少女小説研究の第一人者である嵯峨景子先生に、その月に読んだ印象的な一冊を紹介していただく『今月の一冊』。30回目にお届けするのは2025年5月に講談社から発売された『カフネ』です。「カフネ」という言葉の意味をかみしめずにはいられなくなるような本作の魅力を、嵯峨先生に語っていただきました。

「嵯峨景子の今月の一冊」、第30回です。今月は2025年の本屋大賞を受賞した阿部暁子『カフネ』(講談社)を取り上げます。
- 著者
- 阿部 暁子
- 出版日
阿部暁子は『屋上ボーイズ』で第17回ロマン大賞を受賞し、2008年にコバルト文庫からデビューした作家です。その後は『ストロボ・エッジ』や『アオハライド』などのノベライズなども手掛け、2017年に刊行した『どこよりも遠い場所にいる君へ』(集英社オレンジ文庫)がロングセラーになり人気を博します。近年は一般文芸にも活躍の場を広げ、『パラ・スター』(集英社)や『金環日蝕』(東京創元社)などで高い評価を受けていました。少女小説レーベルからデビューした実力派作家が本屋大賞にノミネートされたのがなんとも喜ばしく、今年の本屋大賞は『カフネ』を応援していました。『屋上ボーイズ』をきっかけに阿部暁子作品を読み始めた一読者として、『カフネ』の本屋大賞受賞は本当に嬉しいニュースでした。
東京法務局に勤める野宮薫子は40歳。不妊治療がうまくいかず、夫から突然離婚を切り出されて一人になった薫子の心の支えは、溺愛する12歳年下の弟・春彦の存在でした。ところがその春彦が29歳の若さで急死してしまいます。春彦の自殺を疑わせる痕跡は何もなかったものの、なぜか彼は生前に遺言書を作成しており、遺産の相続人の一人として元恋人の小野寺せつなを指定していたのでした。
弟の最後の願いを叶えようとする薫子は、せつなが働く家事代行サービス会社「カフネ」にコンタクトを取ります。ところが、せつなは約束に遅れてきたうえにふてぶてしい態度を取り、遺産の受け取りも拒否します。血も涙もないせつなの言葉に腹を立てた薫子は喫茶店で倒れてしまい、せつなに付き添われて帰宅することに。薫子を送り届けたせつなは、彼女が散らかった部屋で暮らし、お酒に逃げてアルコール依存症になりかけている様子を察して、強引に部屋に上がり込みます。そして彼女に厳しい言葉を投げかけつつも、やさしい味の豆乳素麺を作ってあげるのでした。
醜態をさらしてしまった薫子は、その後奮起し、部屋を片付けました。すると彼女の掃除スキルに目を留めたせつなが、薫子をカフネの活動に誘います。カフネは毎日の家事に手が回らなくて困っている人を対象に、二時間無料でサービスを行うボランティア活動を行っているのでした。凄腕料理人であるせつなと、掃除担当の薫子はタッグを組み、さまざまな事情を抱えた家庭を訪れる中で、少しずつ距離を縮めていくのですが――。
つっけんどんな態度を取りながら、傷ついた人を放っておけず、人を幸せにするごはんを魔法のように生み出すせつな。ひどく傷ついた薫子は、せつなから立ち直るきっかけを与えられ、生きる意欲を取り戻していきます。一回り年の離れた女たちが築く絆を軸に、物語は食や家事の問題、不妊治療に親子の関係など、現代社会の切実な課題にも光を当てていきます。「カフネ」とは、ポルトガル語で「愛する人の髪にそっと指を通す仕草」という意味の単語。この言葉が鍵となる、美しいラストシーンに心が震えました。
個人的に一番心に刺さったのが、薫子とせつながボランティアで訪れる、毎日の家事に溺れそうになっている人たちのパートです。かつて私自身がセルフネグレクト状態に陥ったことがあり、疲弊しきった人々の様子や荒れた部屋の描写はなんとも身につまされました。最初の家でボランティア活動を終えた薫子は、
「今、私はあの人を助けたのではなく、助けてもらったのだ」
と喜びを噛みしめます。「カフネ」の社長であり、せつなの理解者でもある常盤斗季子も素晴らしいキャラクターで、彼女自身の体験に基づく含蓄のある言葉は胸に染みました。生きている限り、私たちにつきまとう家事という問題。援助が必要だけど、助けを求められずに苦しんでいる人たちに向けた強く優しいメッセージに、心が奮い立つ思いがします。
最初の豆乳素麺を皮切りに、作中にはせつなが作るさまざまな料理が登場します。崩れたケーキをよみがえらせたパフェや、卵味噌、おにぎりにプリン、ピザとチキンにポップコーン……。物語が進むにつれて、おいしいごはんを作り、人々笑顔にさせるせつなが抱えるものが少しずつ明らかになっていきます。そしてせつなに立ち直るきっかけを与えてもらった薫子は、今度は彼女のために動きたいと大きな決断をすることになるのです。不屈の努力で人生を切り開いてきた薫子がみせる強さがなんとも爽快で、読み終わると読者自身の中にも生きる力が湧いてくるでしょう。
弟の春彦は人の心をなごませ、誰をも幸福にさせる存在でした。ところがせつなとの活動を通じてさまざまな事実が明かされ、薫子はこの世界で一番近しい存在とすら思っていた弟のことがわからなくなっていきます。春彦の死をめぐる謎も物語を推進する力となり、緻密に張り巡らされた伏線と見事な構成にも圧倒されました。
しんどさを抱えるすべての人たちに贈りたい、阿部暁子の傑作小説。社会の問題に目を向ける作者の真摯な筆致と、魅力的なキャラクター造形、巧みなストーリーで紡がれる、痛みと希望の物語です。
- 著者
- 阿部 暁子
- 出版日