少女小説研究の第一人者である嵯峨景子先生に、その月に読んだ印象的な一冊を紹介していただく『今月の一冊』。33回目にお届けするのは2025年4月にサンクチュアリ・パブリッシングから発売された『くらしのたのしみ』です。絶版になっていた一冊が、あたらしく改定文庫版となって登場。忙しない日々になりやすい現代だからこそより一層魅力が引き立つ本作を、嵯峨先生に語っていただきました。

「嵯峨景子の今月の一冊」、第33回です。今月は2025年4月に出た甲斐みのり『くらすたのしみ』(mille books)を取り上げます。
- 著者
- 甲斐 みのり
- 出版日
2025年の7月と8月は、これまで生きてきた45年の中でも指折りで忙しい月でした。7月には母と二人で、ロンドンとパリの二週間ヨーロッパ旅行に出かけました。帰国直後の8月からは、大学非常勤講師の仕事で8日間30コマの講義を。初のヨーロッパ旅行も、ポピュラーカルチャーをテーマにした講義もとても楽しく、充実した日々を過ごせた半面、体力的な意味では完全に限界を超えてしまいました。とりわけ今年度が初回となる講義の準備は大変で、最後の三日間は睡眠時間が合計6時間という修羅場に……。自分の段取りの悪さが原因ですが、睡眠を削りながら準備がさすがに身体にこたえ、授業後はしばらく起き上がれないほどでした。
ここまで疲労が重なると、本を読みたくても手に取る元気がないという状態に陥ります。こういう時は、これまでに何度か読んだことがある大好きなエッセイを再読し、読書のリハビリをするのが一番です。どの本にしようか本棚の前でしばし悩み、手に取ったのが『くらすたのしみ』でした。
著者の甲斐みのりは、お菓子やパン、旅や散歩、クラシックな建築、雑貨や手土産などをテーマに執筆を続けている文筆家です。50冊を超える著作の中で紹介されるモノや場所は、どこかノスタルジックかつ乙女心をくすぐるものばかり。日常の中で心ときめくアイテムや、懐かしくて新しいものたちを知るためのカタログとして、これまで何冊も彼女の本を集めてきました。とりわけ気に入っているのが『乙女の東京案内』(左右社)で、自分の好きな場所や行きたい場所がたくさん紹介されています。レトロな写真もなんとも味わい深く、自分の中の東京街歩きの定番の一冊となっています。
- 著者
- 甲斐みのり
- 出版日
『乙女の東京案内』をはじめ、甲斐みのりの本は写真も魅力的で、ビジュアル込みで楽しむイメージが強くありました。それに対して『くらすたのしみ』は、文章をメインに編まれた随筆集です。視覚的な要素が少ないからこそ、より純粋に彼女の文章と感性を味わえます。この本を通じて、甲斐みのりの綴る言葉の魅力を再確認しました。
随筆集は、以下の7章から構成されています。記憶の中の愛おしいものを綴る「くらすたのしみ」、少女時代のお気に入りを語る「少女遺産」、旅にまつわる文章をあつめた「旅の中へ」、古書の匂いがたちのぼるエッセイを収録した「古本のある生活」、初恋にまつわる甘酸っぱい記憶が切ない想いを呼び起こす「カセットテープの記憶」、生まれ故郷の静岡と家族をテーマにした「猫と富士山」、”好き“の蒐集の記録である「好き」。
随筆集に通底するのは、愛おしいものを語るあたたかな視線と言葉です。琴線にふれたものをとことん追求する姿勢には敬愛の念を抱きますし、随筆を読んでいると心の中に幸せな気持ちがあふれてきます。個人的に特に心を惹かれたのが、「ものを持つ暮らし」や「もののバトンタッチ」など、増え続ける本や雑貨、紙モノにまつわる葛藤を綴ったエッセイです。こうしたモノとどうやって折り合いをつけて暮らしていけばよいのか、いつか手放すときが来たらどんな心構えをしたらよいのか、ヒントをもらえた気がします。音楽にまつわる随筆も新しい世界の扉を開いてくれて、この本を通じて初めて聴いた曲もいろいろありました。
『くらすたのしみ』を通じて語られる著者の“好き”はとても心地よく、触発されて「私も自分の暮らしを楽しもう」という思いを強くしています。自分にとってかけがえのないものをいつまでも大切にしていきたい、そしてこれからも世界に対する好奇心を持ち続けて、たくさんの場所に出かけていきたい。そんな私にとって道しるべとなってくれる、宝物のようなエッセイ集です。『くらすたのしみ』とあわせてお薦めしたいのが、『たべるたのしみ』という食にフォーカスした随筆集。あわせて読むことで、より一層甲斐みのりの世界を楽しめると思います。ささやかな日常の中の輝きを切り取った、珠玉の随筆集。忙しない生活の中で余裕を失ったときにこそ、ふと立ち止まって手に取ってほしい一冊です。
- 著者
- 甲斐 みのり
- 出版日
- 著者
- 甲斐 みのり
- 出版日