5分で分かるヒュームの存在論|あなたが見ている世界はバーチャルかもしれない|元教員がわかりやすく解説

更新:2026.5.23

哲学者ヒュームの思想は、18世紀に提唱されてから今日に至るまで、多くの人を魅了し続けています。 なぜなら彼が提起した「この世界は本当に実在するのか」という疑問は、時代を超えた人類普遍のテーマだからです。 私たちが日常的に認識するあらゆるものの実在性に疑問を呈し、感覚の限界を指摘したヒュームの考え方は、常識を覆す斬新さを持っています。 たとえば自分の手の存在を認識できるとしても、その認識自体の正確さを検証することはできない、とヒュームは言います。 私たちの認識機能そのものに疑問を投げかけるヒュームの姿勢は、驚くほど現代的な印象を与えてくれます。 ヒュームが提起した世界の実在性に関する普遍的な問いは、SF作品に登場するバーチャルな世界を想起させます。 ヒュームの思想は今なお色あせることなく、示唆を与え続けているのです。 今回の記事では、ヒュームの存在論について分かりやすく説明します。 論理と経験の違い、科学の限界、世界の実在性への疑問など、ヒューム哲学の核心に迫りたいと思います。

大学院のときは、ハイデガーを少し。 その後、高校の社会科教員を10年ほど。 身長が高いので、あだ名は“巨人”。 今はライターとして色々と。
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「諸観念の関係」と「事実の問題」

ヒュームによると、学問は2つのカテゴリーに分けられます。

1つは「諸観念の関係」を扱うもの、もう1つは「事実の問題」を扱うものです。

「諸観念の関係」とは、言い換えると「論理の関係」とも言えます。

「論理の関係」の代表例としては、数学(特に代数学や幾何学)があげられます。

また「論理の関係」に関する学問では、主張の真偽は事実とは関係なく決定されます。

たとえば、自然界には数学者が示すような完璧な円や三角形が存在しないかもしれませんが、ユークリッドが論証した真理はどの状況でも絶対に正しいとされます。

「三角形の内角の和は180度である」という命題は、論理だけで証明されるもので、砂に三角形を描いて角度を計測して発見されたわけではありません。

「事実の問題」の具体例

次に「事実の問題」について考えてみましょう。

「死者は生きていない」という主張を考えてみます。この主張の真偽は、言葉の意味だけを調べることで確定できます。そして、この主張は絶対に正しいと言えます。

しかし「お金持ちは幸福である」という主張についてはどうでしょうか。

この主張が正しいかどうかを知るためには、実際の事実を確認する必要があります。「お金持ち」という言葉だけを分析しても答えは出ません。

これが「事実の問題」の特徴です。「太陽は明日昇らないだろう」と「太陽は明日昇るだろう」の主張、どちらも言葉の使い方としては矛盾していません。そのため、論理だけではどちらが正しいのか判断することはできません。

正しいのかどうかを確認するためには事実を確認する、つまり実際に太陽が昇るかどうかを見るしかありません。

<神学は学問として成立しない> 学問が扱う対象は、主に2つに分かれます。つまり「論理の関係」(諸観念の関係)を扱うか、または「事実の問題」を扱うかです。言い換えると「分析的な命題」か「経験的な命題」のどちらかになります。

それでは、どちらにも当てはまらないものはどうなるのでしょうか。

例として、神学者たちの言う「地獄は熱い」という主張を考えてみましょう。

この主張は「分析的な命題」としての「論理の関係」を扱っているわけではありません。「地獄」という言葉を分析しても、地獄が熱いかどうかは判断できないからです。

「地獄は冷たい」と言っても、とくにおかしな点はありません。そのため「地獄は熱い」という主張の真偽は、事実に基づいて判断するしかありません。しかし「太陽は明日昇らないだろう」という主張とは異なり、この主張の真偽を確認する方法は存在しません。

確認の方法が存在しない主張は、詩と同じようなもので学問とは言えません。

このような本は迷わず捨てるべきだ、とヒュームは述べています。「火に投げ入れてしまいましょう」と彼は言うのです。

「もしわれわれが、たとえば神学あるいはスコラ形而上学の、どちらかの一巻を手に取るならば、それは量または数に関するなんらかの抽象的な推論を含んでいるか、をきいてみよう。否である。それは事実と実在の問題に関するなんらかの経験的な推論を含んでいるのであろうか。否である。それでは、それを炎に投ずるがよい。というのは、詭弁と妄想以外の何物をもそれは含み得ないからである」(『人間知性の研究』結語)

科学の限界 − 絶対的な真理は存在しない

科学は「事実の世界」を探求します。

医学、生理学、物理学、生物学など、これらの学問はすべて「事実の世界」の出来事を研究しています。しかし、事実の世界に「絶対に間違いない」と言えることは存在しません。

「絶対正しい」と断言できるのは「論理の世界」だけです。科学は数学とは異なり「絶対真理」に到達することはできません。

例として「太陽は明日も昇る」を考えてみましょう。私たちがなぜそう考えるのかというと、これまでの経験がそうだったからです。これまでの経験に基づき、明日も太陽が昇ると推測しています。しかし「これまでそうだった」という経験が「これからもそうである」という未来を保証するわけではありません。

たとえば、彼女が昨日まで優しかったとして、明日も優しいことを保証するわけではありません。同様に「太陽は明日も昇る」という主張は、過去の経験に基づいて「おそらく太陽は明日も昇るだろう」と予測しているだけです。

