小説『恋文の技術』は『四畳半神話大系』、『夜は短し歩けよ乙女』、『有頂天家族』などで知られる森見登美彦の作品。書簡体小説というちょっと珍しい体裁で書かれており、限られた文面から色々想像出来るのが面白いところ。 2024年には刊行15周年を向かえた『恋文の技術』は、それを記念して文庫新版が発売されました。高度情報化社会の世の中で、あえて手紙形式で綴られる本作の面白さ、魅力をご紹介していきます。

拝啓
厳冬の候、守田一郎様におかれましてはその後お変わりございませんか。久しぶりにお便りをいただき、思わず学生の時分を思い出して気分が高揚しました。興が乗って以前の文を取り出して読み返してみましたが、臨海実験所発の愉快な伝聞を読むにつけ、心身もあの頃に戻ったような気がします。
おかげですっかり凝り固まった肩がほぐれ、お礼に一筆お返しせねばと、こうして苦手な筆を執った次第です。
年が開けてはや1月経ちましたが、まだまだ寒い時期が続きます。どうかお体にお気をつけください。遠からずまた近況をお知らせくだされば幸甚に存じます。
怱々頓首
- 著者
- 森見 登美彦
- 出版日
『恋文の技術』は森見登美彦が2009年にポプラ社から刊行した書簡体小説です。能登半島の実験所に送り出された京都のとある大学院生が、研究の片手間(?)に知人・友人たちと頻繁に手紙をかわすお話。
書簡体小説とはその名称通りに書簡、つまり手紙形式で書かれた小説のことです。冒頭に記したような文章で、森見登美彦が架空の人物になりきって執筆した創作物と思っていただければわかりやすいでしょう。
すべてがネットを通じてSNSで繋がるこの情報化社会にあって、あえて手間と時間がかかる手紙でやりとりをする……。主人公が投函する一方向だけの限られた断片的な内容の中に、豊かな情緒と血の通った人間味を感じるのが『恋文の技術』の面白いところ。森見登美彦には代表作がいくつもありますが、本作はそれらに決して引けを取らない傑作です。
そんな『恋文の技術』ですが、このほど刊行15周年を迎えたことを記念して、新版が発売されました。漫画『スキップとローファー』の作者・高松美咲が新たにカバーイラストを担当し、初版には小冊子の書き下ろし短編が付属。15年経っても変わらない、守田一郎節を楽しめます。
春には桜の名所としても知られる能登半島の能登鹿島駅、そのすぐ近くに臨海実験所がありました。
無人駅と実験所以外にはろくなものがない、言うなれば僻地。京都の大学から半ば島流しの憂き目に遭った主人公、守田一郎は一念発起して「文通武者修行」の名目で、京都にいる友達や知人たちへ大量の手紙を送り始めます。
一向に進まないクラゲの研究。進むのは近況を知らせる他愛ない手紙の筆ばかり。
彼は親しい友人や恐るべき先輩とやりとりしつつ、世の女性を手紙だけで夢中にさせる「恋文の技術」を身につけて、ラブレターを代筆するベンチャー企業の設立をするのだと息巻きますが、果たして……。
『恋文の技術』には全編に渡って登場する人物が結構多いです。とはいえ、基本的に1対1の手紙ですし、やりとりしている最中の相手は必ず名前が出てくるので混乱することはないでしょう。
守田一郎は主人公であると同時に物語の語り手、というか書簡体小説である本作の手紙を主に執筆する人物です。クラゲの研究をする京都の大学院生で、言葉巧みに中身のない手紙を量産することは得意なものの、研究の腕前は今一歩のようです。
将来を嘱望されるほど頭がいいわけではなく、世渡りが上手いわけでもないちゃらんぽらんな男ですが、人に好かれる憎めない性格をしています。異性を籠絡する「恋文の技術」を会得すると豪語して、文通武者修行にいそしみますが……。
小松崎友也は守田の友人で、同じ大学院生です。新しくゼミに入ってきた三枝麻里子に一目惚れした彼は、文通を通して守田に何かと相談を持ちかけてきます。本作のトラブルの3分の1くらいは彼が原因と言っても過言ではありません。
