「そして、いつものように生活はつづくのだ」
例えば今日教科書を忘れても、新しい服が泥だらけになっても、何年も付き合った恋人と別れても、スマホが割れても、新しい好物に気づいても、ノーベル賞受賞が決まっても、何もなくて1日寝ちゃっても、びっくりするほどあたり前みたいな顔して明日が来る。明後日も来る。誰の事情も関係なく、全生物の生活は生きている限り、強制的に続いて行く。それを悲観していてはそのままであり、誰かが変えてくれるのを待つなんてとても愚かだから、自分で楽しくないを楽しむしかない。つまらないを、くだらないを。
俳優であり、音楽家であり、文筆家である
星野源による初エッセイ集。私の中で、がむしゃらにマルチに活動をこなす彼は「いつかこうなりたい」という理想像として存在している。でもそんな雲の上のような存在の星野源にも、当たり前に「生活」がある。全ての大スターにもある。レディガガにもジョニーデップにもある。
私は生活が大の苦手で、ずるずると蔑ろにしてしまう。でも、みんな同じのことをなんとかちゃんとやっている。本当にみんなが。それなら少し無理にでも、面白がることを始めたいと思った。
「もしも受け入れられないのなら、そこから出て吠えろ 叫べ 受け付けないと叫べ 受け付けないと吠えろ 本当にすべてを受け入れられるまで」
映画監督園子温の初の詩・エッセイ集。理不尽、理解できないこと、常識を受け入れない彼が書いたキンキンに尖った詩と鋭い切り口から様々を書いたエッセイは何度も読み返した。型を受け入れず、囚われずに作るからこそ彼の映画がある。売り方がある。読んだあと少し乱暴に背中を押された。
「やっぱり、グループになって良いことなんて、ひとつもない」
「ぼっち」という俗語ができてから、「ひとりぼっち」はより揶揄されるようになった。でも私は「ひとりぼっち」が好きだ。ご飯もできれば一人で食べたいし、買い物する時誰かと一緒な状況もちょう苦手。
まずこの本を読むまで蛭子能収について何も知らなかった。ありがちかもしれないがタレントだと思っていたし、なんもかんがえずボケっとしている感じのおじさん、という印象だった。(失礼でごめんなさい)でも違った。漫画家蛭子能収は、圧倒的に物を考えていて「ひとりぼっち」の味方だった。
会食の途中で普通に帰りたくなること、笑っちゃいけないところで可笑しくなってきちゃうことなど、一つ一つに共感し、その自身の心の動きに対する蛭子さんの対応は強さすら感じた。帰っちゃうし、笑っちゃうのだ。自由すぎるだろ、と突っ込みたくなるが、何もダメなことはしていない。
言葉の節々が優しい。彼は確実に誰よりも強い「ひとりぼっち」の味方なのだ。
蛭子能収を全く知らない方も、こう思われるからああしちゃいけない、こうなるかもしれないという思いにとらわれている時、ぜひ読んでほしい。