太陽が実際に明日昇るかどうかは、明日を迎えるまでわかりません。事実に基づく学問はすべてこのような性質を持っています。この世界に「絶対に間違いない」と言えるものは存在しない、とヒュームは語っています。

「世界」は本当に実在するのか

この世界には論理を除けば、絶対的に確実なものは存在しません。

すべては「おそらくこうだろう」という程度のものです。

哲学の歴史を振り返ると、世界の実在性に関する疑問は古くから存在しており、その課題は現在も残されたままです。

「私が目の前に見ているこの世界が存在するのか」「私の身体は本当に存在するのかどうか」という疑問です。一見すると奇妙な問題のように思えますが、論理的な思考の訓練としては有益です。

たとえば、目の前に机があります。私はその机が存在することを、目で見たり手で触ったりすることで確認します。しかし、私が持つ確信(感覚)が正しいのか、どう確認すればいいのでしょうか。その確認方法は存在しません。

確認するためには、私の目や手などの感覚器官を頼りにする必要があります。しかし問題となっているのは、これらの感覚器官が信頼できるかどうかです。

定規で自分自身の長さを測ることはできませんし、狂人が自分自身を狂っているかどうかを判断することもできません。同様に、私たちの感覚が正確かどうかを自らで確認することはできません。そのため机が実際に存在するのかどうか、私たちは確かめる方法を持っていないのです。

映画『マトリックス』の世界観>

映画『マトリックス』の舞台は、コンピューターによって支配された世界です。

このコンピューターは、人々の脳に日常の風景や人々の映像を送信しています。そのため人々は、自分たちが「リアル」な世界にいると感じていますが、実際には「ヴァーチャル」な世界にいるのです。

私たちは、今、リアルな世界にいるのか、ヴァーチャルな世界にいるのか、それをどうやって確かめることができるのでしょうか?

「それはできない」とヒュームは指摘します。

夢の中にいるのか、現実の中にいるのか、どうやって区別するのでしょうか。映画の中では、コンピューターの支配に立ち向かう人々が登場しますが、彼らが本当にリアルな世界を見ていると確信できる根拠は何でしょうか。

もし彼らの脳にヴァーチャルな映像が送信されていたとしたら、どうなるのでしょうか。そうなると、もう何も信じることができなくなってしまいます。

習慣と直感への信頼

ただヒュームは、過度に心配する必要はないと言います。

私たちは日常生活の中で、問題を実践的に解決しています。先ほど取り上げた疑問は、言葉が生み出した単なる難問に過ぎません。

私たちを導くのは習慣の力、私たちの内なる自然の力です。この自然の力によって、机が存在するとか、あなたや世界の存在を信じることができます。

「家は見えるけれど、間違っていないかな、今は少し酔っているから…」と、場合によっては自分の感覚を疑うこともあります。しかし、もし自分の感覚を100%信じることができなかったり、逆に100%信じてしまったら、人間は生きていくのは難しいでしょう。

人間は間違いを犯します。理性も感覚もしばしば間違います。もし「不確かな理性」だけを頼りに生きていたら、人類は生存できないでしょう。私たちは、理性とは別の「本能」や「機械的な傾向」によって生きているのです。

「本能」や「機械的な傾向」とは、人間が生まれながらに持っている直感や習慣のようなもので、私たちが日常生活の中で直面するさまざまな状況や問題に対処するのを助けてくれます。

ヒュームが最終的に信頼しているのは、人間が持つ直感や習慣の力なのです。

「すべて何事かを推論し、信じる者は確かに愚かであるが、もし私もおなじように愚かでなければならないのであれば、せめて私の愚かさを自然で快適なものとしたい。……もし私たちが、火は暖め、水はさわやかにする、と信じているとすれば、それは、これとちがう風に考えるのがあまりに多くの苦労を要するからだけのことである」(『人間本性論』第1巻第4部第7節)

ヒュームを理解するためのオススメ書籍

ヒューム(2010)『人性論』(土岐邦夫、小西嘉四郎訳)中央公論新社

著者
["ヒューム", "Hume,David", "邦夫, 土岐", "嘉四郎, 小西"]
出版日

18世紀スコットランドの哲学者ヒュームが書いた『人間本性論(人性論)』は、彼の代表作として知られています。この著作では、人間の知性や感情の動きを詳しく分析し、その中に隠された法則を明らかにしようとしています。ヒュームは、人間の知識の基盤を感覚に置き、因果関係や常識を「想像の習慣」として捉えました。これにより、彼は当時の一般的な考え方に新しい示唆を提供しました。また、「この世界は実際に存在するのか」という外界の実在に関する哲学的な疑問は、彼の深い懐疑主義を示しています。ヒュームは冷静な論理よりも、人間の習慣や直感を大切に考えました。この作品は、西洋近代思想の基盤として、今も多くの人々に読まれています。

泉谷周三郎(2014)『人と思想 80 ヒューム』清水書院

著者
泉谷 周三郎
出版日

横浜国立大学名誉教授である泉谷周三郎先生が書かれた、デイヴィッド・ヒュームの生涯と思想を紹介する本です。本書では「ヒュームの知性、情念、道徳、宗教、政治、経済」などに関する思想を分析し、ヒュームが自身の哲学を基礎とした諸科学の体系構築を目指したことが明らかになります。ヒュームの多角的で独創的な思想内容を理解するための入門書としておすすめです。

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