小貴族で、弁護士業を営みながら領地も所有していました。彼の家は名家でしたが、裕福ではなかったとヒュームは述べています。さらに彼は次男であり、父親の財産は長男が相続するため、ヒュームは自分の生活を自分で築き上げる必要がありました。

そのため、自分で生計を立てることが彼の生涯の基本的な目標となりました。デカルトのような裕福な背景から来ているわけではないので、お金のことを考えるのは当然だと彼は考えていました。ヒュームは12歳でエディンバラ大学に入学し、兄と共に普通の学生生活を3年間送りました。これは当時の一般的な学生の経歴でした。大学を卒業後、しばらく故郷で過ごした後、22歳でスコットランドを離れ、イングランドのブリストルという港町に移住しました。そこで彼は砂糖商人の会社で事務員として働き始めました。

執筆生活の光と影

ヒュームは、事務員としての仕事に向いていなかったようです。半年で仕事を辞め、フランスへと旅立ちました。彼の父親が亡くなった際に、少しの遺産を受け継いでいました。その遺産を頼りに、フランスの田舎でしばらく生活できるのではないかと考えたようです。若いころから哲学に興味を持っていたヒュームは、フランスで哲学の本を書くことを決意しました。素晴らしい作品を書けば、名声を得られるし、筆で生計を立てることもできるのではないかと思ったのでしょう

「少年よ大志を抱け」という言葉のように、彼はまだ20代半ばでした。フランスの田舎で3年間過ごし、その間に彼の代表作『人間本性論』を完成させました。26歳の秋、1737年に、ヒュームさんは元気にイギリスに戻り、ロンドンで出版社を探しました。

少し苦労しましたが、1739年に『人間本性論』が出版されました。初版は1000部でした。この本はヒュームの代表作として知られていますが、それは後の世代がそう評価しているだけです。実際には、この作品は全く売れず、誰も注目してくれませんでした。さらに、この1000部はヒュームが生きている間には売れ切れなかったと言われています。失意の中、ヒュームさんはロンドンを離れ、故郷のスコットランドに帰って再起を誓いました。

ヒュームは執筆の方向性を少し変えます。硬い哲学や学術的なテーマから、もう少し柔らかいテーマにシフトし『道徳・政治論集』を出版しました。これは彼が30歳の頃のことです。この本はエッセイの集まりで、現代で言うところの政治評論、文芸評論、社会批評、世の中の動向についての診断、教育に関する評論などが混ざった内容となっています。

政治、経済、文化をテーマにしながら「愛情と結婚について」や「破廉恥と謙虚について」といったトピックも取り上げています。現代のイギリスの社会を冷静な視点で評論したものです。この本は大変な人気を博し、多くの人々に読まれました。

商業的な戦略の一環として、これらの本をヒュームは匿名で出版しました。ただ関心を持つ人々の間では、ヒュームが著者であることが知られるようになり、彼の名声は一気に高まりました。

大学教授の話があったが…

この本の成功によって、ヒュームはかなりの収入を得ました。

エディンバラ大学の教授職を得るチャンスが訪れましたが、無神論者ではないかという疑念が生じたため、大学職のポストには就けませんでした。無心論者の疑惑はヒュームの人生に深く影を落とし、大学の職を得ることができなかったのです。当時の大学は宗教に敏感でした。

ヒュームはまだ30代前半であり、未来は不確かでした。そんな中、ある青年貴族から家庭教師のオファーを受けます。良い給料に惹かれて、彼はその仕事を引き受けることにしました。

しかし、その青年貴族は精神的な問題を抱えていた人物で、ヒュームの精神的な負担は相当あったはずです。しかし彼は耐えて、その傍らで研究や執筆を続けました。しかし1年ほどでヒュームは家庭教師の仕事を解雇されてしまいます。

