現代の悩みを小説形式で考える哲学シリーズ。 「努力すれば報われる」 そう言い続けた母だったが、息子の不合格を受けて自分の言葉に立ちすくむ。 あの言葉は嘘だったのか。それとも、足りなかったのか。 フランスの哲学者リオタールは、社会全体を束ねる「大きな物語」が力を失った時代を見据えていた。 その先に残る「小さな物語」とは何か。

スマートフォンの画面を、恵子は息子より先に見てしまった。
受験番号の一覧が、白い画面にびっしりと並んでいる。右上の検索欄に番号を入れると、画面が一度だけ震えて、それきり何も起こらなかった。
「該当する受験番号はありません。」
恵子はスマートフォンを裏返しに置いた。リビングの奥から、翔太の足音が近づいてくる。
「母さん、見た?」
「……まだ見てないよ」
嘘だった。翔太はそれに気づいたのか気づかなかったのか、自分のスマートフォンで結果を確認すると、しばらく黙った。それから椅子に座り、テーブルに額をつけた。
「あれだけ努力したのに」
その一言が静かなリビングに落ちた。
恵子は何か言わなければと思った。3年間、ずっと言い続けてきた言葉がある。
模試の成績が下がったとき、部活を辞めて勉強に集中すると決めたとき、年末の追い込みで睡眠時間を削っていたとき。
何度も、何度も言った。
「努力は裏切らないから」
今、その言葉が喉まで来て、止まった。
裏切ったのではないか。
翔太は顔を上げないまま、テーブルに伏している。恵子はキッチンに立ち、翔太の分の白湯を注いだ。何を言えばいいのか、分からなかった。
不合格から5日が経っていた。
翔太は自室にこもりがちで、浪人するか滑り止めの大学に進むか、結論を出せずにいる。恵子も答えを持っていなかった。
その日、月に一度の美容院の予約が入っていた。キャンセルしようかと思ったが、予約画面を開いたまま、結局そのままにした。
「こんにちは、篠田さん。今日はどうしますか」
美容師の綾は、いつもと変わらない声で迎えた。30代半ば、背が高く、手際が良い。恵子はこの店に3年ほど通っている。
「いつもと同じで。少し整えるくらいで」
「分かりました」
ケープをかけられ、鏡の前に座る。照明に照らされた自分の顔が、思ったより疲れて見えた。目の下に薄い影がある。
綾がシャンプー台に案内し、ぬるい湯が頭皮に当たると、恵子は少しだけ力が抜けた。
カットが始まる。
綾の手が髪を梳かし、ハサミの音が規則的に響く。鏡越しに綾の目が映る。
「最近、お疲れですか」
「……うん、ちょっとね」
綾はそれ以上踏み込まず、前髪の長さを確認した。恵子はしばらく黙っていたが、ぽつりと言った。
「息子がね、受験で。第一志望、落ちちゃって」
ハサミの音が一瞬止まり、またすぐに再開した。
「そうでしたか」
「3年間、けっこう頑張ってたんだけどね。本人が一番辛いと思うんだけど、私も正直、きつくて」
綾は鏡越しに恵子を見ながら、静かにうなずいた。
「報われなかったって感じますよね。頑張った分だけ」
「そう。私は『努力は裏切らない』ってずっと言ってたの。今さら何を言えばいいのか分からなくなっちゃって」
綾はサイドの髪を耳にかけながら、少し間を置いて言った。
「篠田さんが嘘をついたわけじゃないと思いますよ。あの言葉を言ったとき、本当にそう信じてたんじゃないですか」
「信じてた。でも、結果を見ると……」
「結果が出ると、言葉の意味が変わるんですよね」
恵子は鏡の中の綾を見た。ハサミを持つ手は動いているが、目は少し考え込んでいるように見えた。
カットが終わり、綾がドライヤーを当て始めた。温かい風が首筋をなでる。
「あの、ちょっと思い出したことがあって」
綾がドライヤーの風量を少し落として言った。
「私、夜間の大学に通ってるんです。美容師しながら。哲学の授業を取ってて、最近ちょうど似たようなことを考えてたんですよ」
「哲学?」
「はい。リオタールっていうフランスの哲学者がいて、その人が面白いことを言ってるんです」
恵子は少し意外に思った。美容院の会話で哲学が出てくるとは思わなかったが、綾の口調に力みがなかったので、自然に耳を傾けた。
「リオタールは『大きな物語』って言葉を使ったんです。社会全体を一つの筋書きで説明するような、大きな言葉のことです。たとえば『科学が進歩すれば人類は幸せになる』とか、『歴史は自由に向かって進む』とか」
