人類絶滅までの残り時間を示す終末時計、2020年は「100秒前」でした。その理由のひとつとして挙げられているのが、イランとアメリカの対立関係です。この記事では、両国の歴史をイラン革命や核開発問題をキーワードにわかりやすく解説。おすすめの関連本も紹介するので、ぜひご覧ください。
私たちが通称イランと呼んでいる国は、正式名称を「イラン・イスラム共和国」というイスラム共和制国家です。
北にカスピ海、北東にトルクメニスタン、東にアフガニスタン、パキスタン、南にペルシア湾とオマーン湾、西にトルコ、イラク、北西にアルメニア、アゼルバイジャンと接していて、ペルシア湾を挟んでクウェート、サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦があります。
国土面積は約165万平方km、人口は約8000万人で、面積と人口の双方において世界17位です。
イランの歴史は紀元前3000年頃の原エラム代に遡ります。建国者といわれているのは、紀元前550年にアケメネス朝ペルシア帝国を築いたキュロス大王。最盛期にはエジプトを除く古代オリエント世界を支配する、世界最大級の帝国でした。
しかしアケメネス朝ペルシア帝国は、紀元前499年から始まったギリシャとの「ペルシア戦争」に敗れて疲弊し、紀元前330年にマケドニア王国のアレキサンダー大王によって滅ぼされます。
その後イランは、アレキサンダー大王の後継者のひとりセレウコス1世が建国したセレウコス朝シリアの支配下に入り、セレウコス朝が滅びた後はアルシャク朝を経て、226年に建国されたササン朝ペルシアに。ローマ帝国とたびたび衝突しながらも、オリエントの大国としてガラス細工など独自の文明を発展させました。
ちなみに奈良にある東大寺の正倉院に収蔵されている「瑠璃の杯」も、ササン朝ペルシアで作られたもので、当時シルクロードをとおって日本にもたらされました。
またイランの国教は長らくゾロアスター教でしたが、10世紀に成立したブワイフ朝ではイスラム教における少数派であるシーア派を初めて国教とし、イスラム化。シーア派は、イスラム教の第4代カリフで、預言者ムハンマドの従兄弟でもあるアリー・イブン・アビー・ターリブとその子孫のみが「イマーム(指導者)」を名乗ることができると考える一派です。
アリーの子である第3代イマームのフサインは、ペルシア王室の女性と結婚し、それ以降歴代イマームにはペルシア帝国の血が流れているとして、イラン人にとってシーア派は民族宗教とみなされています。
ブワイフ朝が滅亡し、13世紀にモンゴル帝国、14~15世紀にティムール朝が支配した後、1501年にサファヴィー朝が成立。民衆の改宗が進み、イラン国内でシーア派が勢力を拡大する一方で、イスラム教の多数派であるスンニ派を国教とするオスマン帝国と衝突するようになりました。
1736年にサファヴィー朝が滅亡。政治的混乱のすえ1796年、ガージャール朝が成立すると、イギリスとロシアが展開した中央アジアの派遣争いの草刈り場と化し、列強諸国に次々と領土を侵略され、利権の譲渡を余儀なくされます。この状態は1970年代まで続き、1978年に「イラン革命」を引き起こすことになりました。
ガージャール朝の軍人だったレザー・ハーンは、1921年にクーデターを起こし、1925年にレザー・シャーとして即位。パフラヴィー朝を成立させました。
レザー・シャーは日本の明治維新も参考にしながら、軍事力を背景とした中央集権化を進め、西欧化。列強諸国との間に結ばれていた不平等条約の撤廃に成功します。しかし、「第二次世界大戦」でドイツに接近したことで、イギリスとソ連から侵攻を受けて失脚しました。
レザー・シャーに代わって第2代国王に即位したのが、モハンマド・レザー・パフラヴィーです。パーレビ国王と呼ばれた彼は、アメリカのCIAやイギリスのMI6の協力を得て、1953年に親ソ連派だったモサッデク首相を失脚させて権力を握ると、石油の輸出で外貨を獲得。アメリカによる経済援助を元手に「白色革命」と呼ばれる近代化に乗り出します。
「白色革命」はアメリカのケネディ政権による改革要求に応えようとするもの。土地の改革や国営企業の民営化、労使間の利益分配、イスラム教徒以外の信徒や女性への参政権解放、女性のヒジャブ着用禁止などの世俗化、教育の振興、農村開発などさまざまな分野で矢継ぎ早に改革が進みます。
しかし多くのイラン人の目には、急速な西欧化が、イスラム教に根差す旧来の伝統を破壊するもののように映り、反発を招いてしまいました。
