教養

桂小五郎(木戸孝允)の生涯は。「逃げの小五郎」が活躍した背景を知る本5選

更新:2017.2.9 作成:2017.2.9

「明治維新の三傑」と言われながらも、西郷隆盛や大久保利通という華やかに活躍した2人と比べて地味な桂小五郎。今回はそんな彼の生涯と功績、名言、死因、意外な逸話などをお伝えしていきます。またあわせておすすめの関連本もご紹介するので、ぜひ最後まで読んでみてください。

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近代国家の成立に大きな役割を果たした桂小五郎とは

桂小五郎は1833年、現在の山口県萩市に生まれました。長州藩医の長男として誕生しましたが、7歳で桂家の養子となり、武士の身分を得ます。

幼少期は病弱だったものの、剣術に精を出し始めるとしだいにその才能を発揮するようになっていきます。あの吉田松陰にも兵学を学び、大いに影響されました。

1852年の江戸留学後は神道無念流に入門し、免許皆伝を得て入門1年で塾頭へ。剣豪・桂小五郎として活躍します。

1854年のペリー来航に刺激された小五郎は、西洋兵学や英語など時代の最先端を学び、開国攘夷の思想を形作っていきます。しかし、8月18日の政変で長州藩が敗北。さらに池田屋事件、禁門の変を経て潜伏生活となりましたが、同志の依頼で帰郷しました。

そこからは薩長同盟を締結し、木戸孝允として、明治政府樹立へと多大な働きを成し遂げることとなります。

廃藩置県、欧米歴訪などさまざまな活動を続け、45歳でこの世を去りました。晩年は病気がちとなり、政府中枢部との折り合いも悪くなっていったと言われています。

桂小五郎は数度の改名を経て木戸孝允となった

彼は人生のうちに数回の改名をおこなっています。

まず1833年に和田小五郎として生まれ、8歳のときに桂家の養子になり桂小五郎となりました。

その後、15歳のときに元服し、桂小五郎孝允となります。このときの「孝允」というのは「いみな」で、これを正式な名前として使用するのは後のことになります。

33歳のとき、長州藩藩主の毛利氏から木戸姓を与えられ、同時に通称を変えて木戸貫治孝允となりました。

その後再び通称を変えて木戸準一郎孝允となり、明治維新後、戸籍制度が開始したときに公的に木戸孝允として名乗るようになります。

このほか命を狙われていた幕末には、数十個の仮名を使っていたと言われています。

桂小五郎が「逃げの小五郎」と呼ばれたワケ。剣術の腕前は……

桂小五郎は「逃げの小五郎」と呼ばれていたことで有名です。

「池田屋事変」では、彼が危険を察知して出かけた後に新撰組が乗り込み、結果的にその場にいた攘夷派のほぼ全員が捕殺され、「蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)」では1度は新撰組に捕らえられたものの、便所に行きたいと頼んでそのまま汲み取り口から逃げるなど、ギリギリのところで危機を回避しています。

このような出来事から「逃げの小五郎」というあだ名がついたのですが、その一方で彼は「剣の達人」としても有名です。新撰組隊長の近藤勇でさえ「恐ろしい以上、手も足も出なかった」と、彼の剣術の腕前を評価しています。

実際、神道無念流に入門して1年で免許皆伝になり、塾頭にもなるほどの腕前でした。

当時日本一の剣豪として名高い仏生寺弥助という人物もいたのですが、仏生寺を抑えて小五郎が塾頭に選ばれたということを考えても、剣術の腕前は相当のものだったと言えるでしょう。

しかし、この神道無念流は竹刀剣術で、実践を重視したものではありませんでした。

実際に他流試合をおこなったときは、何度も胴を打たれて負けています。

さらに彼の得意技は上段の構えだったため、真剣で対決をしたら胴を切られて命を落とす可能性が高く、小五郎自身も実践には向かない剣術ということを理解していたため、ひたすら剣を抜くことなく逃げ回っていたのです。

桂小五郎の死因は?

彼は43歳という若さで亡くなってしまいます。

1877年、西南戦争の最中に危篤となって、「西郷、もうよいではないか」とうわ言を言って亡くなりました。

そんな彼の死因は、肝臓肥大、腹痛、胸痛など諸説あります。明治維新後は権力抗争にもまれて神経をすり減らし、西南戦争の頃にはもう衰弱しきっていたそうです。

元々酒豪だった彼は、ストレスから酒を飲みすぎて肝臓肥大になったと言われています。

桂小五郎の名言を紹介

「事をなすのは、その人間の弁舌や才智ではない。人間の魅力なのだ。」

坂本龍馬に向けて言った言葉です。

何か大きなことを成し遂げるためには、口が上手いだけでも優れた才能があるだけでもダメで、人間力が必要。龍馬にはそれがあると伝えました。

「人の巧を取って我が拙を捨て、人の長を取って我が短を補う。」

人には一長一短があり、自分の未熟さや短所を補うためには、人の優れたところを取り入れるべきだという意味です。

「己れの生き方に関わるような大問題を他人に聞くな。」

小五郎の意志の強さが現れている言葉です。剣豪として、明治維新の立役者のひとりとして、そして明治政府の要人として、自らの人生をきちんと選択してきたのでしょう。他人と同じような生き方を避けている様子もうかがえます。