そして守田と小松崎が所属する大学院の先輩、大塚緋沙子。才色兼備な女性ですが、明晰な頭脳で周囲(主に守田)を振り回すことを生きがいにしており、「女帝」と恐れられています。本作で起こるトラブルの一翼を担う人物。
小学4年生の間宮少年は、基本的に阿呆を晒す守田がほぼ唯一体裁を保って(?)手紙を送る相手です。守田と間宮少年はかつての家庭教師の先生と生徒というだけの繋がりですが、守田の後を引き継いだ人物から意外な人間関係が発展していきます。
癖の強い文通相手の中で一際異彩を放っているのが森見登美彦。『恋文の技術』著者本人です。森見登美彦の生み出した架空の人物と森見登美彦がやりとりするという、奇妙な構図。彼らの手紙の内容から、作中の時代がおおよそ読み取れます。
そして守田の妹、守田薫。大学受験を目前に控える高校3年生ながら、将来の夢は宇宙飛行士と豪語し、有り余る知識欲で周囲を驚かせる逸材です。良くも悪くも鋭く本質を突きがちで、しばしば兄をたじろがせます。森見登美彦の女性ファンの集い「大日本乙女會」会員。
守田の主な文通相手は以上5人ですが、この他にも手紙の話題の中で登場する人物が3人います。
実験所で守田を指導する研究員、谷口誠二。日々守田を叱咤、罵倒して「軍曹」と恐れられる一方で自作の精力剤を愛飲してマンドリンをかき鳴らし、謎の哀愁を醸し出す男です。
三枝麻里子は小松崎らが夢中になっている女子大生で、性格はかなり天然。それとスタイル抜群。「大日本乙女會」会員の1人です。
そして最後は、守田が片思いする伊吹夏子。守田や小松崎らと同じゼミ生でしたが、卒業後に就職する道を選びました。彼女も「大日本乙女會」の会員。
『恋文の技術』は一風変わった書簡体(手紙形式)の小説ですが、文通で送られる無数の手紙からは書き手や書き手が送った人に込めた様々な気持ちが読み取れて、読破するころには架空の登場人物が数年来の知り合いに思えるくらい親しみを覚えるのが面白いです。
書簡体小説は一人称視点の地の文と少し似ていますが、普通の読み物と違って手紙を模して書かれているのが特徴。
しかも本作に収録されているのは守田から送られた手紙ばかりで、返信がどんな内容だったかは守田の反応からしかわかりません。本の体裁になっているものの、形としては守田の手紙を読者が受け取って読んでいる状態です。
守田によって綴られる文は、文語でもなく口語でもない、手紙ならではのちょっと改まった言い回し。その表現方法が森見登美彦のワードセンスと絶妙にマッチして、読み始めこそ多少違和感を覚えるものの、『恋文の技術』の世界観にどんどん引き込まれていきます。
地の文がないので情景描写や心理描写はほとんどなく、すべては守田のリアクションから想像するしかないのですが……そこにある想像の余地によって、ただの文字の羅列でしかない手紙から、その人の人柄や性格が生き生きと感じられるのが見事です。
手紙の日付は春から秋にかけて進んでいくのですが、日時が経つに連れて、守田のその時点での状況と受け取る側の関係性に合わせて文体が変化するのも見所。極端にかしこまったり、阿呆丸出しでくだけた文体にしたり、手紙に書かれた内容以外の部分から守田の息づかいを感じます。
特に顕著なのが、間宮少年宛ての手紙です。同時期の別人に宛てた手紙と似た内容なのに、小学生でも読みやすいようにひらがなを多用し、可能な限り平易な表現にしているのがはっきりわかります。さすがは元家庭教師と言ったところ。
一方で気安い仲の小松崎には常に辛辣で、頭が上がらない大塚密にはへりくだるわ(フリをして微妙に反抗)、部活の先輩に当たる森見登美彦には偉そうだわと送る相手が違うだけで守田の印象が結構変わります。
そしてその辺りの違いからも守田の人物像が浮かび上がり、より一層人間味を感じるのが本当に面白いです。
本作では各章ごとに一定期間、特定の人物に宛てた手紙が綴られます。例えば第1章は小松崎、第2章なら大塚緋沙子……という風に。
