社会を変えるために私たちができること 「社会運動」vol.2

社会を変えるために私たちができること 「社会運動」vol.2

更新:2017.1.27

今回のテーマは「社会運動」その2ということで、「社会運動」について論じた第1回とはまた異なる角度から社会運動について考えさせてくれるような漫画を5つ選びました。身近な漫画も、実は社会を変える試みと見なすことができるのです。

富永京子プロフィール画像
立命館大学准教授
富永京子
1986年生まれ。日本学術振興会特別研究員などを経て、現在、立命館大学産業社会学部准教授。社会学的視角から、人々の生活における政治的側面、社会運動・政治活動の文化的側面を捉える。著書として『社会運動のサブカルチャー化』(せりか書房)、『社会運動と若者』(ナカニシヤ出版)。個人ウェブサイトは kyokotominaga.com
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社会を変える試みは、身近な漫画にも

あけましておめでとうございます。今回のテーマは「社会運動」その2ということで、「社会運動」について論じた第1回とはまた異なる角度から社会運動について考えさせてくれるような漫画を5つ選びました。
*第1回はこちら→https://honcierge.jp/articles/shelf_story/91

「えっ? これも? 」と思えるような身近な漫画も、実は社会を変える試みと見なすことができますし、こうした漫画を経由することで、自分も社会を変えることができるんじゃないか? と思ってもらえれば、とても嬉しいです。

「レパートリー」としてのデモを描く

著者
東村 アキコ
出版日
2009-03-13
前回は観光に関する作品で『海月姫 外伝』を紹介しましたが、今回は『海月姫』本編を紹介します。異性をはじめとした「リア充」的な文化に縁がなく、着物や三国志といった趣味に没頭するニート集団「尼~ず」が服作りを通して徐々に社会と関わっていく……という大ヒット作です。

社会と関わることを極端に避けようとする尼~ずが、社会進出だけならまだしも社会を変えたり、物申したりすることなんてできるのでしょうか? 実は、彼女たちは「デモ」に参加したことがあります(14巻)。ストーリーを見る限り、これは国会議事堂で行われた増税法案に対するデモのようですが、特に尼~ずの面々は増税法案に反対していたわけではありません。デモに参加すればマスコミの注意を引くことができることに気づいた鯉淵蔵之介は、シンガポールに行ってしまう月海を呼び戻すために、自ら立ち上げたブランド「Jelly Fish」の服を着てデモに参加し、増税とは関係ない自分のメッセージを公共の電波に乗せたのです。つまりここでの尼~ずは、主張や目的には賛同しないが、社会運動に参加した人々ということになるでしょう。

また、ここで鯉淵家のお抱え運転手・花森さんが「主義主張関係なく、どんなデモでも参加する」というデモ好きであることが発覚します。こうした花森さんのデモの捉え方は、主義主張の重要性よりもデモという「集まり」やそこでの出会いに注目した、運動を形態から見る視角に基づいていると言えるでしょう。社会運動の「手段」的な側面を捉える概念を「レパートリー」と呼びますが、花森さんはまさにデモというレパートリーの特性に惹かれて運動に参加しているわけです。

『海月姫』自体、自らの住まいが奪われそうになることをきっかけに、尼~ずが立ち上がるという住民運動的な特性を持った作品ではありますが、筆者は「デモ」というレパートリーについての蔵之介の「冗談じゃないよ 国会議事堂前なんて本気すぎて引くわ」という台詞がとても印象深かったです。蔵之介は政治家の家庭に育ち、天水館売却に反対し、マンション建設の説明会にも乗り込んでいるわけですから、十分に政治問題にコミットしています。その一方で「デモ」に激しい拒否感を示しているということは、彼が運動の主題とレパートリーを切り離し、デモというレパートリーを忌避していると捉えていいでしょう。また、これは半分蛇足になりますが、『海月姫』14巻に該当する部分は2014年連載に基づくものです。おそらく著者は当時盛り上がっていた特定秘密保護法反対運動などをイメージして「デモ」を描いたと考えられますが、このように漫画の「ネタ」になったという意味でも、デモは人々に強い印象を残す重要なレパートリーだったと言うこともできるでしょう。