桂小五郎と坂本龍馬にちなんだ記念日がある

1月21日は「ライバルが手を結ぶ日」と言われています。1866年、長州藩の小五郎と薩摩藩の西郷隆盛が、坂本龍馬や中岡慎太郎の仲介で「薩長同盟」を結んだ日です。

当時の薩摩藩は幕府派で、長州藩は尊王攘夷の反幕派。いわゆる「犬猿の仲」でした。特に1864年の「蛤御門の変」では薩摩藩が長州藩を撃退したという事実もあり、手を組むなんて考えてもいませんでした。

それが坂本龍馬らの仲介によって同盟を結ぶという、衝撃的で記念すべき出来事だったのです。

桂小五郎の意外と知らない6つの逸話!妻の幾松は命の恩人!

1:唯一刀を抜いて奪い取った幾松という女性がいた

小五郎は前述したとおり「逃げの小五郎」と呼ばれており、剣を抜くことはありませんでした。しかし、彼でさえも刀を抜いて奪いたくなるほど愛した女性がいました。

幾松(いくまつ)という名で、若狭小浜藩士の娘で芸妓をしていた女性です。

幾松は小五郎が常連として訪れていたお店で芸妓として働いており、彼がピンチになると命がけで救っていました。新撰組に乗り込まれたときも色仕掛けで彼らを誘って、小五郎が逃げるための時間を稼いだり、小五郎が橋の下に潜伏していたときには食べ物を持って行ったりと、献身的に支えていたといいます。

実は幾松は既婚者だったのですが、小五郎が刀を抜いてまで力尽くで奪い取り、明治維新後に結婚をしました。何度となく小五郎のピンチを救ってきた彼女は、彼にとって命の恩人なのです。

2:実は毛利元就の子孫だった

彼が生まれた和田家は、毛利元就の七男・毛利元政の血を引いているといわれています。そのため、小五郎は毛利元就の血を受け継いだ子孫というわけです。

3:幼少時は病弱なのにかなりの悪ガキだった

彼にはなんとなくクールで知的な印象があり、「剣の達人」と言われていたこともあって子供の頃から剣術に勤しんでいたと思われそうですが、実は病弱でかなりの悪ガキでした。

幼少の頃は、萩城下を流れる松本川を下る舟を船頭ごと転覆させるという遊びに熱中するなど、「悪童」とも呼ばれていたのです。

彼の頭には傷があり、それは船頭に逆襲されて流血騒ぎになったときのものだと言われています。

4:病弱なのに酒豪だった

彼は病弱なわりに酒豪で、酒宴のたびに大酒を飲んで、泥酔して意識を失うことも多かったと言われています。

5:筋金入りのコレクター。時計が大好きだった 

彼は新しいもの好きで、特に時計が大好きでした。1860年には横浜へ銃を調達しに行ったときに懐中時計に一目ぼれしたものの、手持ちがなかったため、藩のお金を使って買ってしまったというエピソードもあります。

ちなみに後日、同じ長州藩士の来島又兵衛からお金を借りてきちんと返していますが、藩のお金に手を出すほど時計が好きだったということがわかります。

6:金には無頓着だった  

養子先である桂家はとても裕福だったため、彼は金銭に対して無頓着でした。剣術修行をしていたころは、仕送りが来ても棚の上に置きっぱなしにすることが多かったようです。

急にお金が必要になった時に仕送りを見たら中身が空っぽで、盗まれた後でもまったく慌てた様子もなく、平然としていたとも言われています。

桂小五郎初心者におすすめ。薄くても濃い一冊

日本史リブレット人シリーズの本書は、短いページ数ながら小五郎の生涯をしっかりと読み取ることができる小冊子です。

長くて難しい本は読めない、でも彼について知りたいという人にぴったり。桂小五郎時代から木戸孝允時代まで、どのような思想で彼は生きたのでしょうか。

著者
一坂 太郎
出版日
87ページというあっという間に読める量なので、その分激動の時代がぎゅっと濃縮されています。彼がなぜ勤王派へと傾くことになったのか、そして長州をどのように導いたのかがわかります。

長州が維新の立役者となるための彼の働きは相当のものです。もともとは攘夷派を煽ったこともあったと書かれており、その心が変わっていく様子も面白く読み取れます。偉業だけではなく、功罪両面について言及してあるところが読みどころと言えるでしょう。

激動の時代を冷静に生きた桂小五郎の人生とは

桂小五郎の生涯を上下巻で描いた本作。長州藩の高級藩士である桂家の養子となり、20歳で江戸へのぼった小五郎は、日々剣の修行に励む生活を送ります。神道無念流の免許皆伝を受け、ペリー来航という日本を揺るがす出来事が起こった後は、砲術や造船術にも学びの手を出していくことに……。