手紙のした日付は相手によって少し差はありますが、おおむね前半の章では4月から7月、後半では8月から11月にかけて季節が移ります。ただし、後半の一部の章は演出の都合上、この法則に則っていないものもあります。
この章ごとに違う相手になるのと、手紙によって日付が多少前後して季節が移ろうという構成が絶妙です。
それぞれの手紙には同時期の出来事が記されているため、内容的に重複する部分がいくつかあります。しかし、守田は相手によって書き方を変えるので、場合によってはより踏み込んだ内容になることも。ある人物に宛てた手紙に書かれた出来事の裏側が、別の人物への手紙で言及されていたりするのです。
情報の断片が繋がった結果わかるのがしょうもない真相だったりしますが、色々見えてくること自体が興味深いですし、どことなく他人の人生を覗き見している感覚が癖になります。
読んでいて非常に愉快で、日付を手がかりとして読み直したくなること請け合いです。なんなら読みながらでも少し遡って、確認することがしばしば。「この時のこれはこういうことだったのか!」という発見があって、何度も何度も読み返してしまいます。
『恋文の技術』新版には電子書籍版もありますが、ページをめくってすぐ目当ての箇所に戻れるので、本作を読むなら紙版を強く強くおすすめします。
森見登美彦作品はたいてい世界観を共有しており、共通の固有名詞が結構出てきます。『恋文の技術』は舞台が能登半島な関係で他の作品ほど密接なリンクはありませんが、それでもお馴染みのワードや関連を匂わせる名称が少なくありません。
例えばもはやあって当たり前の猫ラーメンに始まり、金曜倶楽部に詭弁踊り、韋駄天コタツやパンツ番長。他には後の作品に登場する「大日本凡人會」を連想させる「大日本乙女會」、「マンドリン辻説法」と繋がっていそうな「マンドリン四天王」などなど……。
手紙の文面に現れるこれらのワードは、お話に直接関係ないので知らなくても問題ありません。ただ、他の作品で知っているとクスリとするので、ちょっとしたファンサービスであると同時に作品世界の広がりを感じる仕掛けとなっています。
変わったところでは、『夜は短し歩けよ乙女』の第3章が守田の手紙から着想を得たことになっているのが面白いです。『恋文の技術』の中にいる森見登美彦が、別作品を書き上げているというメタフィクションの構図。ちなみにこれによって、本作の時代設定は2005年前後なのがわかります。
また、作中で出てくる地名などはすべて実在するものばかり。無人の能登鹿島駅、七尾駅と駅前のミスタードーナッツ、和倉温泉の総湯やUFOが出没すると噂の羽咋。そしてたびたび守田が晩酌のアテにしているらしい天狗ハム! ちなみに印象的な場面で出てくる、ぷくぷく粽(ちまき)は架空の食べ物です。
地名が実在するものであるということあkら、実験すること以外何もないとぼやく守田の気持ちを実際に味わうべく、ファンがゆかりの地に足を伸ばす――いわゆる聖地巡礼を行う人も多いです(2024年能登半島地震の以前)。
こうした作品の世界の広がり、実在する地名だからこそのリアルさも、本作を読む上での魅力なのは間違いありません。
手紙をしたためた経験がある方ならわかるかと思いますが、電話やメールあるいはダイレクトメッセージなどと違って、ペンを執って紙に向かうと自然と背筋を正してしまいます。書き方も内容も普段とは打って変わりますし、なんなら上手いこと言ってやろうと思う心理が働きがちです。
手紙の体裁で書かれた『恋文の技術』にも、ちょっと感心する名言、名フレーズがいくつも出てきます。
吉田神社は縁起が悪いと君は言うだろう。確かにあの神社は、合格を祈願する者は大学に「落ちる」(中略)それがイイのだ。なんとなれば恋というものは、自分は「落ちる」ものであり、相手を「落とす」ものだからだ。(『恋文の技術』より引用)
片思いに悩む小松崎に送ったアドバイスです。不吉な逸話を逆手に取って、「恋に落ちる」願掛けするというのはなかなか気が利いています。
