現代の悩みを小説形式で考える哲学シリーズ。 今回は、気持ちを言葉にできない看護師の物語です。 患者さんに「大丈夫ですよ」と声をかける。 きっと間違ってはいない。 でも言い終えたあと、いつも思う。 「本当に言いたかったのは、それじゃない気がする」 じゃあ何が正解だったのかと考えても、うまく答えられない。 大切な想いほど言葉にならないのは、なぜだろうか。 ソシュールの『一般言語学講義』から考えてみたい。

「お疲れさまです」
千尋は詰所でカルテを閉じながら、同僚に声をかけた。夜勤明けの朝。目の奥が重い。
看護師になって六年目になる。仕事には慣れた。患者の名前を覚え、点滴の交換をし、夜中のナースコールに走る。
言葉にも慣れた。
「大丈夫ですよ」「よく頑張りましたね」「何かあったらすぐ呼んでくださいね」。
どの言葉も、間違ってはいない。
でも最近、自分の口から出る言葉が自分のものではない気がしている。
先週、末期がんの患者の家族に「最期まで穏やかに過ごせるようにしますね」と言った。
伝えながら「違う」と思った。本当に伝えたかったのは、そういうことではない。
心を温めるような、不安な心を少しでもほぐすような、もっと別の何か。
でも言葉にならず、その定型文だけが部屋に残った。
言葉は便利だ。でも便利すぎて、本当に伝えたいものを素通りしていく。
月に二回、千尋は書道教室に通っている。半年前、何か仕事と関係のないことがしたくて、駅前のカルチャーセンターで見つけた。
先生は藤原さんという六十代の女性で、生徒は千尋を含めて四人。少人数の、静かな教室だった。
その日の課題は「心」の一文字だった。
千尋は筆を持ち、半紙に向かう。墨をつけて、最初の一画を引く。
止めて、払って、四画。
出来上がった「心」は、お手本と比べると、どこかぎこちない。
「千尋さん、もう一枚書いてみて」
藤原さんは千尋の後ろに立って、静かに言った。千尋はもう一枚書いた。やはり何かが硬い。
「字を見ていると、面白いことがわかるんですよ」と藤原さんは言った。
「お手本の通りに書こうとしている人と、自分の中の何かを紙に出そうとしている人では、線の質が違うんです」
「私はお手本のほうですよね」
「丁寧なんだけど、千尋さんの線じゃない。お手本の線なんです」
千尋はその言葉に、仕事のことを重ねていた。
「大丈夫ですよ」も「頑張りましたね」も、丁寧だけれど、自分の言葉ではない。お手本の言葉だ。
「……先生、言葉って、なんで気持ちとずれるんですかね」
藤原さんは少し笑った。
「唐突ね」
「すみません。患者さんに声をかけるとき、いつも言いたいことと出てくる言葉がずれている気がして」
藤原さんは千尋の隣に座り、自分の筆を手に取った。
別の半紙に「心」と書く。
千尋のものとは全然違った。大きくのびやかで、どこか温かみがある。
「同じ『心』という字でしょう? でも、私が書いたものと千尋さんが書いたものでは、まったく別のものになる」
「はい」
「ソシュールという言語学者がいるんですが」
「言語学……ですか」
「昔、大学で少しだけかじったんです。書道をやっていると、言葉というものを考えずにはいられなくて。ソシュールは、言葉の形、つまり音とか文字と、その言葉が指している意味の間には、もともと何のつながりもない。そう言ったんです」
「何のつながりもない?」
「たとえば、この『心』という字。四つの線でできたこの形と、私たちが胸の奥で感じている『心』との間には、もともと何のつながりもないんです」
「海外に行けば、フランス語では『クール』、英語では『ハート』ですよね。響きも文字の形もまったく違うのに、意味しているものはだいたい同じ」
「つまり、私たちの気持ちにどんな音や形を着せるかは、実際はただの偶然なんですよ。ソシュールはこれを、少し難しい言葉で『恣意性』と呼びました」
「これは当たり前のようで、実はすごく大きなことなんです」
藤原さんは二枚の「心」を並べながら続けた。
「言葉の形と意味の結びつきが必然ではないなら、"言いたいことが言葉にならない"と感じるのは、むしろ当然だということになる。言葉はもともと、気持ちの完璧な入れ物ではないんです」
「だから『ありがとう』と言っても、本当に感じている感謝の全部は入りきらない。千尋さんの語彙が足りないからではなくて、言葉というものの性質がそうなんです」
千尋は少し楽になった気がした。ずっと自分の力不足だと思っていたものが、言葉の限界だと言われて、胸のどこかがほどけていく。
「でも、それだと何を言っても伝わらないことになりませんか」
「言葉だけなら、たぶんそうかもしれません」
藤原さんは二枚の半紙を指した。
「でも、この二枚を見てください。同じ『心』という字なのに、全然違うものに見えるでしょう? これは言葉の意味が違うからではなくて、書いた人の手が違うからです」
千尋は自分の「心」を見た。小さくて几帳面で、どこか遠慮がちだった。藤原さんの「心」は一画目の入りに迷いがない。
「ソシュールが分析したのは、記号の仕組みのほうです。でも実際に言葉を使うとき、私たちは記号だけを差し出しているわけではないですよね」