「同じ」ではいられない社会で「違い」を認め合うこと

著者
南 Q太
出版日
2015-02-06
同じマンションに住むバツイチ子持ちの主人公・青亀と、同じくバツイチの美女・美穂が個性的な住人たちを巻き込みつつ繰り広げるラブストーリーです。南Q太氏によるレディースコミックというと、短いにもかかわらず意味の詰まった台詞の応酬や、どこか乾いた性的描写が魅力的ですが、どちらかといえばそれとは対極にあるようなゆっくり、じわじわと進むラブストーリーで、雰囲気的にはすこし『ひらけ駒!』(講談社)などに近いかもしれません。

三鷹のマンション「グランメゾンむらさきばし」には多彩な経歴をもつ住人が住んでおり、フランス人のメルセデスさんや、漫画家の胡桃沢さん、世話好きの藤井さんなど、生きてきたバックグラウンドも違えば年齢や世代も大きく異なります。全く異なる背景を有する彼らは、故郷や恋愛について語り、持ち寄りパーティーを行いつつ交流を行いますが、こうした交流のあり方は一つの「社会運動」として捉えることができます。デモも学習会もロビイングもない、そうした交流がなぜ「社会運動」なのか、これから説明します。

グランメゾンむらさきばしの住民たちは生活の時間帯も違いますから、話すことはおろかすれ違うことも殆ど無い生活だったと想定されます。東京の住宅街で、マンションの中で、それまで交流のなかった人々が持ち寄りパーティーを開いたり、助け合ったりするようになるきっかけは何だったのでしょうか? それは何かというと、「震災」です。震災をきっかけに子どもの送迎などの形で助け合うようになったと藤井さんが語っています。

むらさきばしの住民たちに限らず、私たちは学校や家庭、シェアハウスの中で、嗜好も職業も全く異なる人々と生活をともにしています。こうした状況を、一部の研究者たちは「集合し得ない状況」と論じています。つまり、共通の利害や出自によって団結し得ないために、従来のように組織的に何かを行う「社会運動」は既になし得ないと論じるのです。その代わりに彼らが提示した概念は「経験運動論」というものでした。経験運動論のなかでは、一緒に踊ったり、ホームパーティーをしたり、何かを一緒に作ったりということが運動になります。他者と「同じ」でいられない社会の中で、他者の違いを認め合い、ともにいるという「経験」の共有そのものが政治的な力や個人の変革を可能にする源泉となる、と論じるのです。

アラフォーになり、恋愛なんて「めんどくさい」「中年ですから」と語る青亀と美穂が、それぞれに過去の「経験」を踏まえながら近づき、歩み寄りつつも未来をつくりだすさまは、異質な人々とのつながりや交流なくしては可能にならないものであり、そういう意味でも彼らの生活は立派な「経験運動」と捉えられます。

支持を得るため、どのように事実を見せるか

著者
新井 英樹
出版日
「貧困」を扱った回で『キーチ!! vs』(小学館)を紹介しましたが、その前編となる『キーチ!!』も社会派かつドラマチックな作品です。「またとない男らしい男」として育てられた染谷輝一は、突然の通り魔殺人により親を失い、放浪の末、11歳で長野県松本市の祖父母のもとに身を寄せます。松本市の小学校で出会ったいじめられっ子・佐治みさととクラスの中心的存在である甲斐慶一郎との出会いから、ある事件に関わることになります。

