13代将軍・徳川家定の正室として薩摩藩から輿入れした篤姫は、討幕派の実家と徳川家の狭間で葛藤することになります。家定亡き後は出家をして、天璋院と名乗り、徳川家存続に尽力しました。江戸城無血開城の影の立役者ともいわれています。この記事では、そんな彼女の経歴や、知っておきたい事実やエピソード、そして人物像に迫るおすすめの本をご紹介していきます。
篤姫(あつひめ)は、第13代将軍・徳川家定の正室です。薩摩藩から将軍家に嫁いだ彼女は、討幕の機運が高まるなかで、稀有な人生を送ることになります。
1836年、篤姫は薩摩藩の島津家に生まれました。幼少より利発で、父の島津忠剛(しまづただたけ)は、男子であればと嘆いたとも伝わっています。
1853年、徳川幕府より家定の正室にと請われると、格式をあげるため従兄で薩摩藩主だった島津斉彬(なりあきら)の養女になったうえで江戸に向かいました。
当時の幕府内では、次期14代将軍の相続問題で政権争いがくり広げられていました。婚姻に反対する勢力を抑え込むため、1856年右大臣・近衛忠煕(このえただひろ)の養女となり、ついに将軍の正室として大奥へ入ることになります。
しかし、わずか2年足らずで家定が死去。篤姫は髪をそり落として仏門に入り、これ以降天璋院(てんしょういん)と名乗るようになります。
14代将軍には、家茂が就任しました。彼は朝廷と幕府の結びつきを強化する「公武合体政策」を進めるため、孝明天皇の妹の和宮(かずのみや)を正室に迎えます。天璋院と和宮は嫁、姑の関係となりました。
名君といわれた家茂も早くに他界し、15代将軍に慶喜(よしのぶ)が就任するころ、時代は討幕の機運が高まっていきます。慶喜は「大政奉還」をして薩長の討幕派から逃れようとしますが、翌年に「戊辰戦争」が開戦し敗走。ついに徳川幕府は存亡の危機に陥ってしまうのです。
天璋院は実家である薩摩藩に対し、また和宮は朝廷に対し、徳川家救済の嘆願をおこないました。彼女たちは新政府軍の江戸城総攻撃を前に西郷隆盛と勝海舟の会合を援助し、江戸城は無血開城、内戦を防ぐことになったのです。
天璋院は明治維新後も、解体した大奥の元女中の就職や婚姻をあっせんし、助命が叶った徳川家の教育などに尽力。薩摩へは1度も帰らず、徳川家の女として江戸で生涯を終えました。
彼女の故郷である薩摩から江戸までの行程は、440里(約1700km)あります。
1856年8月22日の朝、一行は江戸へ向けて出発。鹿児島から熊本、久留米をとおり、小倉、中国路を経由して大坂、京都へ入ります。その後は東海道を通行し、大井川を渡り、箱根を越えて鎌倉に詣で、約65日間をかけて江戸へ到着したそうです。
彼女は相当な犬好きで、薩摩に住んでいた際は多数飼っていましたが、嫁いだ先の家定が犬嫌いでした。そのため結婚後は、仕方なく猫を飼っていたそうです。
初めの猫には三千姫(みちひめ)と名づけますが、すぐに死んでしまいました。次の猫には里姫と名付け、彼女は16年も長生きし、毎年5~6匹の子供を産んだそうです。
産まれた子猫はいずれもお付きの女性たちにもらわれていきましたが、これは世話役の者たちが猫好きだったわけではなく、彼女の関心を買いたかったためだともいわれています。
日本にミシンが伝わったのは、1854年にペリーが来航し、家定に献上したのが最初だといわれています。篤姫はその2年後に、家定に嫁ぎました。
彼女は返礼の品をミシンで作り、1857年に来日したアメリカ総領事のハリスを通じて、ミシンを製造していたウィーラー&ウィルソン社へ送ったそうです。
江戸城無血開城が決まると、東征大総督の有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)は、4月11日に明け渡すよう通達をしました。
天璋院はなんとか開城を拒みますが、明け渡しの日は変えられません。すると、大奥総取締だった瀧山から「3日間だけ城から出ていてほしい」と言われました。彼女手回りの荷物だけ持って一橋邸へ移っている間に、開城されたそうです。また戻ってくるつもりだった彼女は、使っていた調度品や着物を広げたまま江戸城を出たため、それを見た薩摩藩士を驚かせました。