それでも彼は「自伝」に「私の少ない資産は増えた」と書いています。

解雇されたあと、ヒュームは次の予定は何もありませんでした。

このとき遠縁の将軍からカナダ遠征軍への参加のオファーを受けたため、参加することにしました。彼の役割は兵士ではなく、将軍の秘書官でした。しかし、遠征軍はカナダではなく、フランスのブルターニュへと向かいましたが、目的の町の占領に失敗し、イギリスに帰国しました。

なんともいい加減な戦争で、ヒュームの給料も未払いとなりましたが、このあとイギリス政府から受け取ることができました。ヒュームはもうすぐ40歳を迎えるところでした。

ヒュームは将軍の秘書として、ウィーンやイタリアのトリノを訪れたりしましたが、そのあと10年間ほどは故郷で静かに過ごしながら、精力的に本を書き出版しました。

将軍の秘書として仕事で得た収入はかなりのものでした。「私は一人前の資産を築くことができた」と彼は述べています。具体的には、1000ポンドの資産を持っていたと言います。当時の執事の年俸は20ポンド、コックは12ポンドで、グラスゴー大学の教授の年俸は約150ポンドでした。これを考えると、ヒュームはかなりの額を稼いでいたことがわかります。

歴史書の執筆、フランスの巨人に評価される

故郷スコットランドにある兄の家で静かに過ごしながら、ヒュームは熱心に執筆を始めました。『人間本性論』の失敗は、内容よりもその分厚さや複雑なスタイルにあると、彼は考えました。たしかに『人間本性論』は非常に厚く、内容も複雑で難解な言葉を多用していました。「もっとシンプルで読みやすい本を書けば、受け入れられるのではないか」と考えます。

そこで「人間悟性に関する研究」や「道徳の原理に関する研究」というタイトルで2冊の本を出版しました。しかし成功せず、売れ行きは芳しくありませんでした。ヒュームはまた落ち込みます。ヒュームが学問的に自信作だ、と思った本は売れなかったからです。

むしろ同じ時期に出版したエッセイ集は好評を博し、そちらの方でヒュームの名前が広まりました。現代では『人間本性論』がヒュームの代表作とされていますが、彼の同時代ではエッセイ集でのヒュームがよく知られていました。

自分が真剣に取り組んだ作品が受け入れられない一方で、意外な作品が評価されることはよくあることです。

1752年にはエッセイ集『政治論集』を出版し、ヒュームが「初版で成功した私の唯一の著作」と述べているように、彼にとって特別な作品となりました。

同年ヒュームは、故郷エディンバラの弁護士協会の図書館長に就任しました。41歳のときです。給料は少なかったものの、多くの書籍を自由に利用できる点が魅力的でした。

彼はこの機会を活かし、イングランド史の執筆を計画しました。それは全6巻からなる大作で、第1巻は1754年に出版されました。しかし、この本は大きな失敗となり、1年でわずか45冊しか売れなかったと言われています。

この結果にヒュームは落胆しました。彼はもう若手ではなく、ある程度の名声も持っていたはずです。このときの失望をヒュームは「自伝」のなかで、こう綴っています。

「私は白状するが、がっかりしてしまった。もしこのとき、フランスとイギリスとの間に戦争が起きていなかったら、きっと私はフランス王国のどこか田舎町に身をひそめ、名前を変えてしまい、もう二度と祖国へは帰らなかったであろう」

しかし「失敗に強い」ヒュームは、続巻を出版し続けました。

8年後、51歳のときに全6巻を完成させました。ベストセラーにはなりませんでしたが、評価は少しずつ上がり、まずまずの成功を収めることができました。とくにフランスではヒュームの名声が高まり、文学界の巨人ヴォルテールが『イングランド史』を絶賛したのです。ヴォルテールからの賞賛は、非常に大きなことでした。そしてタイミングよく、ヒュームの下にパリへの招待が舞い込んできました。

