アクの強さに惹かれる! きのこブームをもっと楽しむための本たち

更新:2021.12.6

近年、何故か茸(きのこ)がちょっとしたブームになっているようだ。茸をモチーフにした雑貨はもちろん、まるで本物のような茸型ストラップや、毒茸を女性キャラクターに見立てた図鑑のような本もある。驚きである。 好きな人がいる一方でまったく受け付けないという人もいる。これだけ感情や感覚を強く揺さぶる茸。10年以上も茸を愛でる私の手元に、いつの間にか集まってきた魅力的な茸本を紹介したい。

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『山渓カラー名鑑 日本のきのこ』

先に書いたように好きな人が多くいる一方で茸が嫌いだという人がいる。歯触りやにおいが嫌だという。菌であると考えただけで存在が気持ち悪いという人もいる。なかには、茸を見るということすら厭(いと)わしいという人もいるようだ。

私は、もう10年以上も茸が好きなので、流行に乗せられたような茸の持ち上げられ方には喜びつつも警戒し、茸が嫌いだという人には茸の良さを共有できない寂しさを感じるという、天邪鬼(あまのじゃく)な気持ちを持て余している。が、それはさておき、嫌われるということは、それだけ相手の感情や感覚を揺さぶったということだ。

灰汁(あく)の強さゆえに疎んじられるが、まさにその強さゆえにときに相手の心を揺さぶり強烈に愛される、というタイプの人間がいる。
茸の厭われ方、愛され方は、つまりそういう類のものなのだ。動物でも植物でもない茸は、山で一目見れば、異質な存在であることは明白である。そこに嫌悪する人がいる。魅せられる者もいる。

魅せられた側の私の手元には、いつの間にか茸に関する書籍が少しずつ集まっていた。いつの間に、こんなにも茸に魅せられていたのだろう。
 

著者
今関六也・大谷吉雄・本郷次雄
出版日
2011-12-16

始まりは、高校時代の茸調査だった。歩けば歩くほど、そこにも茸、ここにも茸、茸。いつの間にか、直感であの辺りにありそうだとわかるようになる。これを友人と二人で茸眼(キノコガン)と名づけた。

見つけた茸は採取した。山小屋に戻り、色、形、触り心地、生育環境などを学校から持ち出した大きな図鑑と照らし合わせる。ひたすら頁を繰る。一晩のうちに同じ図鑑を最初から最後まで十回はめくる。

それだけ見比べてみても、世に数万種ともいわれる茸は、いまだ名のつかないものもあるうえに、個体差も大きく素人には見極めが難しい。採ってきた茸が何者なのかわからぬまま、いたずらに夜は更ける。
手元の茸は、気付けば変色して萎び、出会った頃の面影はすでにない。十代のうら若き乙女は、得体の知れぬ茸に翻弄され、調査結果の行く末を思い詰め、真夜中に涙を流した。

その思い出の一冊が、『山渓カラー名鑑 日本のきのこ』だ。日本で見られるという945種類もの茸が、全623ページにもわたって紹介されている立派な一冊である。

”傘は径6~15㎝、時に20㎝、成熟すれば平らに開き、周辺に溝線をあらわす。表面は鮮赤色~橙黄色で、全面につぼの白い破片が散在する。ひだは白色で密。柄は10~24㎝×10~30㎜、白色、基部はふくらみ、つぼの破片がいぼとなって環状に付着し、上部に膜質のつばがある。肉は白色であるが、傘の表皮下は淡黄色。…”

大ぶりの写真の横に添えられた説明文は淡々と詳細を記しているため読みにくく、そのくせ茸の特性ゆえに内容が曖昧であったりする。そこに、なんともそそられる。まだ知られざる秘密を読み解いていくかのような高揚をおぼえるのだ。

傘の大きさが6㎝と20㎝では3倍以上も違う。色合いもずいぶんと幅がある。この違いにも惑わされることなく、同じ茸であると看破するのが、本物なのだ。今まさに私は、その世界に足を踏み入れているのだ、と。萎びた手元の茸のことはさておき、陶酔する。こうして私は、茸に詳しくなることのないまま、茸の魅力に嵌ってしまった。

大人になってから、この図鑑を手に入れた。頁の綴じ代が傷み破れかけた学校の備品ではなく、真新しい私のための図鑑。大振りなのが本格的な感じで好い。文体も、相変わらず大衆におもねらず淡々としていて好い。我が物にしたばかりの頃のときめきはさすがに薄らいだが、この図鑑は今でも時折取り出し、飽かず眺めている。私の書棚では屈指の、よく手に取る書物である。

※2011年に増補改訂版が出版されている。
 

2.『きになるきのこのきほんのほん きのこのき』

茸の写真を収めた本は、確実に増えている。ネット上でも茸の写真は日に日に増えていく。幾多の人びとが茸を撮らずにはいられないでいるのだ。それらの写真を見ていると、茸へのまなざしや想い、あるいは茸とその人との関係性までもが写し出されていることに気がつく。

