哲学者デイヴィッド・ヒュームの代表作として『自然宗教に関する対話』(以下、『対話』)があります。 この作品では自然宗教と啓示宗教の違いが論じられ、宗教に関する根拠が考察されています。 3人の登場人物が「神の存在」や「世界の目的」について議論を交わす作品のなかで、ヒュームは自然宗教の限界を指摘し、世界の完全性を否定します。 さらに宇宙の起源は、善悪を超えた中立的な力ではないかと提起するのです。 ヒューム理解のためのカギは「『対話』にある」と言っても過言ではありません。 今回の記事を通じて、ヒュームの難解な著作を理解する一助となれば幸いです。

スコットランドの哲学者デビッド・ヒュームは、その生涯をかけて理性の限界を問い続けました。彼が四十歳で完成させた『自然宗教に関する対話(対話)』は、あまりにも危険な内容を含んでいたため、自身の判断で封印されています。
遺言を通じて彼は、親友である経済学者アダム・スミスに出版を託しました。しかし『国富論』の著者として名高いスミスでさえ、原稿を一読して尻込みします。当時のキリスト教社会において、神の存在証明を根底から覆す議論は、社会的な死を意味するほどの劇薬でした。
結局のところ『対話』が日の目を見たのは、ヒュームの死から三年後。1779年のことでした。
著者が墓に入ってもなお、世間に波紋を広げ続けた『対話』は、現代の宗教哲学においても決定的な分岐点として扱われています。
『対話』の目的とは、神の存在を信じる根拠として、当時主流だった「デザイン論(設計論)」への反証にあります。
デザイン論の論理は極めてシンプルで、説得力に富んでいました。「時計」を例に説明します。荒野に落ちている時計を拾ったとき、それが風雨や偶然によって自然に組み上がったと考える人はいません。
精巧な歯車、正確に時を刻む針、計算された文字盤。これらは明らかに、目的を持って設計した「職人」の存在を証明しています。
自然界に目を向ければ、時計以上に複雑な秩序が存在します。
天体の規則正しい運行、季節の循環、動物の眼球の精巧な構造。これほどの秩序が偶然に生まれるはずがありません。
世界という巨大な時計が存在する以上、それを設計した偉大な時計職人、すなわち「神」が存在するのは論理的帰決である。これがアイザック・ニュートンを含む当時の知識人たちが信じた「科学的」な信仰でした。
この「デザイン論(設計論)」の弱点を、ヒュームは指摘します。
もし世界を機械(時計)に見立てるなら、その設計者(神)の能力も、機械の出来栄えから推測されなければなりません。ここで問題が生じます。
この世界は全知全能の神が作ったにしては、あまりにも欠陥が多すぎるのです。
地震が都市を破壊し、干ばつが飢餓を招き、疫病が罪のない子供の命を奪います。もし時計職人が作った時計が頻繁に止まり、持ち主を傷付けるなら、私たちはその職人を「名匠」とは呼びません。
ヒュームの分身である登場人物フィロは、痛烈な皮肉を込めてこう指摘しました。
この世界は、最高の神による傑作ではないかもしれない。
未熟な「幼児の神」が、最初の練習として作った不出来な試作品に過ぎないのではないか。
あるいは、老いて能力の衰えた神が作り、出来の悪さに恥じて打ち捨てた失敗作なのではないか。
世界に不条理な苦しみが満ちているという事実は、「神は全能であり、かつ善である」という前提と矛盾します。論理を突き詰めれば、神の「能力」か「善意」のどちらかを疑わざるを得なくなるのです。
さらにヒュームは、自然界の残酷なシステムにも目を向けました。
生命の維持は、他者の犠牲の上に成り立っています。肉食動物は獲物を引き裂かなければ生きられず、弱者は強者の糧となる運命にあります。ここには、父のような神の慈愛は見当たりません。あるのは、個体の幸福など意に介さない、冷徹な種の保存本能だけです。
宇宙の根源について、ヒュームは四つの可能性を提示し、消去法で検証しました。
世界には快楽(善)もあれば苦痛(悪)もあります。したがって、完全な善や完全な悪という仮説は棄却されます。また、自然法則が状況によって善悪を使い分けている形跡もありません。重力は、悪人を突き落とすときも、赤ん坊が転ぶときも、同じように働きます。
残された結論は第四の仮説です。宇宙の根源的な力は、善にも悪にも関心がない。世界はただ、盲目的な物理法則に従って動いているだけである。このニヒリズムに近い結論こそが、ヒュームが到達した「冷たい真実」でした。
「無神論者ヒューム」の晩年、世間の関心は一点に集まりました。「死後の裁きを信じない男は、死の恐怖にどう向き合うのか」という好奇心です。
多くの人々は、彼が死の直前に恐怖で取り乱し、悔い改めることを期待しました。しかし、ヒュームの態度は周囲を拍子抜けさせるほど穏やかでした。彼は死の床でルキアノスの『死人の対話』を読み、友人と冗談を交わしていたと伝えられます。
信仰を持つ者にとって、死は天国への入り口であると同時に、地獄へ落ちるかもしれない「審判」の場でもあります。救済の約束は、常に永遠の罰への恐怖と背中合わせでした。
対して、ヒュームにとっての死は「完全な消滅」に過ぎません。ろうそくの火が消えるように意識が途絶えるなら、そこには苦痛も、後悔も、地獄の業火も存在しません。
「私はあと少しで死ぬだろうが、何の後悔もない」
神の不在を論理的に確信したヒュームは、逆説的ですが、誰よりも安らかに死を受け入れました。彼が恐れられた理由は、神を否定したからだけではありません。神なしで、人間はこれほどまでに平穏でいられるという事実を、自らの死に様で証明してしまったからなのです。
ヒューム(2020)『自然宗教に関する対話』(犬塚元訳)岩波書店
- 著者
- ["ヒューム", "元, 犬塚"]
- 出版日
イギリスの哲学者デイヴィッド・ヒュームの代表作の1つです。この作品では、自然宗教と啓示宗教の違いが論じられ、宗教的な真理の根拠が考察されています。3人の架空の登場人物が、神の存在証明や世界の目的論などについて白熱した議論を交わす形式をとっています。ヒュームは自然宗教の限界を指摘し、世界の完全性や善の意図を否定していきます。過程で、ヒューム独自の世界観が明らかにされていきます。この作品はヒューム哲学の集大成と言え、宗教、世界観、人生観を考える上での基本文献です。宗教的な真理を探求する姿勢は、現代に通じる普遍的なテーマであると言えるでしょう。難解な部分もありますが、ヒュームを理解する上では欠かせない1冊です。
重田園江(2013)『社会契約論 − ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ』筑摩書房
- 著者
- 重田 園江
- 出版日
本書は近代の政治思想を代表する社会契約論についての入門書です。社会契約論とは「私たちが暮らすこの社会はどのように生まれたのか」「社会のルールはなぜ守られるのか」「政治秩序の正しさはどう判断すべきか」といった問いに答えようとする思想です。ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズという、異なる時代を生きた4人の思想家が展開する理論を精密かつ大胆に読み解きながら、社会契約論の歴史的な展開と現代的な意義を明らかにしています。社会契約論に興味がある人や政治思想に関心がある人におすすめです。