【現代の悩みを哲学で解決】理想の自分と現実のギャップに苦しむ日々…。ドストエフスキー『罪と罰』から考える

更新:2026.5.18

現代の悩みを小説形式で考える哲学シリーズ。 今回は「自分はいつか何かを成し遂げるはずだ」という思いを手放せない会社員の物語です。 大学を出て数年、何も始められないまま時間だけが過ぎていく。 自分は特別な人間なのか、凡庸な人間なのか。 その問いを、ドストエフスキーの『罪と罰』に重ねてみたい。

大学院のときは、ハイデガーを少し。 その後、高校の社会科教員を10年ほど。 身長が高いので、あだ名は“巨人”。 今はライターとして色々と。
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プロローグ:何者でもない土曜日

土曜の昼過ぎ、洗濯物を干し終えた亮介はソファに座ったまま、スマートフォンを眺めていた。

大学時代のグループLINEに通知が来ている。ゼミの同期だった中村が、勤め先の新規事業で社内表彰を受けたらしい。

スクリーンショット付きの報告に、「すごい」「さすが」というスタンプが並んでいた。

亮介は画面を暗くして、天井を見上げた。

中村は特別に優秀だったわけではない。ゼミの議論では、亮介の方が鋭いことを言っていた自覚がある。

それなのに中村は目に見える形で結果を出し、自分は毎日同じ業務をこなしているだけだ。

いつからだろう。

「自分はいつか何かを成し遂げる」という漠然とした確信が、胸の奥に居座るようになったのは。

大学時代にはそれが自信だった。就職してからは、いつの間にか焦りに変わっていた。

何かをやりたい。でも、何をやるのかが分からない。

転職サイトを開いては閉じ、資格の勉強を始めてはやめ、副業のアイデアをメモしては放置する。

そういうことを繰り返しながら、28歳の秋を迎えている。

職場では「まじめで安定した人」という評価をもらっている。悪い評価ではない。でも亮介にとって、その言葉は「特別なところがない」と言われているのと同じだった。

時計を見ると午後2時を回っていた。散髪の予約を入れていたことを思い出し、亮介は重い腰を上げた。

理髪店の午後

駅から一本入った路地に、その店はある。「カットハウス丸山」という看板が少し色褪せた、昔ながらの理髪店だ。

半年ほど前、引っ越してきたばかりの頃に初めて入った。安くて早くて、余計な会話がない。それが気に入って月に一度ほど通うようになっていた。

店主の丸山は60代半ばに見える。白髪を短く刈り込み、いつも同じ紺色のエプロンをしている。

こちらから話しかけなければ黙って手を動かしているだけの人で、それが亮介には心地よかった。 「

いつも通りで」

「はい」

鏡の前に座り、ケープをかけられる。バリカンの低い音が耳のそばで鳴り始めた。

ぼんやりと鏡に映る自分の顔を見ていた。疲れた顔だ、と思った。

「お客さん、今日は元気ないね」

丸山が珍しく声をかけてきた。亮介は少し驚いて、曖昧に笑った。

「……そうですかね。まあ、ちょっと」

「仕事かな」

「仕事というか、仕事以前の問題というか」

そこで言葉が詰まった。鏡越しに丸山と目が合う。丸山は何も言わず、はさみを動かし続けている。

その沈黙に促されるようにして、亮介は口を開いた。

「俺、大学のとき、自分はもっと何かできる人間だと思ってたんです。でも会社に入って何年か経って、結局何も始められてない。やりたいことがあるわけでもないのに、このまま普通に終わるのが怖いっていうか……」

丸山はしばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。

「ドストエフスキーって、読んだことあるかい」

ラスコーリニコフの錯覚

「ドストエフスキー……。名前は知ってますけど、読んだことはないです」

「俺も若い頃に何冊か読んだだけだけどね。『罪と罰』っていう小説があるんだ。主人公はラスコーリニコフっていう、貧乏な大学生でね」

丸山ははさみを動かしながら、淡々と話し始めた。

「ラスコーリニコフは頭のいい青年で、ある理論を考えていた。世の中の人間には凡人と非凡人の二種類がいる。ナポレオンのような非凡な人間には、既存の道徳を踏み越える権利がある、と」

