現代の悩みを小説形式で考える哲学シリーズ。 今回は、原稿が書けなくなったフリーライターの物語です。 構成も資料も揃っている。頭では「書けるはず」なのに、指が動かない。 わかっているのに動けない。それは本当に意志の弱さなのだろうか。 メルロ=ポンティの『知覚の現象学』から考えてみたい。

締め切りまであと三日。
瑞希はノートパソコンの前に座ったまま、二時間が過ぎていた。画面にはタイトルと見出しだけが並んでいる。取材メモは整理してある。構成も決まっている。あとは書くだけ。
それがわかっているのに、指がキーボードに降りない。
フリーライターになって三年。最初の頃はこんなことはなかった。テーマが与えられれば、とにかく手を動かした。拙くても書いた。でもいつの頃からか、書き始める前に考えすぎるようになった。構成を練り、資料を読み込み、完璧な一文目を頭の中で組み立てようとする。そして、組み立てている間に動けなくなる。
意志が弱いのだと思っていた。だらしないのだと。
スマートフォンに通知が入った。整体の予約確認だった。
月に一度通っている「やすらぎ整体院」。今日がその日だということを、すっかり忘れていた。
行く気力もなかった。だけどキャンセルの連絡を入れるのも億劫で、結局そのまま家を出た。
整体院は駅前の商店街から一本入った路地にある。通い始めて一年半。最初は肩こりがひどくて飛び込んだだけだったが、施術後の身体の軽さが気に入って、いつの間にか月一の習慣になっていた。
引き戸を開けると、薄いカーテン越しに午後の光が入っている。六畳ほどの施術室はいつもと変わらない。
いつものベッドにうつ伏せになると、整体師の村田さんが背中に手を置いた。50代の女性で、白衣ではなく動きやすそうな黒い服をいつも着ている。
指先が筋の走行を辿るたびに、瑞希の呼吸がふっと浅くなり、次の吐息でゆるんでいった。施術の合間、村田さんは言葉を添える代わりに小さな笑みを浮かべ、手の動きで説明するように続けた。
「……今日はずいぶん固まっていますね」
「そうですか」
「いつもと違います。肩だけじゃなくて、背中全体が板みたいになっている。呼吸も浅い」
村田さんの手が背中をゆっくり押していく。痛いのか気持ちいいのか、よくわからない圧が続く。
「何かありました?」
瑞希は少し迷ってから答えた。
「最近、原稿が書けなくて。もうずっとです」
「ああ……」
「頭ではわかっているんです。構成も資料も揃っていて、あとは書くだけ。なのに、パソコンの前に座ると手が止まる。意志が弱いんだと思って、自分を責めてばかりいます」
村田さんは手を動かしながら、少し間を置いて言った。
「面白いですね、その言い方」
「面白い、ですか」
「頭ではわかっている、って。それは裏を返せば、身体はわかっていないということでしょう?」
瑞希は少し驚いた。身体はわかっていない。考えたこともなかった。自分が怠けているせいだとばかり思っていた。
「メルロ=ポンティという哲学者がいるんですが」と村田さんは続けた。
「フランスの人で、20世紀の半ばに活躍した。この仕事を始めてから読んだんですけれど、身体について考えている哲学者なんです」
「村田さんが哲学を?」
「前にも話しましたっけ。身体に触れる仕事を何年もしていると、不思議なことが多いんですよ。同じ場所を同じように押しても、日によって反応が全然違う。言葉では説明できないけれど、手が知っていることがある。メルロ=ポンティは、まさにそのことを書いていました」
村田さんは話を続けた。
「たとえば先週、常連の方の首に触れた瞬間に、ああこの人は最近よく眠れていないな、と感じたんです。ご本人に聞いたら、やっぱりそうだった。なぜわかったのか、自分でもうまく説明できません。筋肉の硬さとか温度とか、そういう情報を手のひらが勝手に読み取っているとしか言いようがない」
「私たちは普通、知識は頭にあると思っています」
村田さんは瑞希の肩甲骨の周りをほぐしながら話した。