「大きな物語……」
「『努力すれば報われる』も、たぶんそのひとつで。しかも日本では長い間、本当に機能していたんですよ」
綾はドライヤーを止め、ブラシで髪を整えながら続けた。
「高度経済成長の頃って、社会全体が右肩上がりだったじゃないですか。頑張って勉強して、いい大学に入って、いい会社に就職すれば、給料も上がるし、家も建つ。努力と結果が結びつきやすい仕組みが、社会の側にあったんです。だから『努力すれば報われる』は嘘じゃなかった。実際にそうなる人が多かったから、みんなが信じられた」
恵子は思わずうなずいた。自分の父も、そういう時代を生きた人だった。高卒で工場に入り、真面目に働いて家を建てた。
「やればできる」が、本当にできた世代だ。
「でも」と綾は言った。
「社会の仕組みのほうが変わってしまった。右肩上がりじゃなくなって、努力しても報われるとは限らない場面が増えた。なのに言葉だけはそのまま残っている。『努力すれば報われる』って」
「言葉だけが、残っている……」
「リオタールはそういう時代を『ポストモダン』って呼んだんです。大きな物語が嘘だったんじゃなくて、かつては確かに人を動かす力があった。でも今は、一つの物語だけでは足りなくなった」
恵子はその言葉を反芻した。
「足りなく、なった」
「そうなんです。篠田さんのお父さんが生きた時代には届いた言葉が、息子さんの時代には同じようには届かない。言葉が間違っているんじゃなくて、言葉を支えていた土台のほうが変わってしまった。それなのに『努力』っていう言葉は一人歩きして、まるでいつでも万能みたいな顔をしている」
綾は自分の手を見た。
「美容師になるまで、私もけっこう苦労したんです。専門学校出て、最初のお店でうまくいかなくて、辞めて、また別のお店に入って。努力したかって聞かれたら、したと思います。でも、報われたかどうかは正直分からない。お客さんに『ありがとう』って言われた瞬間は報われた気がするけど、それって努力の成果なのか、たまたまなのか」
恵子は黙って聞いていた。
「だから、篠田さんが息子さんに言った言葉が嘘だったとは思わないんです。ただ、あの言葉は一つの物語だった。大事な物語だったけど、他にも物語はあるかもしれないっていうことだと思うんですよ」
恵子は鏡の前に座ったまま、この3年間を思い返していた。
毎朝、5時に起きて弁当を作った。おかずの品数を気にしたのは自分のほうで、翔太が求めていたかは分からない。模試の結果が返ってくるたびに、翔太より先に封筒を手に取りそうになる自分を抑えた。
夏休み、塾の自習室から帰ってきた翔太と、夜中にカップラーメンを食べたことがある。翔太が「受かるかなあ」と言ったとき、恵子は「大丈夫、努力してるから」と言った。
翔太は小さく笑って「母さんはいつも同じ言葉だよな」と返した。
あの3年間は、何だったのだろう。
「合格」という結果から逆算すれば、報われなかった努力として計算される。不合格という決算書に赤字で記入されて、それで終わりだ。
だが、恵子の中には別の記憶がある。
5時に起きた台所の静けさ。換気扇の音。弁当箱の蓋を閉めるときの、小さな達成感。
模試のあとに翔太が「国語ができた」と言ったときの顔。
夜中に立ち上がるカップラーメンの湯気。
それらは「合格のため」にあったのか。
恵子には分からなかった。ただ、あの時間がなかったことになるのは、嫌だと思った。
「綾さん、さっきの哲学者は、大きな物語が終わったあとに何が残るって言ったの?」
綾は少し考えてから答えた。
「リオタールは『小さな物語(プティ・レシ)』って呼んでます。みんなに共通する一つの正解じゃなくて、その人にとってだけ意味がある、個別の物語です」
「小さな物語」
「大きな物語が終わったわけじゃないんです。でも、それだけでは語りきれないものがある。そのときに大事なのは、自分だけの小さな物語を持てるかどうかだと思うんです」
綾はブラシの柄を指先で回しながら、少し考えるように続けた。
「大きな物語が崩れると、全部が無意味に見えてしまうことがあるじゃないですか。『努力しても報われないなら、何をやっても同じだ』って
