最もノーベル賞に近かった男・安部公房の「当たり前」を疑う3作

更新:2015.10.27

先日、2015年のノーベル賞が発表されましたね。今回も「やれやれ」、残念ながら村上春樹氏は受賞ならずでしたが、過去に最もノーベル文学賞に近かった日本人作家がいたことをご存知でしょうか?前衛文学の旗手で、国際的にも評価の高い小説家・劇作家・演出家の安部公房です。彼の書く文体の特徴は、苦しくなるほど読み手に迫ってくる五感表現と、読み手を宙ぶらりんな状態にさせる、つまり我々が「当たり前」だと思っている価値観を揺るがす世界観だと思います。今回はそんな安部公房の世界観を堪能できる作品を3作品ご紹介します。

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罰がなければ、逃げるたのしみもない

「砂」に触れる機会なぞ、ここ数年、へたしたら数十年めっきりと減ってしまいました。辛うじて見たり触れたりできるものといえば、上から下へさらさらと規則的に落ちていく砂時計や、海水を含んでずっしりとした感触のする浜辺の砂浜くらいでしょうか。そう考えると、砂はただそこにあるだけ(=静的)なものではなく、実は流動性(=動的)のあるものなのだと気付かされます。

そんな流動性のある「砂」と、女や男、社会といったなんとも捉えがたいものを結びつけた“錬金術師”はきっと安部公房ぐらいなのではないかと思います。

著者
安部 公房
出版日

20数ヶ国語に翻訳された名作として名高い書き下ろし長編『砂の女』は、ページを捲るごとに口・眼・耳といった体中にある穴という穴に砂がジュワジュワと音を立てて闖入し、皮膚の上をまるで水のように流れ、じっとりとまとわりつくような感覚に陥ります。

昭和30年8月のある日、新種のハンミョウを採集しに砂丘へ出かけた男(仁木順平)が、砂穴の底に埋もれていく寡婦しかいない一軒家に閉じ込められてしまいます。考えつく限りの方法で脱出を試みる男と、家を守るために男を穴の中にひきとめておこうとする女。そして、穴の上から二人の生活を眺め、男が逃亡しようとすると妨害する部落の人々。三つ巴状態のなかで男が見出した答えは意外なものでした。

今まで生活していた環境やなんとなく習慣化してしまっているものは、何の根拠もない「繰り返し」によって作られたものであり、環境が変わって不自由が生じてもその環境に順応していくことができるという、良く言えば「適応能力が高い」、悪く言えば「当たり前の不確かさ」を眼前につきつけられるような作品です。

私は、人間の魂は、皮膚に宿っているのだとかたく信じていますよ

最近、自分の顔をまじまじと見たのはいつでしょうか?

といっても、自分の顔は鏡や写真といった平面のものでしか確認できないため、本当に自分がどんな顔をしているかどうかは実際のところわからないものです。手のひらでひたひたと顔を触ってみないと、輪郭、凹凸、空洞、ぬくもりといった立体的で血が通っているものが顔を形成しているのだ、ということを忘れてしまいがちです。

そんな普段当たり前に所有している顔を失ってしまったら、皆さんはどうしますか?

著者
安部 公房
出版日
1968-12-24

化学研究所の事故によって顔面に醜い火傷を負い、自分の顔を喪失してしまった男(「ぼく」)。自己回復のためと失われた妻(「おまえ」)の愛を取り戻すためにプラスチック製の人工皮膚の「仮面」(=他人の顔)を作り、最大の目的であった妻の誘惑を試みたものの、男は自分の作り上げた仮面に嫉妬していくようになります。そして男が「仮面」を抹殺するために、妻に全ての経緯の手記(この小説そのもの)を読ませるのですが、ここから大どんでん返しが起こります。ネタバレになるので詳らかには書きませんが、しいて言うならば、「愛というものは、互いに仮面を剥がしっこすること」なのです。

人間にとって「顔」というものが社会や他人との関係性にどのように関わっているのかということを、自己弁護・憐憫・嘲笑の入り混じった情念を執拗なまでに書き記していく「仮面」の作っていく過程や、「顔」にまつわる精緻な美術的記載、科学的記載にみることができます。

<見る>ことには愛があるが、<見られる>ことには憎悪がある

最近ではスマートフォンで写真を撮影することが当たり前になっていますよね。何かを記録するというためのツールとしては最適な機能ですが、見方を変えれば自分の見えている世界を狭めてしまっている(=視覚の限定)とも言えます。視覚の限定は今に始まったことではなく、はるか昔から「覗き見」というかたちで存在していました。自分が一方的にこっそりと“何か”を眼差していると思っていたのに、実はその“何か”に眼差されているとしたら、果たしてどんなことが起きるのでしょう?

著者
安部 公房
出版日

ダンボール箱を頭からすっぽりとかぶり、覗き窓から外の世界を見つめて都市を彷徨う「箱男」が、箱の中で箱男の記録を綴っているという物語なのですが、冒頭の新聞記事、唐突に箱の作り方から始まる本文、挿絵的に挿入される詩と筆者撮影の写真、そしてなにやら意味深な看護婦や贋箱男の登場など破天荒なメタ構造のストーリー展開に、読み手はすっかりいつ・誰が・どうやって今この文章を書いているのか混乱してしまいます。素直に本を読む人からしたら、正直とっても意地悪な作品です。とは言うものの、この作品を読まないというのはあまりにももったいないです。

なぜならば、従来の物語構造への異化、「ものを書く行為」や前述したような「見ること・見られること」などの問いと言及を試みた非常に挑戦的な作品だからです。

また、さきほど紹介した『砂の女』と『他人の顔』、そして『燃えつきた地図』と併せて「失踪三部作」と言われているのですが、そのあとに書かれたこの『箱男』は、安部公房いわく、逃げ出してしまった者の世界、失踪者の世界、ここに住んでいるという場所をもたなくなった者の世界を描こうとしていたそうです。

この作品は、現代が抱えるぼんやりとした不安や問題に、真っ向から勝負したといっても過言ではありません。きっと。

いかがでしたか? 
安部公房の作品は、人間が生活するうえで当たり前に消費されてしまっている「人間そのもの」を描き出しており、我々に絶えず「当たり前」を疑う“何か”を投げかけてきます。ちなみに、『砂の女』と『他人の顔』は映画化もされており、小説とはまたひと味違った楽しみができます。 
一度触れたら火傷してしまう劇薬のような作家・安部公房。いっそのこと盛大に火傷して、「当たり前」を根底から疑ってみては?

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