パリのサロンでは注目の的に

イギリスのある貴族がフランス大使としてパリに赴任することになり、ヒュームも何らかの理由で秘書として同行することになりました。ヒュームはフランス、とくにパリをとても愛していました。「私はかつて、そこに永住したいと思ったことがある」と述べていますが、結局のところヒュームは外国での生活を選ぶことはありませんでした。

この時期は1763年のパリで、フランス革命が起こるまであと20年ほどの時代です。パリのサロンでは、百科全書派の哲学者たちが貴婦人たちと共に華やかな宴会を楽しんでいました。そして、当時のパリは「イギリス・ブーム」の真っ只中で、イギリス文化やスタイルが非常に人気でした。それは、明治時代の日本人が西欧を憧れの目で見ていたようなものです。ただヒューム自身の容姿は、中年の肖像画を見る限り、スマートとは言えないかもしれません。彼は少し太っており、肥満気味でした。

30代後半のヒュームについて「彼の全身におよぶ肥満体は、洗練された哲学者というよりも、亀の肉を食らう市会議員を連想させる」という言葉で描写されています。しかし、ヒュームは当時の有名人でした。体型が太っていても、彼の名声は高かったのです。

女性たちは有名人に弱く、パリの社交界でヒュームは多くの注目を浴びていたようです。おそらく、彼の人生で最も楽しい時期だったでしょう。そのなかで、ある侯爵夫人と親しい関係になりました。この夫人は大貴族の愛人でしたが、貴族の間ではそういった関係はあまり問題視されないようです。夫や愛人の数など、気にしない。気が合えば、関係が始まることもあるようです。

貴族同士の関係は、一般的に考えるよりも複雑で、その背景にはお金が関わっていることが多いです。お金が関与していない関係は、軽く、ストレスフリーであることが多いようです。

ルソーとの出会い

ヒュームと侯爵夫人の間に、ジャン=ジャック・ルソーが関わってきます。彼は『社会契約論』や『エミール』の著者で、当時のパリに住む「哲学者たち」からは好かれていませんでした。

ルソーは人付き合いが得意ではなく、精神的にも不安定な面がありました。彼は常に疑念を抱き、周りが自分を陥れようとしている、と感じることが度々ありました。そのため、彼は孤独で寂しい存在だったのです。

当時、彼の思想はフランスの国家にとって秩序を乱すものと見なされ、ヨーロッパ中で追われる身となっていました。この侯爵夫人はルソーの知人で、彼の面倒をヒュームに託し、イギリスへの帰国を手伝ってほしいと頼みました。

ヒュームはルソーに魅了され、その頼みを受け入れたのです。

ヒュームはルソーの世話をすることを決意し、1766年に彼を伴ってイギリスへ帰国しました。多くの友人たちはヒュームの決断に反対します。

「デイヴィッド、あなたはルソーを理解していない」と警告しましたが、ヒュームはルソーを信じました。ヒュームは非常に親切で、ルソーの住む家を探したり、彼に王からの年金をもらうよう頼んだりしました。

ルソーが都会を好まないことを考慮して、田舎の家を見つけ、召使いもつけてあげました。ルソーの愛人テレーズも一緒に住むための家を手配しました。王からの年金も順調に進められ、すべてが順調に見えました。

しかし、状況は急変しました。イギリスの新聞にルソーを批判する記事が掲載され、ルソーが抱える猜疑心が再び姿を現したのです。ヒュームの行動を「陰謀だ」と疑ったルソーは、ヒュームが自分を陥れるためにフランスの哲学者たちと結託していると考えました。

さらに、ルソーはヒュームが自分の愛人を誘惑したと疑い、怒りを爆発させました。その結果、ルソーはヒュームに絶交の手紙を送ります。驚いたヒュームは、ルソーの誤解を解こうと努力しましたが、ルソーの態度は変わりませんでした。