幻想的で儚げな茸の写真を撮る人がいる。そこには分かり合えない異質な存在への憧れがにじみ出ている。それとは対照的に、上から横から無遠慮に、掘った茸をひっくり返し、表皮の凹凸から裏のひだまで清々しいほどあけすけな撮り方をする人がいる。図鑑の写真にはこの撮り方が多く、彼らにとって茸は、身近で手の届く、それでいて謎が多い、好奇心を刺激し続けられる相手なのだろう。

つい最近出版された『きになるきのこのきほんのほん きのこのき』は、そのどちらともまた趣が違う。茸がまるで、同志であるかのように語りかけてくる写真。彼らは生き生きとして頼もしく、そのすぐ隣、私は茸サイズになって立っているのではないかと錯覚するような写真。そんな写真が次から次へと繰り出される。魅力的なのは、写真だけではない。その文章からは、茸への驚嘆と敬愛と信頼とが素朴にあらわれ、私の共感を呼び覚ます。

そうなのだ。茸は、動物でも植物でもなくて、結局のところ何者なのかよくわからないけれど、すぐ近くにいるのだ。非日常と日常をない交ぜた私の時間の連なりのところどころに茸の時間が重なっている。十分に親しいとは言えないけれど、お互い認め合っていることは知っている。そんな距離感を感じさせてくれる茸の写真は、私を幸せな気分にする。

 

著者
新井 文彦
出版日
2015-05-25

本の最後の方に写真の仕掛けを見つけることができた。写真家でありこの本の著者である新井文彦氏は、きのこの「目線」で写真を撮り、きのこの気持ちに少しでも近づく努力をしているのだそうだ。

”同じ場所でも、立っているのと、しゃがむのと、腹這いになるのでは、わずか一メートル前後の視線移動なのに、きのこや森の見え方は劇的に変化します。”

そのわずか一メートル、人間が身を近づけるだけで、なるほど茸はこんなにも心を開いてくれるものなのか。
 

3.『フングス・マギクス 精選きのこ文学渉猟』『きのこ文学大全』他

新井氏と茸との同志関係に共鳴する一方で、茸の持つ魔力、幻惑性を増幅する文学作品の魅力にもまた、私は抗うことができない。茸を愛し「きのこ文学研究者」を名乗る飯沢耕太郎氏は言う。「文学はきのこである。あるいは、きのこは文学である。」と。

正直に言おう。その「きのこ文学宣言」を初めて目にしたとき、私は眉をひそめた。そんな派手派手しいキャッチフレーズのような物言いは、茸に似合わないと思ったのだ。しかし、書籍に向かうこと数十分、私は改心した。茸は文学だ。いや、やはり私にとって茸は茸だし、文学は文学だ。それでも、茸と文学とは限りなく類似関係にある。そう認めざるを得なかった。

茸に関する説明として、よく取り上げられるのが、動物でも植物でもない菌類である茸の役割だ。光合成をする植物、それを食べる動物、植物や動物の死骸を分解する菌類。その三つ巴が世界を紡いでいる。

そういう意味では、動物である人間にとっては、菌類は生きながらにして死を連想させられる静かな存在だ。それゆえか、文学における茸は、異界との結節点、此岸と彼岸との橋渡しとなることが多い。食べた者をときに死へと追いやり、ときに幻覚をもたらすその毒性もまた影響しているかもしれない。

また、その形から、性的なモチーフとされることも多いし、食と結びつけて語られることは言わずもがなである。さらに面白いのは、その生態である。茸は枯れ木や土中で菌糸をひっそりと伸ばしている。そして伸ばしたその先で私たちの見知った「茸」として生えているのだ。見えないところでつながり合う茸。

死、生、そこに根源的に結びつく性や食。存在のつながり。それらへの執着。文学の永遠のテーマと、キノコに見出せる文学的テーマが大きく重なっていく。そのことを先んじて感じ取り、古今東西の文学作品を蒐集し、明らかにしてきたのが飯沢氏なのだ。

茸と文学の関係性を味わいたいのなら『フングス・マギクス 精選きのこ文学渉猟』を、茸の登場する文学作品をとにかく探したいと思うのならば『きのこ文学大全』を紐解いてみてほしい。
 

著者
飯沢 耕太郎
出版日

4.『ある一日』

飯沢氏の本を手に取れば、茸の登場する文学作品は、好きなだけ見つけることができよう。それでもなお、私の手で感動を伝えたい小説が2つある。

秋の風物詩である松茸。その描写をとおして、日常と非日常の連なりの境目、有形と無形のはざまでいのちをとらえたのは、いしいしんじの『ある一日』だ。

とある夫婦、妻の出産予定日に検診をすませ、偶然手に入れた松茸と、市場でようやく見つけた鱧(はも)を祝いに食べる。
”きのこは胃腸で消化されたようにみえ、そのわずかな一部は、生きたままそのひとのからだのどこかしらにかならず巣くう。一本のまつたけが、かつて慎二や園子が食べたすべての断片を呼び覚まし、思ってもみなかった記憶を臓腑のくらがりでかたちづくる。…ふたりは、小児や学生のからだへとめまぐるしく収縮し、そのうち空間だけでなく、いま、ということまで曖昧になってくる。”