上巻は、吉田松陰の影響も受けつつ、志士として活躍する小五郎が登場し、下巻は、藩命により木戸孝允へと改名し明治政府の高官となった彼が、45歳の人生を閉じるまでを描きます。
著者
古川 薫
出版日
明治維新の立役者とも言える小五郎。しかしその活躍ぶりは、西郷隆盛や大久保利通、坂本龍馬らと比べると、特段目立つものはありません。ではいったいどんな人物だったのか、この本を読めば彼の人となりが手に取るように分かります。

派手さはないけれども、確実な仕事をこなしていた小五郎。やはり彼がいなくては、明治維新はなり得なかったのです。常にそばにいて欲しい優秀な人材だったのではないでしょうか。恋愛話にも人間味が溢れていて、彼を身近に感じることができる一冊となっています。

明治維新は木戸孝允なしではあり得なかった!

桂小五郎としてではなく、木戸孝允としてどのように活躍したのかを丁寧に調べ上げた本書。史料を元に、正しい事実のみを書いていこうとする作者の意図が文章に表れています。

話を装飾して綺麗な人物像にするのではなく、本人を写実したような作品となっていて、まさにありのままの彼の偉業を知ることができる、素晴らしい一冊です。

著者
松尾 正人
出版日
もともと孝允を主とした話は少なく、西郷隆盛や大久保利通、坂本龍馬に押されて目立ちません。結局何を成し遂げた人だったのか、その問いの答えがこの本に書かれてあります。思想家としても、政治家としてもバランスがとれていた孝允。版籍奉還も廃藩置県も欧米使節もやってのけ、明治新政府を作り上げました。

大久保利通との関係も興味深いところです。性格も政治のやり方もまったく違うにもかかわらず、明治維新のために手を結び、反目しながらも最後まで同志として活躍しました。

その2人の関係にも、孝允の聡明さが見えてきます。目的を為すためには何をすればよいかということが、はっきり見えていたのでしょう。偉大な政治家であった彼を存分に知ることができます。

木戸孝允から見た岩倉使節団

明治5年にイギリスに到着した岩倉使節団。その当時の様子を彼の視点を中心にまとめた書籍が本書です。

岩倉使節団は、岩倉具視を正使、木戸孝允を副使とした大使節団で、アメリカからヨーロッパを巡り約2年後に帰国しました。イギリスには4ヶ月ほど滞在しています。

著者
宮永 孝
出版日
イギリスで彼らが見たものは何だったのでしょうか。明治維新を成し遂げた直後、国のリーダーたちが2年もの間日本を離れるのです。通常ではあり得ないことですが、彼らは日本を近代化させる決意のもとに出発しました。

当時の地図や写真も数多く収録し、孝允の日記も参考にしながら、彼らのイギリスでの生活を明らかにします。そこで見聞きしたこと、学んだこと、考えたこと、そのすべてを日本に持ち帰るために孝允らは全力を尽くすのです。

岩倉使節団を通して明治新政府を、そして木戸孝允の仕事を知ることができる貴重な一冊です。

小説で読む桂小五郎。政治能力も高く人柄も良いパーフェクトな男

本書は小五郎を主人公として幕末から明治時代をまとめた、歴史書といえるほどの超大作です。膨大な資料から事実を調べ、それを淡々と並べている印象なので少し読みにくい面もあるでしょう。しかし、幕末という激動の時代にドラマチックな人生を生きた人々の話は、事実を書き記しただけでも十分に面白い物語となり得るのです。

桂小五郎時代は魅力的であるけれども、木戸孝允になってからはパッとしないと思っている人も多いのではないでしょうか。そんなイメージを覆してくれる事実が、本書にはたくさん盛り込まれています。

大久保利通によって成し遂げられたと思われている、廃藩置県や版籍奉還も、実は彼が決死の覚悟で執り行ったのです。

著者
村松 剛
出版日
「木戸のロンドン到着を知って多数の長州系の在英留学生たちが、毎日のようにホテルを訪ねて来る。『頃日客絶えず、あたかも東京の家のごとし。』ホテルの彼の部屋は、書生の溜まり場のようになった。」(『醒めた炎』より引用)

彼の周りには、このようにどこにいても人が集まるのでした。多くの優秀な人物を育て上げ、彼の対外国活動は、その人柄の良さに皆が一目置いていたと言われています。

冷静でありながら情熱もあった彼は、この時代のすべての出来事に関係していた素晴らしい人物です。ぜひ、この本を手にとって新たな桂小五郎像を作りあげてくださいね。

いかがでしたでしょうか。彼は華々しさはなくとも、決して日本に欠かすことのできない人物でした。人柄も良く、冷静で正しい行動をするというのは、現代の政治家としても理想の人と言えるでしょう。