初代総理大臣、伊藤博文という名は、教科書やテレビなどでたびたび目にするもの。ではこの人物が具体的に何をしたのか、そしてどんな人物だったのかを知っていますか?今回は偉大なる政治家、伊藤博文について知れる、おすすめの本をご紹介します。
伊藤博文が生まれたのは天保12年、西暦1841年に今でいう山口県に生まれました。長男として生を受けた彼は、17歳の時に松下村塾に入門。松下村塾とは、吉田松陰の叔父が開いた私塾で、のちに多くの人材を輩出しています。そこで、伊藤博文は吉田松陰から政治の才があると評価されていました。
1863年、伊藤博文は長州藩のイギリス派遣留学生の1人に選ばれます。このときイギリスとの国力、技術の差を知ることとなった彼は、今までの外国人を排斥するという攘夷論から、外国と並び立つための開国論へと考えを改めるのです。このことは彼の人生にとって、1つの大きな転換点となりました。
明治維新の後、生き残った伊藤博文は28歳の時に兵庫県知事となります。その後も政府の中枢でいくつも要職を経験し、明治18年に初代内閣総理大臣を務めることになるのです。そして彼の業績として有名な議会開設、大日本帝国憲法発布など、近代日本の基礎をつくりあげます。その後日清戦争、日露戦争を経験後、朝鮮のトップとしても君臨します。
そんな彼は明治42年10月26日、満州ハルビン駅で、朝鮮独立運動家から銃弾を受け暗殺され、その生涯に幕を閉じることとなりました。
1:最初の姓は「林」だった
伊藤博文は幼名を「利助」と言い、1841年に周防国(現在の山口県)の農家に、父・林十蔵、母・琴子の長男として生まれました。貧しさから家は破産してしまい、14歳の頃長州藩の下級武士伊藤家に親子養子として入ります。 ここで博文は伊藤姓と、下級ではあっても武士の身分を手に入れました。
2:やんちゃだけど、卑怯ではなかった
かなりのやんちゃ坊主だった伊藤ですが、取るべき責任はしっかり取りました。神社の山車を勝手に引っ張り出して村の庄屋に見つかった時、他の子が逃げ出した後に残って謝ったのが伊藤でした。
3:小さいころから頭が良かった
12歳のころ萩松本村(萩市椿東)久保五郎左衛門の久保塾に入門、80人の塾生の中から選ばれて番頭(ばんがしら)となりました。成績が5番以内の者が成れるのが番頭で、褒美も貰えたそうです。 また字もうまく、塾での書道展でもいつも優等の褒美を獲得しました。
1:英国留学の船旅で、水夫として働かされた
1863年、長州藩イギリス留学生として同僚4人と共に横浜港を密かに出港しました。しかし渡航目的を聞かれた同僚の井上が、ネイヴィー(海軍学)と言うべきところを、ネビゲーション(航海術)と答えたために、以後彼らは船員まがいの仕事をさせられる羽目になります。
特に伊藤と井上は水夫同様に扱われ、酷い目にあったそうです。
2:あだなは「ほうき」だった
伊藤は無類の女好きとして知られ、生涯女性との噂が絶えませんでした。女性を掃いては捨て掃いては捨てを繰り返したので、付いたあだ名が「ほうき」だったとか。 しかし、権力者の伊藤に面と向かってそれを注意できる人はいません。唯一叱ったのが明治天皇で、「少し謹んではどうか」と言われたそうです。それでも伊藤の女癖は生涯治りませんでした。
3:フグが食べられるのは、伊藤博文のおかげだった
古来毒魚として、時の為政者は食すことを禁じられていたフグですが、伊藤が下関の春帆楼で開かれた日清戦争講和会議に出席した時に、関係者一同に供されました。 その味を大いに気に入った伊藤は、山口県と福岡県に限って河豚料理を許可し。戦後は全国の食卓に広まりました。
4:勘違いで暗殺された?