ある被害に遭っているみさとを救うため、輝一と甲斐はジャーナリストである石塚の力を借り、国会議事堂前で「事件」を起こします。この事件こそが彼らの社会運動なのです。小学5年生二人が巻き起こしたこの運動は、この物語の中で大きなニュースとなり、世論の支持を得、国会や司法を揺るがすことになります。つまり社会運動は成功することになるのですが、この成功のきっかけは輝一のカリスマ性や石塚の資源提供もさることながら、甲斐の戦術によるところが大きいのです。とくに甲斐は、この運動と輝一をどのように見せれば大衆の支持を得られるかという運動の「見せ方」に力を注ぎます。

社会運動論における「フレーム」とは、人々をより多く社会運動に動員するために、社会問題や運動をどのように見せるか、という中で生まれた概念です。フレームを形成する作業を「フレーミング」といいますが、この運動の中で甲斐は輝一というシンボルを用いながら巧みにフレーミングを行っていきます。甲斐は、みさとが被っている被害の何が社会的な問題にあたるのかをアピールするわけでもなければ、みさとの置かれている状況の悲惨さを輝一に語らせるわけでもありません。その代わりに自分たちの行動理由は、あくまでみさととの「約束を守る」ためだ、という、等身大の言葉で語ります。

この等身大の言葉は、テレビ局に輝一を「友達思いの子供」という「ヒーロー仕立て」で報道させ、ジャーナリストには「いやらしいくらい頭のキレた言葉選び」によって、「自分たちの武器、『子供』ってことを緩急自在に使いこなし」ていると感嘆させます。もしこれが、輝一がみさとの辛い状況について代弁したり、甲斐が子どもをめぐる社会問題について論じるというようなものであれば、同じ問題に対する運動にもかかわらず大衆の支持は大きく変わってきたでしょう。フレームは社会運動の動員や発展を左右する重要な要素だということが、この漫画から分かるのではないでしょうか。

愛を求めることが、国家への反逆となる世界で

著者
徳弘 正也
出版日
2010-11-18
舞台は2030年。6年に渡る世界大戦の後、ゲノム党による独裁国家となり、男と女が分断されたコミュニティに配備され、生殖を許されなくなった戦後の日本を描いた作品です。特定の遺伝子(M型遺伝子)を持った「国家反逆病キャリア」と呼ばれる元軍人の主人公・廻狂四郎が、バーチャルな世界で恋愛や性交を行うためのマシン「バーチャマシン」で出会った下級公務員の女性・志乃との現実世界での出会いを求め、北海道にある中央政府電子管理センターを目指す作品です。

あらすじだけ見ると、『ユー・ガット・メール』か『(ハル)』か……(たとえが古い!)という感じですが、この愛のための旅が「国家への反逆」になってしまう、というところにこの作品の重厚さ、深淵さがあります。特定の遺伝子を持った人々を「国家反逆病」とする「M型遺伝子理論」により国家の統制をはかろうとする政党「ゲノム党」による独裁下に置かれた日本において、廻狂四郎は国家に反逆する者として国家に弾圧される立場であり、体制側の人間である志乃との恋愛は、そのまま国家による「許されない愛」となるのです。ゲノム党との戦いを描いた骨太のディストピアSFストーリーは、一度読み出すと夢中になること間違い無しの面白さを兼ね備えつつ、読んだ後必ず何かを心に残す作品でもあります。

「優生学」や「スティグマ」といった概念、あるいは科学技術社会論といった視点から議論できるような作品であり、ところどころで引用される哲学者の台詞なども印象深く、多面的な角度から読むことができる作品なのですが、狂四郎が社会の改革をおこなう社会運動論としても見ることが出来ます。志乃は、現実世界では「小松ユリカ」という下級公務員の女性であるものの、魅力的な容姿をもつために有力者と次々に結婚させられ、重要な情報にアクセスすることのできる立場でもあります。

ユリカ(志乃)に出会うための狂四郎の旅が、そのまま国家への対抗の旅となるのは、ユリカが「エリート」にかなり近い立場であり、国家の機密情報を持っているために他なりません。社会運動の発生や変動、帰結を説明する概念として「政治的機会構造」がありますが、ユリカとの愛はまさに「政治的機会」として、狂四郎を「社会を変える旅」へと向かわせていると言えるのです。