繰り返すが、もう彼女をつけ回すのは止めたまえ。
彼女を失うだけならばまだ良いが、人生を棒に振る。失った人生はpricelessだ。
今日はいいこと書いた守田一郎(『恋文の技術』より引用)
ご友人の「失った人生はプライスレス」とは、面白い言葉です。
値をつけるほどの価値もない、ということですか。間違ってますか。
果てしなくロープライス 守田一郎(『恋文の技術』より引用)
それぞれ小松崎、森見登美彦に宛てた手紙です。章立てでは小松崎、森見登美彦の順ですがよく見ると手紙の日付が前後しており、フレーズをパクっていることがわかります。
わかってないのかボケているのか、後者の守田の解釈に笑ってしまいます。
恋文というのは、意中の人へ差し出すエントリーシートでしょう。(中略)
どこにもエントリーできない俺は、女性にも会社にも求められることなく、詭弁踊りを踊りながら中空をふわふわ漂い続けるのです。(『恋文の技術』より引用)
就職活動が迫る中、恋文執筆にも行き詰まった際の手紙です。エントリーシートに例えるのはなかなか上手い表現ですが、その後に続く一文が情けない……。
我ながらしぶとい。しかし、しぶといのは偉いのです。
言うではありませんか。
真の名誉とは決して倒れないことではない。
倒れるたびに起き上がることだ、と。(『恋文の技術』より引用)
これこそ名言。「七転び八起き」とはよく言ったもの。人生何事も一度の失敗で終わることはないので、出来るまで繰り返すのが大事です。この一文が出てくるまでに、腐ることはあってもめげずに、しぶとくやって来た守田の言葉が響きます。
森見登美彦は奈良県出身の小説家です。奈良市在住、1979年1月6日生まれの46歳(2025年1月現在)。京都大学大学院農学研究科を卒業後、国立国会図書館に就職して兼業作家として活動していましたが、のちに専業作家となりました。
代表作はアニメ化などメディアミックスもされている『四畳半神話大系』、『夜は短し歩けよ乙女』、『有頂天家族』など多数。
森見登美彦はペンネームで、本名の森見と日本神話に登場する登美長髄彦(とみのながすねひこ)を掛け合わせたもの。
読書好きの母親の影響で幼少期からモノを書くことが好きだったとインタビューで語っており、小学3年生のころに取り組んだ紙芝居制作が創作作家としての原点のようです。高校のころに小説家を目指し始め、大学在学中の2003年に『太陽の塔』が第15回「日本ファンタジーノベル大賞」大賞を受賞し、商業デビューを果たしました。
森見登美彦と言えば京都のイメージが強いですが、実は最初から京都に注力していたわけではありません。元々は自身の出身地である奈良を舞台に小説を執筆していたそうですが、半ばやけくそ気味に『太陽の塔』で京都大学の経験と当時住んでいた京都の生活を盛り込んだところ、予想外にヒットしてしまったというのが真相です。
彼の作品は全体的にどこかレトロな雰囲気が漂っており、いい意味で意識の高いハイセンスな表現、言葉選びに特徴があります。森見登美彦本人の弁によると、そういったお話の嘘と歴史の積み重ねで懐が深い京都のイメージがマッチしているとのこと。
ちなみに『恋文の技術』執筆時は、京都を舞台としたくされ大学生(森見登美彦作品の傾向)モノからの脱却を計っていたらしく、たまたま旅行した能登半島の京都からの微妙な距離感と雰囲気にインスパイアされたそうです(当初の舞台は広島だったとか)。
最近は単行本の刊行ペースは2年に1回ほどになっていますが、新作の短編は毎年発表されています。あえて言うまでもありませんが、今後も森見登美彦の活躍が非常に楽しみです。
文庫新版で発売された小説『恋文の技術』は、従来通りの紙版と電子書籍版の2種類が出ています。もし未読なら電子書籍の方が便利ではありますが、見返すたびに発見のある本作は、出来れば紙版で読むことをおすすめします。
ちなみに紙版には書き下ろし小冊が付属しますが、初版限定なため在庫がなくなり次第終了となるのでご注意ください。