本能寺の変で織田信長を討ったことで有名な明智光秀。一般的には謀反人や悪人として語られることの多い人物です。そんな光秀は本当はどんな人物だったのか、なぜ本能寺の変を起こしたのか……。そんな謎に迫る本を5冊、ご紹介します。
明智光秀については、誕生から織田信長に仕官するまで詳しい経歴は分かっていません。清和源氏、美濃土岐氏流の明智氏に1528年頃に生まれたのではないかと言われています。この頃、美濃は斎藤道三によって治められていました。光秀も道三に仕えていましたが、道三親子の争いに巻き込まれ、明智家は離散してしまいます。そして光秀は越前国の朝倉義景に仕えることになりました。
朝倉義景を通じて、足利義昭、織田信長とも知り合います。信長の正室の濃姫は光秀の従兄妹にあたるのではないかと言われており、これは光秀の叔母が斎藤道三夫人だったためです。そのつてもあり織田信長と対面したようです。その後は義昭と信長に付き、戦に赴きました。
1573年義昭が挙兵してからは信長の直臣として働くこととなりました。足利幕府消滅後、1575年には惟任の性を賜って従五位下日向守に任官し、惟任日向守となっています。思慮深く才知あふれることから信長に重用され、長篠の戦い、信貴山城の戦い、丹波攻めなどに参戦しました。特に丹波攻めに関しては、その働きを信長に評価され、丹波一国をもらっています。
1582年光秀は少人数で本能寺にいた信長を狙い、自害に追い込みました。その理由は今でもはっきりと分かっていません。その後京都を抑え新体制を作ろうとしましたが、中国から引き返してきた秀吉と山崎で争うことになります(山崎の戦い)。結局兵を整えることができなかった光秀は負けてしまい、坂本城へ逃げ落ちる途中に落ち武者狩りの百姓に竹やりで刺されてしまうのでした。そして深手を負った光秀は、自害したとされています。信長を討ってから13日目のことで、天下が続かなかったことから「三日天下」という言葉が生まれました。
1:一途な心を貫いた
幼少の頃、光秀は妻木家の美女姉妹の姉である煕子(ひろこ)と婚約を交わしました。しかし、煕子はその後疱瘡(ほうそう)を患ってしまい、顔に痕が残ってしまいます。煕子の両親は煕子とそっくりな妹を光秀の下に送りますが、光秀はそれを見破り、煕子を正室として迎えたのです。
2:極貧生活を送っていた
光秀が流浪の日々を送っていた頃、知人が訪ねてきました。職に就いていなかったため貧しかった彼は、どうもてなそうかと悩みます。
そこに煕子が来て「私に考えがあります。」と家を出て、しばらくして彼女は酒と肴を持って帰ってきました。
光秀は喜んで知人を接待しますが、後でどう工面したのかと煕子に聞くと、彼女は髪を売ってお金に変えたと頭巾を取って光秀に痛々しい髪を見せます。光秀は驚き、必ず恩に報いると心に誓い、織田信長の下で大名の身となるのです。
3:鉄砲の名手だった
光秀が朝倉義景に仕えていた頃、義景の命令で光秀は自身の鉄砲の腕前を披露することになりました。
わずか30cm四方の的を45m先に立てて、光秀は鉄砲を100発撃ちます。そのうち68発は的の中心に当たり、残り32発も的に当たっていたので、全弾的に命中させた彼の腕前に見物人は皆驚嘆したといわれています。
4:大いなる野望
まだ若かった頃、光秀は芥川という場所で大黒天の木像を拾います。
まわりの人々は「これはめでたい。大黒天の像を拾うと千人の長になるという。今にあなたは出世するだろう。」と光秀に言いますが、それに対して彼は「今の時代は凡人でもそのような身分になることはできる。私の目標はその程度ではない。」と言って木像を他の人に渡してしまったそうです。
5:光秀と浪人の話
光秀が十万石の大名だった頃、堀辺兵太という浪人が光秀の下にやってきます。俵を背負ってやってきたその浪人は千石で家来にしてほしいと光秀に頼みました。
光秀は堀辺をもてなしている間に隙を見て俵の中身を見ます。手入れされた刀や槍が中に入っているのを見て、面白い侍だと思い、千石で堀辺を家臣にしたそうです。
6:信長に名将と評価された
武田信玄が亡くなった後、信長は光秀に「信玄は名将と呼ぶにふさわしかった。古くから名将とはどれぐらい居るのか申してみよ。」と尋ねました。光秀は古の名将をひとりひとり説明した後で、最後に信長の名を挙げます。
すると信長は「わしの名を挙げるとは片腹痛いわ。光秀、お主こそ天下無双の名将であろう。」と言ったという逸話があります。
7:蘭丸に鉄扇で打たれる
1582年5月のはじめ、信長の招きで徳川家康が上洛することになります。信長は家康を安土城でもてなすことにして、光秀にその接待役を命じました。光秀は壁や柱や庭に豪華な装飾をして抜け目なく準備を整えます。
しかし、それを見た信長が光秀を呼んで「今度の接待を何と考えている。贅沢の限りを尽くすとは不届きだ。」と言うので、光秀は怒りを顔に表しました。
すると信長は「反省する気がないのか。誰か光秀の頭を打て。」と命令すると、そばにいた森蘭丸が「御上意でござる。」といって光秀の頭を鉄扇で打ちつけます。
光秀は額に血を垂らし、屈辱に耐えながら信長の前を退いたそうです。
『明智光秀―本能寺の変』は小学生向けに書かれた火の鳥伝記文庫の一冊です。そのため子どもにも分かりやすい文章でまとめられているので、大人が読んでも内容がすっと身に入ってきます。なぜ光秀は織田信長を殺したのかという永遠の謎に迫りながら、光秀の生涯を描きます。
- 著者
- 浜野 卓也
- 出版日
- 1991-12-20