「千尋さんが患者さんに『大丈夫ですよ』と言うとき、言葉の意味は辞書と同じかもしれない。でも千尋さんの声で、千尋さんのタイミングで、千尋さんの表情で届くその五文字には、記号の外側にある何か大事なものが乗っている」
「それは言葉の意味ではなく、千尋さんだけが持つ何かなんです」
「……でも自分ではそう感じられないんです。誰でも言える言葉を、ただ繰り返しているだけだって」
「書道で言うと、お手本を写しているだけだと感じるのと似ているかもしれませんね」
藤原さんは少し間を置いた。
「でも実際には、完璧にお手本と同じ字は書けない。あなたの手の癖、力の入れ方、その日の体調が必ず入り込む」
「言葉もたぶん同じです。同じ『大丈夫ですよ』でも、千尋さんが夜勤明けの疲れた身体で言うのと、教科書に書いてあるのとでは、違うものが伝わっている」
藤原さんは筆を置いた。
「私もね、書道を教え始めた頃、言葉で説明しようとしすぎていたんです。『もっとのびのびと書いて』とか『筆に力を込めて』とか。でもうまくいかない」
「あるとき何も言わずに、ただ横で書いて見せたら、その生徒さんが急に変わった。言葉で説明できないことが、手の動きで伝わることがある。言葉が万能ではないと知ってからの方が、私は生徒に伝えられるものが増えた気がします」
教室が終わって、他の生徒が帰ったあと、千尋は藤原さんに頼んでもう一枚だけ書かせてもらった。
「心」。
一枚目と何が違うのか、言葉にはできない。ただ、筆を動かしているとき、お手本のことを考えていなかった。自分の手の動きだけを感じていた。
帰りの電車で、恋人からLINEが来ている。「今日はどうだった?」
千尋はいつもなら「楽しかった〜」と返すところだった。指が止まる。それは嘘ではないけれど、自分が感じたことの全部ではない。
しばらく考えて、「心って字を書いた。難しかった」と打った。少し間を置いて、「でも面白かったかも」と続ける。
たいした文章ではない。でも「楽しかった」よりは少しだけ自分に近い気がした。
言葉は、気持ちの完璧な入れ物ではない。
ソシュールが100年以上前にそう示したのだとしたら、千尋が感じていたずれは、欠陥ではなく、言葉が最初から持っていた条件だったのだ。
完璧に伝わらないなら、完璧でなくていい。ただ自分の言葉で伝えていくしかない。
書道のように、自分の手で、一画ずつ丁寧に書いていくように。
明日もまた「大丈夫ですよ」と言うだろう。
だけどその五文字が、昨日までとまったく同じ響きかどうかは、自分でもわからない。
フェルディナン・ド・ソシュール(1972)『一般言語学講義』(小林英夫 訳)岩波書店
- 著者
- ["フェルディナン・ド・ソシュール", "小林 英夫"]
- 出版日
近代言語学の父と呼ばれるソシュールが、ジュネーヴ大学で行った講義を弟子たちがまとめた講義録で、1916年にフランス語で出版されました。
ソシュール自身は原稿を残しておらず、講義ノートからの再構成という特殊な成り立ちを持っています。
言葉の「音や形」(シニフィアン)と「意味」(シニフィエ)の結びつきは恣意的である。
これが本書の主張です。今回の小説で藤原さんが語った「言葉はもともと気持ちの完璧な入れ物ではない」という感覚は、この恣意性の概念に直接つながっています。
言語学の専門書ではありますが「言葉とは何か」という問いに正面から向き合った古典として、さまざまな分野を超えて読まれ続けている本です。
丸山圭三郎(1981)『ソシュールの思想』岩波書店
- 著者
- 丸山 圭三郎
- 出版日
日本におけるソシュール研究を牽引した丸山圭三郎が、ソシュールの思想を大きな視野で読み解いた一冊です。『一般言語学講義』だけでなく、ソシュールの未公刊草稿やアナグラム研究にも触れ、通常の言語学入門では届きにくい領域まで踏み込んでいます。
「言葉の恣意性」と聞くと「ものの名前はたまたま決まっている」という話に思えるかもしれません。けれど丸山の本を読むと、それだけでは終わらないことがわかります。
私たちは世界をどう切り分け、どう意味づけているのか。根本的な部分にまで、この言語に対する考え方はつながっているのです。
千尋が感じた「言葉と気持ちのずれ」が個人的な悩みではなく、言語の根本的な条件であることを、この本は別の角度から照らしてくれます。
若松英輔(2019)『悲しみの秘義』文春文庫
- 著者
- 若松 英輔
- 出版日
批評家・若松英輔さんが「うまく言葉にできない悲しみや孤独」について綴ったエッセイ集です。宮沢賢治、神谷美恵子、リルケなど、言葉の手前にあるものに触れ続けた書き手たちの仕事を手がかりに、悲しみや愛や沈黙の意味を静かに掘り下げています。
若松さんの文章には、「言葉にできないこと」を無理に言葉にしようとしない姿勢があります。言葉の限界を認めたうえで、それでも書くこと、語ることの意味を問い続けています。
今回の小説で千尋が感じていた「本当に伝えたいことは言葉の手前で止まっている」という感覚に、最も近い言葉で寄り添ってくれる一冊です。
ソシュールが言語の構造を分析したのに対し、若松さんは言葉の「届かなさ」に焦点を当てています。その対比を念頭に置きながら、二冊を同時に読むとより味わいが深まるはずです。