「何かを『わかる』というのは、脳で理解することだと。でもメルロ=ポンティは違う考え方をしました。人間は身体を通じて世界を理解している。頭で考える前に、身体がすでに世界と関わっている、と」
「身体が理解する、というのはどういうことですか」
「たとえば自転車に乗れますか」
「はい、乗れますけど」
「じゃあ、自転車の乗り方を言葉で説明できますか? ペダルをどのくらいの力で踏んで、ハンドルをどの角度で傾けて、重心をどこに置くか。全部正確に言葉にできますか」
瑞希は考えた。できない。バランスを取っている感覚はあるのに、それを言葉にしようとすると途端にわからなくなる。
「でも、乗れますよね。それは身体が『知っている』からです。これをメルロ=ポンティは頭の知識とは別の、身体の知恵として捉えました。身体は独自の仕方で世界を理解している。それは言葉や数式に変換できるような知識とは、まったく別のものなんです」
瑞希は自分の指先を見た。この指はかつて原稿を書いていた。考える前にキーを叩いていた時期がある。あの頃、指は何を「知って」いたのだろう。
思い出すのは、フリーになって最初の仕事だった。
ある料理人への取材を終えた帰り道、最寄りのファミレスに飛び込んでノートパソコンを開いた。構成も何もない。取材の興奮がまだ身体に残っているうちに、指が勝手に走り出した。
二時間で書き上げた原稿は、ほとんど修正なしで通った。あのとき自分は頭で書いていなかった。指が言葉を探していた。
「瑞希さんの場合は…」と村田さんは言った。
「頭で完璧に組み立ててから書こうとしている。設計図が完成するまで手を動かさない。でも書くという行為は、本来もっと身体的なものかもしれません。考えてから指を動かすのではなく、指を動かしながら考える。指がキーボードに触れて、そこから言葉が生まれる。その順番が逆転しているのかもしれません」
「でも、いい加減なものは書けないです。読む人がいるし、お金をもらって書いている以上、ちゃんとしたものを出さないと」
「もちろん。ただメルロ=ポンティが言っているのは、身体には身体の知恵があるということです。頭が邪魔をして身体が動けなくなることがある。完璧な設計図を描いてから手を動かそうとすると、かえって手が止まる。それは怠けているのとは違います」
瑞希は黙った。怠けているのとは違う。その言葉が、どこか深いところに届いた。
「よく言われますよね、まず行動しろって」と村田さんは続けた。
「でも、メルロ=ポンティはそういう精神論を言っているわけではないんです。身体にはもともと世界と関わる力がある。それを頭が抑え込んでいるだけで、身体の側はちゃんと準備ができている。だから頭の許可を待たなくていい」
村田さんはそこで少し黙った。
「私もね、最初の頃は教科書通りにやろうとして、手が動かなかったんです。ここを押せばこうなる、という理屈はわかっている」
「でも、目の前の身体は一人ひとり違う。教科書の知識で触れると、手がぎこちなくなるんですよ。むしろ何も考えずに触れた方が、相手の身体が応えてくれることがある。結局のところ手で触れて、手が教えてくれることを信じるしかなかった。二十年経った今でも、毎回そうです」
瑞希は村田さんの手の動きに意識を向けた。確かにその手は、考えながら動いているようには見えなかった。触れながら探り、探りながら次の場所へ向かっている。
施術が終わると、身体が少し軽くなっていた。肩の力が抜けて、呼吸が深くなっている。
「ありがとうございました」
「お大事に。……原稿、うまくいくといいですね」
帰り際、村田さんが付け加えた。
「書けなくても、ご自分を責めないでくださいね。凝り固まった筋肉がほぐれるのに順番があるように、指が動き出すのにも身体なりの順番があります。頭で『今すぐ書け』と命令しても、身体の準備が整っていなければ動かない。それは怠けとは別の話ですから」
瑞希は会釈して整体院を出た。外の空気が肌に触れる。さっきまでの重さが、少しだけ薄れている気がした。