伊藤は、1909年ハルビン駅で韓国人の安重根に射殺されましたが、その理由は日本による韓国支配を阻止しようとするもの、とされています。 しかし伊藤は、韓国併合には反対していたのです。大韓帝国の独立を目指していた安重根にとって、伊藤は生かしておけぬ者だったのでしょうか。
農民の子として生まれた伊藤博文、そんな彼はひょんなことから松下村塾に入門し、吉田松陰の教えを受けることとなります。そして高杉晋作、桂小五郎、坂本龍馬といった人物たちに出会い、ともに成長し日本を引っ張る人材へと育っていくのです。この本ではそんな彼の主に若い時代のエピソードが小説にされています。
- 著者
- 童門 冬二
- 出版日
伊藤博文の生涯の中で、歴史に残るような偉業を成したのはもちろん明治維新後の政治家としての活動です。しかし、この作品は明治に入ってからではなく、その前の彼の少年期から青年期にあたる時代のお話になっています。
作者はこの作品で、伊藤博文だけでなく彼を通じて当時の松下村塾の人々などを書きたかったとも語っています。日本を導いた才ある若者たちという点だけでなく、女癖や酒癖が悪いなどといった人間性の部分にも深く触れられているのが特徴の1冊です。
若くして留学を体験し、維新後には憲法の制定などで活躍した伊藤博文。しかしその評価は「思想なき現実主義者」などあまり高いものではありません。本作はその評価は適切ではない、というような一石を投じる主旨で描かれた一冊です。「文明」、「立憲国家」、「国民政治」といった3つの視点から、伊藤博文の生涯をたどり、彼の思想や構想を丁寧に書きだしています。
- 著者
- 瀧井 一博
- 出版日
あくまでも学問上の権威として思想や哲学がないという評価を受けていた伊藤博文。そこで筆者はこの本で、彼が立憲政友会(日本で初めて本格政党政治を行った政党)を作り政党政治を推し進めたことの意味や、韓国併合での彼の役割の意味などを丁寧に整理しなおし、彼の行動の哲学性を表面化しました。
国を作るというのはどういうことか、国のトップとは何を考え、何をなすべきなのか。著者の集大成となる1冊なので、これだけですべてを理解するのは少し難しいですが、じっくりと時間をかけて読めば新たな「知」が芽生えることでしょう。
伊藤博文本人が語った事柄などをまとめた1冊です。全部で5章仕立てになっており、それぞれ「人物談」、「実歴談」、「憲政談」、「修養談」、「実業談」となっています。
当時の伊藤博文本人が語る言葉なので彼の人物像がとてもよくわかります。人物談と実歴談に多くのページが割かれており、彼が何を考えて幕末の英雄たちと関わっていたのか、そして彼が何してきたのかが、ルーツから分かるのです。
- 著者
- 出版日
- 2010-04-07
幕末、そして明治を生きた伊藤博文本人でなければ言えないエピソードや想いが忌憚なく語られているため、非常に興味深い内容となっています。薩長同盟の経緯や下関の時の様子なども語られており、当時を体験していた人物の、歴史的に貴重な体験談としても重要な内容になっているのです。
特に面白いのはやはり人物談でしょうか。大久保利通や岩倉具視については何ページも記述があるのに、松下村塾での兄貴分、高杉晋作に関する内容はたったの2行!実歴業のほうにも記述があるとはいえこの差は何を意味しているのか、考えてみるのも面白いですね。
本作は600ページという膨大なページ数の中に、伊藤博文の生涯が非常に詳しく載っている1冊です。日本近代政治史の第一人者である著者が書簡や日記といった一次資料や、最新研究をあつめてまとめた伊藤博文研究の決定版となっています。彼の青春の日々から暗殺された最期の時までがすべて書かれているので、この本さえ読めば伊藤博文についてほとんど全て知ることができるでしょう。
- 著者
- 伊藤 之雄
- 出版日
- 2015-03-11
幕末、そして明治の重要人物とあって、その生涯は明治史の全てとともに語られるとあってこの本に載っている情報は非常に多くなっています。とはいえ初心者がとっつきにくいというほどでもなく、時間をかければ問題なく読みきれることでしょう。教科書などを確認しながら読んで明治史を復習するのに使うのもよいかもしれません。伊藤博文を通して近代日本の創世記を知ることができます。
本作は今まで紹介してきた本とは少し異なり、幅広く「明治国家」をつくりあげてきた人々について書かれた一冊です。伊藤博文だけではなく、福沢諭吉や井上毅などをはじめとした指導者たちの思想や行動がまとめられています。西洋の国々を目にした彼らが、これからの国家をどうしていくべきかなど、帝国憲法を作る際の葛藤、国を作る執念が感じられる内容おとなっています。
- 著者
- 瀧井 一博
- 出版日
- 2013-06-18
話のメインとなるのは当時の知識人であった彼らがどのようにして西洋文化を受け入れ、それを日本国家に反映しようとしたかという点です。その中で、当時の西洋諸国との繋がりの記述などもあります。
たとえば福沢諭吉の「時事小言」の英訳を読んだローレンツ・フォン・シュタイン(ドイツの法学者、思想家)が出した手紙などが紹介されているのです。広い範囲での明治の話を知ることで、さらに伊藤博文への理解も高めることができる本だといえるでしょう。