「物騒な理論ですね」

「そう。それで彼は、自分が非凡人であることを証明するために、金貸しの老婆を殺す」

亮介は鏡越しに丸山の手元を見ていた。はさみの動きは一定のリズムを保っている。

「でも、殺した後が肝心でね。彼は熱を出して寝込み、幻覚に苦しみ、じわじわと追い詰められていく。ここが面白いところなんだけど、彼が本当に苦しんだのは、罪悪感だけじゃないんだ」

「というと?」

「自分が非凡人ではなかったと気づいてしまった。ナポレオンなら動揺せずにやり遂げたはずだ。なのに自分は震え、怯え、隠そうとしている。殺したことよりも、自分が『その程度の人間だった』と突きつけられたことの方が、彼にはこたえた」

亮介は黙って聞いていた。

極端な話だ。殺人犯の苦悩と自分の悩みを並べるのは無理がある。でも、何かが引っかかった。

「いつか」という偽りの時間

丸山は櫛を持ち替えて、側面を整え始めた。

「俺が気になったのは殺人のところじゃなくてね。ラスコーリニコフがあの理論を抱えていたときの心理なんだよ」

「理論を抱えていたとき、ですか」

「自分は非凡人だと信じている間、彼にとって今の貧しい暮らしは仮の姿なんだ。本当の自分はこんなところにいる人間じゃない、いつか本領を発揮する。そう思っている限り、目の前の生活をまともに生きなくても済んでしまう」

亮介は息を呑んだ。

「それって……」

「お客さんの話と似てないかい。いつか何かを成し遂げるはずだ。その『いつか』がある限り、今の自分は本当の自分じゃない。仮の状態だから、本腰を入れなくても言い訳がきく」

鏡の中の自分の表情がこわばっているのが分かった。

丸山は亮介の目を見ているわけではない。

ただ髪を切りながら、静かに話している。

「俺もね、若い頃はそういう気持ちがあったよ。理髪師になんかなるつもりじゃなかった。でも気がついたら30年以上、この仕事をしている」

「……後悔は、ないんですか」

「後悔というのとは違うな。ただ、どこかで『いつか別の何かになる』っていう気持ちを降ろしたんだと思う。降ろした後に初めて、目の前のことがちゃんと見えるようになった」

亮介は鏡の中の丸山を見た。

はさみを持つ手に迷いがない。

30年以上この椅子の前に立ち続けた人の手だ。

「見えるようになった、というのは?」

「たとえば、髪を切りに来る人の顔つきとか、体調の変化とかね。何年も通ってくれている

常連さんの生活が、少しずつ変わっていくのが分かる。

そういうことに気づけるようになったのは、自分のことばかり考えるのをやめてからだった」

枠組みから降りる

亮介は少し混乱していた。

「でもそれって、『自分は凡人だ』と認めろってことですか。諦めろ、と」

丸山は首を小さく振った。

「ラスコーリニコフの話に戻るとね。彼は最後にシベリアへ送られる。そこに、ソーニャっていう女がついてくるんだ。ずっと彼のそばにいた女性でね。彼女との関わりの中で、ようやく何かが変わり始める」

「何が変わるんですか」

「『非凡か凡庸か』という判断基準を手放した、と俺は読んだけどね。自分は特別な人間なのか、取るに足らない人間なのか。ラスコーリニコフはずっとその二択の中にいた。でも、彼を本当に苦しめていたのはその枠組みの方だった」

丸山はドライヤーに手を伸ばしながら続けた。

「『自分は特別だ』と思えば、現実との落差に苦しむ。『自分は凡庸だ』と認めれば、今度はそれが耐えられない。どちらに転んでも苦しいのは、その物差しで自分を測り続けているからなんだと思うよ」