するとパーレビ国王は、秘密警察に指示して反体制派を取り締まり、彼らの声を抑えこもうとします。彼がなかば強引に「白色革命」を進めることができたのは、石油の輸出で莫大な外貨を得られたからです。しかしそれも、1973年に「オイルショック」が起こると流れが止まり、革命は頓挫。経済状況が悪化したことで、国民の経済格差は急激に拡大し、政治に対する不満が膨らんでいきました。
1978年1月、パーレビ国王によって国外追放されフランスに亡命していた、シーア派の法学者ルーホッラー・ホメイニーを中傷する記事をめぐり、シーア派の聖地ゴムで暴動が発生。これが国内各地に波及し、反政府デモや暴動が頻発する事態になります。
9月8日に軍がデモ隊に発砲したことをきっかけに、デモはさらに激化。事態を収拾できないと判断したパーレビ国王は、1979年1月16日にエジプトへ亡命しました。
一方でホメイニーが2月1日にイランに帰国。2月11日には政権を握り、4月1日におこなわれた国民投票で「法学者の統治」にもとづくイスラム共和国の樹立が宣言されました。「イラン革命」です。
パーレビ元国王は、エジプト、モロッコ、バハマ、メキシコを転々とした後、癌の治療を名目にアメリカに入国。これは、イランのイスラム主義者を激怒させる出来事でした。
10月22日以降、イスラム法学校の学生らはイランの首都テヘランにあるアメリカ大使館を取り囲み、連日抗議デモを実行。11月4日には塀を乗り越えて敷地内に侵入し、彼らの家族を含めた52人を人質にとって、パーレビ元国王の身柄引き渡しを要求します。解決までに実に444日間も要した「イランアメリカ大使館人質事件」です。
この行為は「外交関係に関するウィーン条約」に明確に違反するものでしたが、イランの革命政府が支援したため、国際社会から大きな批判を浴びました。
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1978年の「イラン革命」以後、イランはアメリカを「大悪魔」「不信仰者の国」と罵る一方で、アメリカもイランを「テロ支援国家」に指定するなど対立関係が明確になっていきました。両国は1980年に国交を断絶。アメリカはイランの在米資産を凍結するなどの経済制裁を加えています。
またイランとアメリカの間には、「大使館人質事件」以降もさまざまな外交問題があり、実際に戦火を交える事態に発展したこともありました。
そして近年、全面戦争に発展するのではないかと国際社会が心配しているのは、イランの「核開発問題」です。
そもそもイランの核開発は、1950年代にアメリカのアイゼンハワー大統領が提唱した「平和のための原子力計画」の一環として、アメリカの援助のもとで始まったものでした。
1968年には「核拡散防止条約」に調印し、国内の核開発は「IAEA(国際原子力機関)」の監視下に置かれます。
さらに「イラン革命」が起こると、最高指導者のホメイニーは、イスラム法学者の立場から核開発を「悪」だとし、開発計画は停止していました。
しかし1980年代に起こった「イラン・イラク戦争」で戦況が不利になると、小規模ながら研究が再開されます。1989年にホメイニーが亡くなると、第2代最高指導者アリー・ハメネイのもとで核開発は大幅に拡大され、ロシアの国営原子力企業などの援助を受けながら原子力発電所が完成しました。
イランはあくまでも「平和利用のため」と主張していましたが、2002年、イランの反体制組織が建設中の核施設の存在を暴露。IAEAに無申告で、ウラン濃縮・再処理の機密計画が存在することが明らかになりました。原子炉燃料用の低濃縮ウランではなく、核兵器に用いる高濃縮ウランを製造しようとしているのではないかという疑いがあります。
2003年、イランとフランス、ドイツ、イギリスが話しあい、「テヘラン宣言」を発表。IAEAによる査察を受け入れる見返りとして、核を平和利用する権利が認められることになりました。
しかし2005年、イランがテヘラン宣言の合意履行を停止。
2006年2月、IAEAはイランの核開発問題を国連安保理に付託する決定を下し、国連安保理はランに対して濃縮・再処理関連の全活動の停止を求めました。さらに12月には、先の決議にイランが反したとして、核・弾道ミサイル技術の移転を主な対象とする制裁を課します。以降も幾度となく決議を出し、制裁内容を追加していきますが、イランの核開発を止めることはできませんでした。
イランの核開発をめぐる交渉は、2005年に大統領に就任したアフマディネジャドが強硬姿勢を崩さなかったことから難航しました。