松茸と鱧を食べることで、記憶が連なり、記憶に飲み込まれ、記憶する自らを食べ、汗にまみれて二人は混然となる。
そしてその夜、妻の園子は産気づき、夫と共に産院へ向かうのだが、そこから始まる怒涛のいのちの明滅、超感覚の高波、動物的な痛みと恐怖、温もり、孤独、不安、そういったものの凄まじい嵐が、対照的な前半のぬるりと生臭いような日常と相俟って、紙をへだてたこちら側の私を揺さぶりに揺さぶる。そして松茸と鱧の香りとともに、絶望すら覚える幸福に終着するのだ。

松茸を食べて、このような経験をしたことはいまだない。けれど、もしかすると次こそは、私にもそのような時間が訪れるかもしれない。この本を読む度に、そんな錯覚と期待が去来する。
 

著者
いしい しんじ
出版日
2012-02-29

5.『冬虫夏草』


木の枝からひょろりと生えたように見える妙な形の茸。その根元には動かぬ虫が横たわる。そう。松茸の次は、冬虫夏草である。

命果てた虫の頭や背中からのびる茸。彼らは、生きた虫の内部に菌糸を伸ばし、養分を得る。茸の成長と共に虫は死へ向かう。梨木香歩の手により、この冬虫夏草が重要な役割を果たす物語が書かれた。その名も『冬虫夏草』である。

『家守綺譚』の続編にあたるこの作品では、前編同様に、人ならぬ存在が主人公の綿貫の前に次々と姿を現す。河童、宿を営むイワナ、川を治める竜、故人、絵のなかの白鷺。それらをあたりまえのように受け止めていく綿貫と、それをよいことにのびのびと登場する異質な存在との自然な交流に、ああ、この世とはそういうものか、と思わず納得してしまう。

”わたくし、この世に生まれ落ちてからこれより、天蓋孤独の身の上でございました。おっかさんはありましたが、体二つに別れたときから、わたくしはずっと独りでございました。それがあるとき天啓とも云うべき事態が起こり、お相手を授かったのでございます。わたくし、それより孤独地獄とは決別いたしました。お相手と一つになり、孤独地獄から救われたのでございます”

これは物語の前半、綿貫が雨の降る晩に家の外から響いてきた人ならぬ声を書き付けたものだ。友人との会話の末、綿貫は、
”これはその、幼虫の言葉だね。昆虫界から植物界へ身を転じようとするときに、感慨だな”
と納得するのだが、ここからしばらく冬虫夏草は話の表舞台から姿を消す。しかしその実、ひそやかに物語の先へと菌糸を伸ばし続けていた冬虫夏草は、物語の終盤に再び現れ、河童との問答を経て更に壮大な感慨へと変貌する。その様もいしいしんじの松茸に劣らず見事で、思わずため息が出てしまう。


 

著者
梨木 香歩
出版日
2013-10-31

いしいしんじと梨木香歩。二人の作家を並べただけでは、きのこ文学について何を語ることもできないことなどわかっている。それでも、少なくともこの二つの作品を私が好きなのには、共通することがあって面白いのだ。

一つは湿気である。いしいしんじのそれは、表面はさらさらと内側でぬるりとするような湿り方で、梨木香歩は、雨や朝露が染み込んだような静かな湿気だ。

もう一つは温さである。全ての作品には、その持つ温度がある。無機質な冷ややかさが心地よいものや、熱風や焦げ付く日差しを感じるような躍動が魅力の作品がある。
この二人の作品はというと、温(ぬる)んでいるのだ。あたたかいとまでは言えない、けれど菌が蔓延るような温み方だ。必然的に様々な匂いが立ち上る。じわりじわりと物事が動き出す。そんな温み方だ。

そして三つめは、その湿り気と温みを帯びた世界の内側に、いのち、人の想い、異質な存在、そういったものが菌糸のようにそろりそろりと、しかし着実に何かを伸ばし、絡まり、互いを結びつけてようやく世界を織り成しているさまを描き出しているということだ。
そうなるとやはり、飯沢耕太郎氏のきのこ文学宣言は的を射ているように思えてくる。などというのは私の頭の中にも菌糸がそろりそろりと伸びているからかもしれない。それも悪くない。
 

私たちの生きるこの世に、茸という生き物がいる。 
茸のいる世界に魅せられた人びとの手による茸本は、茸のいる世界の扉となってくれる。 
この記事をきっかけに、いくつかの茸本を手にとって茸のいる世界の魅力を発見し、その歓びを共有していただけたのならこれ幸い。 
いずれどこかで、茸を愛でる者同士としてお目にかかれる日を楽しみにしつつ…

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