近くのカフェに入った。ノートパソコンを開く。画面にはさっきと同じ、タイトルと見出しだけの原稿。
構成は忘れることにした。完璧な一文目も考えない。取材メモも閉じた。とりあえず、指を置く。
頭ではなく、指から始める。
最初の一文はぎこちなかった。二文目もうまくない。でも指は止まらなかった。三文目、四文目。文章の形を整えるのは後でいい。
今は、ただ指が動いている。
村田さんの手を思い出した。あの手は理屈の前に動いていた。触れてから考えていた。
瑞希の指も、少しだけそれに似ていた。画面に文字が並んでいく。いい文章かどうかはわからない。でも、止まっていた指が動いている。
それは、頭が許可を出したからではなかった。
モーリス・メルロ=ポンティ(1967-1974)『知覚の現象学』1・2(竹内芳郎・小木貞孝・宮本忠雄・木田元 訳)みすず書房
- 著者
- ["モーリス・メルロ=ポンティ", "竹内 芳郎", "小木 貞孝"]
- 出版日
- 著者
- ["モーリス・メルロ=ポンティ", "竹内 芳郎", "木田 元", "宮本 忠雄"]
- 出版日
今回の物語において出発点となった一冊です。メルロ=ポンティが1945年に刊行した主著で、人間の知覚と身体の関係を根底から問い直しています。
普段の私たちは世界をまず頭で認識し、そのあとで身体を動かすと考えます。しかしメルロ=ポンティは、身体はすでに世界を「理解」しており、意識的な思考に先立って世界と関わっていると論じました。
自転車に乗れるのに乗り方を言葉で説明できないのは、身体が独自の知恵を持っている証拠です。今回の小説で村田さんが語った「手が知っていること」という感覚は、この本が伝えるメッセージにつながっています。
全2巻で合計800ページ近くあり哲学書としての難度は高めですが、第一部「身体」のパートだけでも読めば「わかっているのに動けない」という経験を、別の角度から眺め直す手がかりが得られるはずです。
モーリス・メルロ=ポンティ(1966)『眼と精神』(滝浦静雄・木田元 訳)みすず書房
- 著者
- モーリス・メルロ=ポンティ
- 出版日
- 1966-11-30
メルロ=ポンティが1961年に発表した最後のエッセイです。画家の仕事を手がかりに、身体と知覚、そして表現の関係を考察しています。
「画家は世界を「見る」だけではなく、身体ごと世界に巻き込まれながら描いている」
「科学が対象を外側から観察するのに対し、絵画は身体を通して、世界の内側に入り込む営みである」
このようにメルロ=ポンティは主張しました。
これは「書く」という行為にも重なるかもしれません。瑞希が経験した「考えてから書く」のではなく「書きながら考える」という転換は、画家が身体で世界に触れるように指先で言葉に触れていくことと似ています。
100ページほどの薄い本ですが『知覚の現象学』のエッセンスが凝縮されており、主著に手を伸ばす前の入口として、あるいは読了後の振り返りとして、どちらの順序でも読めるおすすめの一冊です。
鷲田清一(2015)『「聴く」ことの力──臨床哲学試論』ちくま学芸文庫
- 著者
- 鷲田 清一
- 出版日
哲学者・鷲田清一先生が「聴くこと」の意味を哲学的に掘り下げた著作です。鷲田先生はメルロ=ポンティ研究者でもあり、身体と他者の関わりを長年考え続けてきた方です。
「聴く」とは、相手の言葉を受け取ることだけではなく、身体ごと相手の側にいること、沈黙を共有すること、相手の言葉にならない部分に触れることを意味します。
鷲田先生はそうした「聴く」行為の中に、哲学の原点を見出しました。
今回の小説で村田さんがしていたのは、まさに「聴く」ことでした。手で瑞希の背中に触れながら、言葉にならない身体の声を聴いていたのです。整体という仕事が哲学と接続する理由を、この本は別の角度から照らし出してくれています。
288ページと程良い分量になっており、学術書というより身体的な手触りを読みながら感じることができるはずです。