少女小説研究の第一人者である嵯峨景子先生に、その月に読んだ印象的な一冊を紹介していただく『今月の一冊』。35回目にお届けするのは2025年10月に河出書房新社から発売された『三頭の蝶の道』です。女性作家「女流」と呼ばれていた時代を生き抜いた作家たちを描く本作の魅力を、嵯峨先生に語っていただきました。

「嵯峨景子の今月の一冊」、第35回です。今月は2025年10月に出た山田詠美の『三頭の蝶の道』(河出書房新社)を取り上げます。
- 著者
- 山田 詠美
- 出版日
『三頭の蝶の道』は山田詠美のデビュー40周年を記念して刊行された小説です。山田双葉名義で漫画家として活動していた山田詠美は、1985年に『ベッドタイムアイズ』で文藝賞を受賞して小説家としてデビュー。デビュー作も含めて幾度も芥川賞候補になった後、1987年に『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』で直木賞を受賞します。以後もさまざまな小説を手掛け、女流文学賞、読売文学賞、谷崎潤一郎賞、野間文芸賞などなど、数々の文学賞を受賞するなど高い評価を受けてきました。
私が初めて山田詠美の作品を読んだのは多感な思春期の頃です。美意識の形成に大きな影響を受けた『放課後の音符』を筆頭に、少女同士のいじめや束縛など学校という檻について考えさせられた『蝶々の纏足・風葬の教室』や、痛快な青春小説の『ぼくは勉強ができない』など、少年少女を描いた作品群にはとりわけ思い入れがあります。
『三頭の蝶の道』は、かつて女性作家が「女流」と呼ばれていた時代を生き抜いた、三人の作家の姿を描いた物語です。今では耳にすることも少なくなった「女流」あるいは「女流文学」というワード。「女流」という言葉には、男の手掛けるものより一段低い位にあるという蔑みが潜みます。本作は、「女流」という言葉へのアンビヴァレントな思いと、その時代を生きてきた女性作家たちへの敬愛を描いた、大変面白く刺激的な小説でした。
物語のメインを彩るのは、以下の三人の作家です。独特のフェティシズムをテーマに、観念的な小説世界を紡ぎ続けた河合理智子。細やかな観察眼をもち繊細で哀切な小説を手掛ける高柳るり子は、実際の人間関係においてはサークルクラッシャーで、自分を脅かしそうな女性作家がいると敵視して攻撃する子どもっぽい性格の持ち主です。そして森羅万里はTV出演も積極的にこなし、小説よりもタレント的な人気を博しています。
昭和文学に触れたことがある方なら、それぞれのモデルになった実在の作家にピンとくるかもしれません。とはいえ、そこはあくまでフィクション。作中にときおり顔を出すゴシップ要素にニヤリとしつつも、山田詠美が生み出したキャラクターを存分に楽しみました。お互いを意識しあい、切磋琢磨を続けてきた三人の作家の姿だけでなく、より若い世代の作家との交流や、仕事として伴走した編集者たち、作家のプライベートにも関わっていた身内など、さまざまな立場の人の視点からも文学や小説にまつわる業と愉悦が重層的に描かれます。
『三頭の蝶の道』には、はっとさせられる言葉がたくさん登場します。帯にも引用されている「作家は、脳内で人を殺せてこそ、花。そう思わない?」は、とりわけ強烈なフレーズです。私が気に入っているのは、「作家の才能は、人間をいびつにするものなの」という編集者の玉川桜子の言葉と、「この人のいびつ具合は美しいな」と惚れ惚れする同じく編集者の林田咲の独白。文学は、良識だけでは図れない魑魅魍魎の世界です。その手ごわさとゆがみを浮き彫りにする、印象的なフレーズでした。圧倒的な才能を持つ人間が繰り出す子どもじみた悪口や嫉妬など、一筋縄ではいかない女性作家の多面的な姿にぞくぞくさせられます。
本作は三章立てで、それぞれ作家の葬儀から始まるというユニークな構成を取ります。第1章は2015年で河合理智子。続く第2章は時を遡り、2007年の高柳るり子。最後の第3章は、2023年の森羅万里。それぞれの葬儀からスタートし、思い出や回想を通じて三人の女性作家の間の愛憎とともに、ある時期までには明確に存在した純文学と大衆文学の間のヒエラルキーなど、出版界を取り巻くさまざまな事情にも光が当てられていきます。三人の中でも、個人的に一番心を惹かれたのが河合理智子のパートです。不道徳な世界を理知的に追及する作家としての姿や、不器用で誤解されがちな性格、彼女を支えた夫との絆、そして山田詠美自身を思わせる山下路美という作家との師弟関係にも痺れました。
物語は一貫して「ですます」調で執筆されており、誰かの語りに耳を傾けているような気持ちにさせられます。「女流」の時代を生き抜いた女性作家への敬愛の念に感服するとともに、未来を託された作家や編集者の姿は、今日を生きる私たちへのエールのようにも思え、勇気づけられました。思春期に触れた少女少年が主人公の小説と同様に、この作品もまた私の中で特別な一冊になりそうです。これまでに山田詠美作品に触れたことがない人、とりわけ若い世代の書き手や読者にもぜひ手に取ってほしいと願っています。四十周年を祝するにふさわしい、至高の一作です。
- 著者
- 山田 詠美
- 出版日