しかし2013年、大統領選挙で穏健派のハサン・ロウハニが当選し、大きな転機が訪れます。イランにおいて大統領の権限は強くはありませんが、ロウハニ大統領が就任したということ自体が、最高指導者であるハメネイのメッセージだと国際社会に受け止められました。
交渉はイランと、アメリカ、イギリス、ロシア、フランス、中国という核を保有する5大国にドイツを加えた通称「P5+1」間で続けられ、2015年7月14日に最終合意に達します。
イラン側はこれまでの強硬姿勢を転換し、核開発の大幅な制限、国内軍事施設への条件付き査察を受け入れました。2016年1月にはIAEAによる査察がおこなわれ、イランが核開発を停止したことを確認。欧米諸国はイランに対する経済制裁を解除する手続きを開始します。
しかし、解決に向かっていた流れを止める存在が現れました。オバマ大統領の後任としてアメリカ大統領に就任したドナルド・トランプです。トランプ大統領は2018年、合意内容が不十分であるとし、国際社会の反対を押し切って合意から離脱。再び経済制裁を実行したのです。
さらに、2019年6月に起こったホルムズ海峡での日本商船攻撃事件、9月に起こったサウジアラビア石油施設への攻撃、12月に起こった駐イラクアメリカ大使館への襲撃事件を「イランの仕業」であるとして、2020年1月3日、これらを立案した張本人だとされるソレイマニ司令官を暗殺します。
またイランがこの暗殺に対して報復をするのであれば、その再報復として、イラン国内の文化遺産を含む52ヶ所を攻撃すると宣言しました。「52」という数字は「イランアメリカ大使館人質事件」で人質になった人数です。
これに対し、人類史においても貴重なイランの文化遺産を攻撃するべきではないという批判が世界的に巻き起こりました。
結局、イランによる制裁攻撃はあったものの非常に限定的で、トランプ大統領も再報復はしませんでした。
ただイランは、アメリカが核合意から離脱してからも、IAEAやヨーロッパ各国と連携しつつ段階的に合意履行を停止してきましたが、ソレイマニ司令官の暗殺を受けて、合意の完全停止を宣言。保有するウランを無制限に濃縮すると発表しました。
これによって核合意は死に体に陥り、中東の緊迫度合いは日に日に増しつつあります。
2020年はアメリカ大統領選挙の年でもあり、トランプ大統領が選挙戦で劣勢に立たされた場合、国民の支持獲得を目的にイランを攻撃する可能性もあるのではないかと、国際社会が固唾を飲んで見守っているのが現状です。
- 著者
- 高橋 和夫
- 出版日
- 2019-09-10
「今日の友は明日の敵」「敵の敵は味方」という言葉が生ぬるく感じるほど、中東の情勢は敵味方の利害が複雑に入り組み、少し目を離しただけでも訳がわからなくなります。
本書は、刊行された2019年の時点における、アメリカ、イラン、イスラエル、サウジアラビアなどの政治方針を整理しようと試みているものです。
作者は、クウェート大学客員研究員などを務めた経験がある中東情勢の専門家で、読者が少しでも理解しやすい様にと簡潔にまとめられています。
日本人の多くにとって中東は馴染みのあまりない地域ですが、実際には日本が輸入するエネルギー資源の大半は中東産であり、東日本大震災による福島第一原子力発電所事故の影響で原子力発電所がの再稼働が思うように進まない現状では、日本人の死命を制する地ともいえるのです。
アメリカはなぜイランを敵視するのか。イランはなぜ核開発を止めないのか。結局、誰が得をしているのか……本書を読むことで、混迷する中東情勢を読み解くひとつの軸が見えてくるでしょう。
- 著者
- 宮田 律
- 出版日
- 2019-09-17
本書は、中東において「反イラン」として一致団結を見せるアメリカ、サウジアラビア、イスラエルの関係を理解することで、中東情勢を読み解こうと試みているものです。
その鍵となる出来事として取りあげられているのが、2018年10月2日に起きたサウジアラビア人ジャーナリスト、ジャマル・カショギの暗殺事件。カショギは、サウジアラビアの実質的な指導者であるムハンマド皇太子を批判していた人物で、トルコのイスタンブールにあるサウジアラビア総領事館内で暗殺されました。
この事件に関して、アメリカのCIAは「ムハンマド皇太子の関与を断定した」としていますが、トランプ大統領は「ムハンマド皇太子が事件を把握していた可能性は十分ある」としつつも、「サウジアラビアは揺るぎないパートナー」だと述べて、皇太子を擁護する姿勢を見せます。
なぜ、トランプ大統領はムハンマド皇太子を擁護するのでしょうか。本書を読むと、その理由が少しずつわかってきます。中東情勢を紐解く一助になる一冊、ぜひ読んでみてください。