亮介は黙って考えていた。

自分は特別だと思いたい気持ち。しかしそれを裏づける根拠は何もない。かといって「普通でいい」とも思えない苛立ち。

その全部が、同じ枠組みの中にある。

言われてみれば、自分はずっと同じ天秤の上で揺れていただけだった。特別な側に傾きたくて、でも傾けるだけの重さがなくて、そのこと自体に苦しんでいた。

天秤から降りるという選択肢は、考えたことすらなかった。

「じゃあ、どうすればいいんですかね」

「どうすればいいかは、俺には分からないよ。ただ、ラスコーリニコフが変わったきっかけは、理屈で何かを悟ったからじゃなかった」

ドライヤーの温かい風が首筋に当たっていた。

「ソーニャという、目の前にいる一人の人間と向き合ったときだった。自分が何者であるかという問いから、目の前の相手にどう関わるかという方向に、重心がずれた。そういうことなんだろうと俺は思っている」

エピローグ:次の予約

「はい、お疲れさまでした」

ケープを外され、亮介は襟元についた細かい髪を払った。丸山はいつもと同じ手際で、椅子の周りを掃き始めている。

亮介は財布を出しながら、ふと丸山の手元を見た。さっきまで髪を切っていた手だ。

はさみ、櫛、ドライヤーと持ち替えながら、何十年もの間、同じ動作を繰り返してきた手。

その手が毎日、一人ひとりの髪を黙って整えている。

以前は気にも留めなかった光景が、少しだけ違って見えた。

「丸山さん」

「うん?」

「また来月、お願いします」

「はいよ」

店を出ると、ひんやりとした秋の空気が広がっていた。

自分は何者かになれるのだろうか。その問いはまだ胸の中にある。

「いつか」という言葉も、簡単には消えないだろう。

ただし、その「いつか」を待っている間にも、今日という一日は確かに過ぎていく。

 

翌週の月曜、残業をしていると隣の席では、後藤がまだ帰っていないことに気づいた。画面を睨みながら、何度も同じ資料を開き直している。

締め切りが近い案件を抱えているらしいことは知っていたが、これまで気に留めたことはなかった。

亮介は給湯室に向かい、自販機で缶コーヒーを二本買った。一本を後藤の机に置く。

「大変そうだな」

後藤は少し驚いた顔をして、それから「ありがとうございます」と頭を下げた。

大したことをしたわけではないけれど、缶コーヒーの温かさがずっと手のひらに残っていた。

さらに問いを深めるためのオススメ書籍

ドストエフスキー(2008)『罪と罰(1)』(亀山郁夫 訳)光文社

著者
["フョードル・ミハイロヴィチ ドストエフスキー", "郁夫, 亀山"]
出版日

「自分は特別な人間だ」と信じた青年が、それを証明するために殺人を犯し、心を壊していく。

150年以上前に書かれた物語でありながら、自意識と理想の間で引き裂かれるラスコーリニコフの姿は、現代の私たちにも鋭く突き刺さります。

亀山郁夫先生による新訳は、ロシア文学の重厚さを保ちながらも現代の日本語として自然に読める仕上がりになっています。

巻末の読書ガイドも充実しており、初めてドストエフスキーに触れる方にもおすすめできる一冊です。

亀山郁夫(2021)『(別冊)NHK100分de名著<集中講義>ドストエフスキー 五大長編を解読する』 NHK出版

著者
亀山 郁夫
出版日

「読みたいけれど長い」。ドストエフスキーに興味を持ちながら原作に手が伸びない方には、まずこの一冊をおすすめします。人物相関図や時代背景の詳しい解説付きで『罪と罰』をはじめとする、ドストエフスキーの五大長編を深く読み解くことができます。

ラスコーリニコフの「非凡人の理論」が、どのような時代の空気から生まれたのか、なぜ彼はソーニャとの出会いによって変わり得たのか。

原作を読む前にも、読んだ後にも楽しめる構成になっています。

江川卓(1986)『謎とき「罪と罰」』 新潮社

著者
江川 卓
出版日

主人公の名前「ラスコーリニコフ」に、なぜその名が与えられたのか。作中に散りばめられた数字や聖書の引用は何を意味しているのか。

ドストエフスキーの翻訳者でもある江川卓先生が、作品の深層に隠された暗号を一つひとつ解き明かしていきます。

読売文学賞を受賞した本書は『罪と罰』を一度読み終えた方にこそ、手に取ってほしい一冊です。

二度目の読書体験が、まったく違う体験に変わるはずです。

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