結局、彼は愛人とともにフランスに帰国します。ルソーの精神的な状態は不安定で、食事の際に出されたパセリを毒だと疑って食べられなかったと言われています。

かつて尊敬し合っていた二人は、最終的に「悪魔だ」「裏切り者だ」とお互いを非難し、関係が終わってしまいました。この二人の出来事は、ロンドンやパリのサロンで大きな話題となります。「ほら知ったことか」「ヒュームも馬鹿だな、だから言ったじゃないの」と、多くの人々がヒュームをからかいました。

これに怒ったヒュームは「ルソー事件」に関する文書をまとめて出版しました。この文書には、二人の間で交わされた手紙が全て掲載されています。この文書のおかげで私たちは今でも、この事件の詳細を知ることができます。

しかしヒュームは成熟した対応を見せます。ルソーがフランスに帰国したことを知ると、チュルゴーに手紙を送り、ルソーの安全を気遣いました。なぜならルソーには当時、逮捕状が出ていたからです。

エディンバラでの静かな余生

ルソーと別れたあと、ヒュームは故郷エディンバラで家を建て、そこで静かに余生を過ごしました。もうお金の心配をしなくていいヒュームは「エディンバラを去った時よりも、はるかに多くのお金と安定した収入を持って帰ってきた」と自ら誇らしげに書いています。

1776年、ヒュームは65歳でこの世を去りました。死を前にして遺言書を作成し、そして「自伝」を執筆しました。

多くの人々、とくに教会関係者は、無神論者のヒュームが死の直前に、キリスト教に回心するのではないかと期待したようです。しかし、ヒュームは静かにそのままの心境で死を迎えました。彼は生涯独身を貫き、子どももいませんでした。

彼の死から2年後、ルソーも66歳で亡くなりました。

ヒュームを理解するためのオススメ書籍

成田正人(2022)『なぜこれまでからこれからがわかるのか − デイヴィッド・ヒュームと哲学する』青土社

著者
成田正人
出版日

本書はヒュームの思想を歴史的な文脈や哲学的な論理について解説しています。当時のヨーロッパで流行していた合理主義や宗教的な教義に対抗するために、ヒュームは、経験主義という立場をとりました。経験主義とは、知識や真理は経験に基づくという考え方です。しかし経験主義を徹底的に追求すると、因果律や自由意志や神などの概念を否定しなければならない、という結論にヒュームは達したのです。当時の社会や文化にとって、この結論は衝撃的な主張でした。本書は難解な専門用語や複雑な議論を避けて、平易な言葉で書かれています。ヒュームの思想に触れたい方、哲学初心者にオススメの一冊です。

ニコラス・フィリップソン(2016年)『デイヴィッド・ヒューム − 哲学から歴史へ』(永井大輔訳)白水社

著者
["ニコラス・フィリップソン", "永井 大輔"]
出版日

ニコラス・フィリップソン教授によるヒュームの評伝です 。ヒュームと同じスコットランド人になります。スコットランドの天才少年として哲学に目覚めたヒュームは『人間知性論』や『人間本性論』などの傑作を生み出しました。しかし彼の哲学は、因果律や自由意志や神などの概念を根底から揺るがすものであり、当時の社会や教会と衝突します。ヒュームはエディンバラ大学の教授職を得られず、エディンバラ弁護会の図書館司書になりました。このとき彼は哲学から離れて『イングランド史』という大著に取り組んだのです。本書では、ヒュームの人生と著作を両面から描いています。ヒュームの哲学的な業績だけでなく『イングランド史』にも注目しています。哲学者としてだけでなく、歴史家としても優れていたことが示されています。

本書では、ヒュームが生きた時代の社会や文化にも触れています。ヒュームは、アダム・スミスやジャン=ジャック・ルソーなどの著名な人物とも交流しました。またフランス革命やアメリカ独立戦争などの歴史的な出来事にも関心を持ったヒューム。彼が生きた時代の躍動感を追体験することができる一冊です。

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