綾は話を続ける。
「リオタールが言いたかったのは、たぶんその先なんです。大きな物語が万能じゃなくなっても、足元には小さな物語がたくさん残っている。それを丁寧に拾い上げられるかどうかが大事だって」
「足元に残っている……」
「合格か不合格かという大きな筋書きからは見えないけど、篠田さんと息子さんの間にしかない時間や、感情がありますよね。そういうものは、大きな物語が崩れても消えないんです。むしろ大きな物語に覆い隠されていたからこそ、今になって初めて見えてくるものかもしれない」
「……まだ私も勉強中なので、正確じゃないかもしれないですけど」
恵子は鏡の中の自分を見た。髪が少し短くなっている。白い照明の下で、朝よりは目の影が薄くなったように見えた。
翔太に「努力は裏切らない」と言った自分。
あの言葉は大きな物語だった。大事に信じてきた言葉だけど、今回はそれだけでは足りなかった。
あの三年間、朝の台所、夜中のカップラーメン、翔太の「いつも同じ言葉だよな」という何気ない会話。
それらは大きな物語には回収されない、恵子と翔太だけの小さな物語ではないだろうか。
「ありがとう、綾さん。今日来てよかった」
綾はケープを外しながら、少し照れて笑った。
「私こそ、授業で習ったことを初めて人に話せました。こういう話、お店じゃなかなかできなくて」
外に出ると、2月の空気が頬に冷たかった。だけど朝より少しだけ陽が長くなっていた。
恵子はコートのポケットに手を入れて歩いた。
「努力すれば報われる」が嘘だったとは思わない。ただ、あの言葉だけでは足りなかった。
マンションの階段を上がり、玄関を開ける。
リビングに翔太がいた。テーブルに第二志望の大学パンフレットと、予備校の資料が並んでいる。
翔太はまだ、どちらにするか決めてない。
恵子はキッチンに立ち、ケトルのスイッチを入れた。湯が沸く音が響く。
翔太がこちらを見た。
恵子は何か言おうとした。「努力は裏切らない」ではない。
「大きな物語」でも「小さな物語」でもない、もっと手ざわりのある何かを。
言葉はまだ見つかっていなかった。
考えていると、お湯が沸いた。
恵子はカップを2つ出して、翔太の前に1つ置いた。
千葉雅也(2022)『現代思想入門』講談社
- 著者
- 千葉 雅也
- 出版日
リオタールが属するフランス現代思想の全体像をつかむための一冊。
デリダ、ドゥルーズ、フーコーといった思想家たちが何を問題にしていたのかを、専門用語を噛み砕きながら解説しています。
「二項対立で物事を捉えない」「秩序からの逸脱に注目する」といった現代思想の基本姿勢は、本記事で描かれた「大きな物語」への問い直しを、より広い視野で理解する助けになります。
新書大賞2023を受賞したベストセラーで、哲学の予備知識がなくても読み通すことができます。
仲正昌樹(2006)『集中講義! 日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか』NHK出版
- 著者
- 仲正 昌樹
- 出版日
1980年代の日本でポストモダンがどのように受容され、何を変え、なぜ退潮したのかを整理した一冊です。
今回の物語に登場した綾が語った「高度経済成長期には『努力すれば報われる』が本当に機能していた」という指摘は、まさに日本社会における「大きな物語」が盛衰したことを示しています。
リオタールの思想が日本の文脈でどう読まれたかを知ることで、記事の背景がより立体的に見えてきます。講義形式で書かれており入門書を読んだあとに進む、次のステップとして適しています。
ジャン゠フランソワ・リオタール(1986)『ポスト・モダンの条件 知・社会・言語ゲーム』(小林康夫 訳)星雲社
- 著者
- ["ジャン フランソワ リオタール", "小林 康夫"]
- 出版日
「大きな物語の終焉」というテーゼを提示した、リオタールの代表作です。
232ページと哲学書としてはコンパクトで、入門書で土台をつくってから読めば、本質的な部分は十分に追うことができます。
本記事で描かれた「大きな物語」と「小さな物語」の対比が、リオタール自身の言葉でどのように論じられているかを確かめることができる一冊です。