篤姫が家定の正室になることが決まってから、彼女にずっと付き添っていた幾島(いくしま)という女性がいます。
薩摩藩御用人を父にもつ幾島は、もともと近衛忠煕に嫁いだ郁姫(いくひめ)に仕えていましたが、篤姫が家定に嫁ぐことが決まると彼女に付くようになりました。しばらくは教育を担当し、「年寄」という女中として一緒に大奥に入ることになります。
その後も自身の出身をいかして江戸城と薩摩藩の橋渡し役を担い、後の江戸城無血開城の際も重要な役目を果たしたそうです。
1856年、篤姫の御台所入輿が決定すると、西郷隆盛は島津斉彬から嫁入り道具を調達するよう命を受けました。
「金に糸目をつけぬ」とのことだったので、江戸最高の腕を持つ職人による調度品を数多くそろえます。その結果、篤姫が渋谷の薩摩藩の藩邸を出発して江戸城に到着した時、最後尾はまだ渋谷の屋敷にいたほどの長い行列になったそうです。
江戸城開城後の彼女は、島津家や西郷隆盛の援助を一切断り、質素な生活を送っていました。徳川家の相談に乗っていた勝海舟はそんな彼女を外食に連れ出していたようで、勝に気を許していた様子がうかがえます。
彼の証言によると、天璋院は自分で裁縫をできるようになり、一般庶民の女性並みの腕前にまでなったそうです。
明治から大正にかけての文豪である夏目漱石の代表作『吾輩は猫である』に、篤姫の話が出てきます。
主人公の「吾輩」は、近所に住む「三毛子」とデートをします。三毛子の飼い主は、「天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先のおっかさんの甥の娘」だそう。
実は漱石の母親も、かつては播磨、明石藩の松平家に奉公していて、姉の佐和は尾張徳川家に奉公していました。先祖の夏目吉信は、1573年の「三方ヶ原の戦い」の時に、家康の身代わりになって討ち死にしています。
徳川家につながりがある夏目漱石は、篤姫贔屓だったようです。
- 著者
- 宮尾 登美子
- 出版日
- 2007-03-15
幕末から明治にかけて徳川家を支えた篤姫の生涯を描いた小説です。俗にいう「幕末モノ」のなかで、本作は動乱の時代を女性の視線で捉えた珍しい作品です。篤姫をとりあげあた作品のなかでは、代表格と言ってもいいでしょう。
彼女は幼少の頃より聡明で、藩主島津斉彬の養女になり、徳川13代将軍家定に嫁ぎます。大奥での勢力争いを切り抜けていくさまや、病弱な将軍を妻として支えている姿は、健気で逞しく、魅力的な主人公として描かれていきます。
薩摩から同行し、世話役として大奥へ一緒に上がる幾島、次期将軍の家茂へ輿入れしてきた皇女和宮などとの関係性は、現代の働く女性社会にも通じるものがあり、歴史物が苦手な方でも読みやすい女性の一代記だといえるでしょう。
物語は薩摩を出て江戸へ向かうところから始まります。
「一日に七たび色がかわるという桜島の姿を、寅刻に仰ぐのは今日が初めてで、そしておそらく、これが最後になるであろうと篤姫は思いつつ、老女の幾島に手を取られて庭に下りた。夜明けの桜島は、肩の辺りからほのかな桃いろに染まり、噴煙は線香のように細くまっすぐ立ち昇っている」(『新装版 天璋院篤姫(上)』より引用)
美しい自然描写が、出立する彼女の気持ちと相まって、一気に引き込まれてしまうでしょう。
- 著者
- ["田村 省三", "松尾 千歳", "寺尾 美保", "崎山 健文", "古閑 章", "東川 隆太郎", "吉村 弥依子"]
- 出版日
- 2008-09-03
篤姫の出身である薩摩の学術者7人が、彼女の実像に迫るためにまとめた研究書です。
本作は、鹿児島の文化や歴史を研究して発表する「新薩摩学」シリーズの6巻にあたり、彼女をとおして幕末の薩摩の歴史を紹介しています。
史実をまとめた資料や絵画、篤姫を題材にした小説の紹介など、彼女について知りたい人にぴったりの研究書といえるでしょう。
関連する土地や史跡などを、当時の古地図や絵屏風を用いながら紹介。物語だけでなく、当時の実際の様子を垣間見られる資料は、タイムスリップした感覚になるかもしれません。