政治的機会概念は、人々が政治の変革をするためにアクセス出来る回路がどれくらいあるのか、政治体制がどの程度人々の介入を許しているかによって、社会運動の発生や持続が決定するという考え方です。狂四郎は、旅の中で「オアシス農場」のあざみやさおり、かつての同僚であった白鳥といったさまざまな人々を助けます。それもまた、ユリカの提供する情報がなくては出来ないものです。ここから、『狂四郎2030』は「政治」に翻弄された元軍人と公務員というふたりの主人公が、「政治的機会」に左右され、またそれを利用しながら社会を変えていく物語といえます。残虐な描写や性的な表現も多く、抵抗があるかもしれませんが、現代の日本を捉える上でも重要な作品です。心からおすすめします。

日常的な試みを通じて自己を変えていく「新しい社会運動」

著者
ハロルド 作石
出版日
2013-12-12
「海月姫」に続き、アニメ化も実写映画化もされたメジャータイトルのため、こちらもご存じの方が多いのではないかと思います。主人公・コユキや天才ギタリスト・竜介らによって結成されたロックバンド「BECK」のサクセスストーリーとして知られる本作ですが、特に政治的にも社会的にも見えないこの漫画がなぜ「社会運動」なの? という方もいらっしゃることでしょう。

「BECK」を語るにあたって欠かせない存在として、ロックフェス「グレイトフル・サウンド」があります。このロックフェスは、「ファンのつくる純粋なロックフェス」を作りたいという目的のもと「オバチャン」こと佐藤和緒率いるメタル・グルーが運営しているイベントで、このイベントを軸に大きく物語が転換するため、読者にとっても印象深いエピソードのひとつだと思います(余談ですが、私は全エピソードの中で、10巻のグレイトフル・サウンドが一番好きです)。「『すべてオッケー』っていう現実逃避的な音楽では人の意識を麻痺させて生きる上での問題を考える力を奪うだけ」という音楽に対する持論を持つオバチャンは、グレイトフル・サウンドが「完全に金もうけの道具になっている」現状を打破するためにBECKに対し、ある相談を持ちかけます。

「音楽に世界を変える力があると思ってるんですか?」というコユキの質問に対して即答する彼女が運営するグレイトフル・サウンドは、まさにそれ自体が「社会運動」的な試みそのものと言えるでしょう。音楽という、ある種日常的な試みを通じて自己を変えていくというタイプの運動は「新しい社会運動」という概念を用いて論じられています。コユキが竜介やエディの影響を受けつつも音楽活動を通じ、他でもない自分自身の人生を選び、自己を確立していくさまは、まさに「新しい社会運動」として音楽が作用しているといっても差し支えないのではないでしょうか。もちろん、変わるのはコユキ自身だけではありません。グレイトフル・サウンドで、BECKは他のステージよりも小規模な3rdステージという不利な環境を与えられつつも、自分たちよりメジャーで商業的なベル・アームを動員数で打ち負かすのです。オバチャンのいう「純粋な」音楽が、金もうけのための現実逃避的な音楽に勝ったという点で、運動が成功した瞬間と言ってもいいかもしれません。

実際に国内外を問わず、野外ロックフェスティバルが政治的な意図や社会的な問題意識をもって主催されたり、運営されたりといったことは全く珍しくありません。それ自体が既成の商業文化や消費文化への対抗的な試みでもありますし、実際にコユキの従事している「ロック」そのものが商業文化に対する対抗的な試みとして生まれたという意味で、十分に政治的であることもまた言うまでもないでしょう。

この記事が含まれる特集

  • マンガ社会学

    立命館大学産業社会学部准教授富永京子先生による連載。社会学のさまざまなテーマからマンガを見てみると、どのような読み方ができるのか。知っているマンガも、新しいもののように見えてきます。インタビューも。

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