今後、篤姫関係の本を読むための参考にもなるでしょうし、貴重な資料として蔵書したいシリーズです。
第3章では、彼女が江戸城の無血開城に尽力したとされる根拠が、薩州隊長へ宛てた嘆願書だとしています。この嘆願書の真意と背景について事細かに調べた学術書は、その時代背景はもちろんのこと、彼女の実家である薩摩との関係も含めて興味深いものになっています。
- 著者
- 鈴木 由紀子
- 出版日
本書は、徳川幕府を支えた女性たちについて書いた歴史書です。とくに、江戸城無血開城によって内戦を最小限にとどめ、影の功労者といわれる篤姫と和宮をクローズアップしています。
徳川幕府の歴代将軍は15代いますが、外様大名出身の正室は2人しかいませんでした。篤姫もそのひとりで、幕末の混乱期に薩摩藩から13代将軍家定へ輿入れします。
過去のもうひとりが、薩摩藩から11代将軍家斉へ輿入れしていたことも、彼女の運命を変えた歴史だったのでしょう。彼女の名前はこの家斉の正室・広大院の実名である「篤姫」にあやかったものだとされています。
そして幕末から明治にかけて、徳川家存続に尽力したもうひとりの女性、和宮。14代将軍家茂の正室となった皇族です。篤姫とは嫁姑の関係となり、大奥でともに激動の時代を過ごしました。彼女たちは明治維新後も、武家の人間として徳川家の存続と、家臣、女中たちの新生活のために尽力し続けることになります。
本書では、2人の女性の信念ある力強い生涯は、何を源にしていたのかを探求する試みの一冊。政治的、社会的背景を知ることができます。
- 著者
- 原口 泉
- 出版日
- 2007-12-14
彼女の人生を探る作品です。著者は歴史ドラマ「篤姫」の時代考証を担当した志學館大学教授の原口泉です。
「 徳川家存亡之程もはかりがたくと 御先祖様え対し、此上もなき大不孝
——徳川家存亡の様子も見当がつかず、ご先祖様に対してこれ以上大きな不幸はなく——
私事一命にかけ是非是非御頼申候事に候。
——私がこの一命にかけ、ぜひぜひお頼みすることでございます。
戦火迫る中で、私の一命を投げ打ってもこの徳川家を存続させてほしいと、千五百字にも及ぶ手紙を書いているのです」(『篤姫 わたくしこと一命にかけ』より引用)
江戸の町を戦火から救った彼女の功績と、女性としての力強さを終始描かれており、彼女をより好きになれる作品です。
13代将軍家定へ嫁ぐもわずか2年弱で未亡人となり天璋院と名乗ることになりますが、以後、一貫として徳川家のために奮励する生涯は凄まじくも思える女性像を浮かび上がらせます。晩年、元大奥の女中だった人たち一人ひとりの身の振り方にまで尽力した人生には敬意の念を抱かざるをえません。
- 著者
- 徳永 和喜
- 出版日
本作では、鹿児島県歴史資料センター黎明館調査資料室に勤務する著者の徳永和喜が、黎明館蔵書の『鹿児島県資料 斉彬公資料』を中心に天璋院篤姫の実像を探っています。彼女の稀有な生涯の時代考証として見ることができるでしょう。
彼女の養父にあたる島津斉彬は、薩摩藩歴代の藩主の中でも名君の誉れ高い人物です。斉彬の人物像から輿入れの真意を読み取ることができるでしょう。またその背景には薩摩藩と徳川幕府の長い間の関係も起因していることから、その関係性を示す資料を紹介し、輿入れの政治的背景も見えてきます。
「和宮は将軍家茂の御台所となり、天璋院篤姫との関係では嫁と姑にあたる間柄になった。両者とも将軍家との融和によって幕府権威の昂揚と政治の安定のために輿入れしたのであったが、歴史の巡り合わせは皮肉な結果をうんだのである」(『天璋院篤姫―徳川家を護った将軍御台所』より引用)
政治的な婚姻により徳川家に嫁いだ2人が、徳川家のために自らの意思で歩んだ晩年の生き様は、強い女性の代名詞的人気を呼んだのだろうと思います。篤姫の魅力を資料から検証した本作は、物語に語られる彼女の人物像をさらに魅力あるものにしてくれるでしょう。
幕末動乱の世に政略結婚で徳川家に輿入れした篤姫。自らの意志を貫き、人のために人生を捧げたその生涯は、他に類を見ない魅力にあふれた女性です。そんな彼女を学べる本5冊、ぜひお手に取ってみてくださいね。