明智光秀は謀反を起こした人、というそれだけの認識しか持っていない人にぜひ読んでもらいたい本です。もちろん本能寺の変を起こし、信長を自害に追い込んだことは間違いありません。しかし悪者ではないのです。この本からは光秀への愛情が感じられます。
光秀の最期ははっきりとは分かっておらず、生き延びて南公坊天海という僧侶として再び歴史の表舞台に登場したという説もあります。天海は家康の側近として、豊臣家を崩壊させ、江戸時代の宗教政策にも深く関わった人物です。もしかしたら光秀が天海かも、という話についても触れられており、面白く読み進められます。
武芸にも優れ、知識も豊富であった光秀について、多くの文献を参考にしながらも、簡潔に短くまとめられている良本。光秀について復習してみたい、とりあえず簡単に生涯を知りたいという人にぴったりの光秀入門本です。子どもと一緒に読んだり、子どもに歴史を教えるきっかけにもなることでしょう。
明智光秀を英雄として描く『明智光秀』は、文庫で上中下巻あり読みごたえたっぷりです。美濃の名門の家に生まれたものの、明智一族は滅亡の危機。斎藤道三、織田信長など多くの権力者の争いに巻き込まれながら嫡男であった光秀は生き延びていきます。そして信長に仕えてからの苦悩はいかほどであったでしょうか。知力も武力もあった光秀と信長の確執が浮かび上がります。
- 著者
- 桜田 晋也
- 出版日
この本の信長は冷酷で非道な独裁者として描写されています。そのため光秀の冷静で知力に溢れているところが際立ち、英雄としての光秀像ができあがるのです。信長はそんな秀吉の才能に気付き、自分に仕えさせようとしますが、光秀は、信長は自分の信念に合わないと思いなんとか断ろうとします。しかし結局は仕官することになり、さまざまな場面で重用され、その才能を信長のために使うことになるのでした。そんな光秀の逡巡と疲弊していく様子に読者も共感してしまいます。
信長を討とうと思ったときの心持ちはどのようなものだったのでしょうか。「なぜ……?」というのは、永遠のテーマになりますが、この小説からはどうしようもなくなってしまった光秀の気持ちが伝わってきます。英雄、光秀の人生を感じ取れる大作です。
『本能寺の変 431年目の真実』は明智光秀の子孫である著者がまとめた本能寺の変についての考察です。歴史の中でも謎の多い本能寺の変での通説は、秀吉などその後の勝者が資料を書き換えた可能性があるとして、史料を丁寧に調べ上げ真実に迫ります。今まで聞いたこともないような突飛な発想も多く、面白く読めるはずです。
- 著者
- 明智 憲三郎
- 出版日
- 2013-12-03
光秀の子孫の執念が見える本です。通説では日頃の恨みがたまりにたまって光秀は謀反を起こしたとなっています。しかしこの時代、謀反を起こし失敗すれば一族皆殺しとなり、家の存続は不可能といえるでしょう。冷静な判断力があった光秀が安易な考えでそのようなことを行うでしょうか。
この本では、信長は家康を殺そうとしていたことが前提となっています。そしてそれに合わせて光秀は謀反を計画。理由は、信長が唐に侵略しようとしていたことが大きく関わっています。さらには実は光秀は家康とも共謀していたとか、秀吉も光秀の謀反計画を知っていたとか、いろいろな仮説が出てくるのです。にわかには信じがたい話も多いのですが、史料を丹念にあたり調査しているので、もしかしたら真実かもしれないと思わせてくれます。歴史は勝者が作るものだということを念頭に置き、本能寺の変について改めて考えてみるきっかけになる本です。
高名な整形外科医である著者が、自分の足で歩き、明智光秀に関する写真を撮り続けた旅の記録。それが『明智光秀と旅―資料で再現する武人の劇的な人生』です。単に写真を並べるだけではなく、資料も調べ分かりやすく解説されていますので、光秀の人生を視覚からしっかりと学び取ることができるでしょう。
- 著者
- 信原 克哉
- 出版日
- 2005-09-01
50年かけて完成した本だということです。海外でも活躍する医師でありながら、ライフワークとして成し遂げたというだけでもその重みが伝わってきます。集めた写真や図は500点ほどにもなり、見応えたっぷり。カラーの美しい写真からは、光秀の人柄が伝わってくるように感じられます。
謀反人光秀ではない、優しく思慮深い光秀。自分の土地も正しく治めていました。残されている詩や書からは、文化にも通じていた光秀が浮かび上がります。信長や秀吉など歴史の勝者を英雄扱いしすぎることに警鐘をならしたり、光秀天海説にも著者の意見が述べてあったりと、私たちも歴史について考えさせられることが多くあることでしょう。
この本を片手に、光秀を巡る旅をするのも楽しそうです。光秀ファンならばぜひ手元に置いておきたい1冊だといえます。
兵法者の新九郎、辻博打を行う謎の僧である愚息と出会ったことで、浪人中の十兵衛こと明智光秀の歴史は、動き出します。この3人の友情と成長を軸にしながら、光秀がどのように出世していったかを描く『光秀の定理』。
本能寺の変については新九郎と愚息の回想話だけとなりますが、友人が語る本能寺の変は真実を表しているのかもしれません。
- 著者
- 垣根 涼介
- 出版日
- 2013-08-30
本作で描かれる光秀は、こんな光秀見たことないというくらいに爽やかで情に厚く、文武両道ながら女々しいところもある魅力的な人物です。見どころはやはり3人の友情物語。愚息と出会い成長していく剣使い新九郎も格好いいですし、お金にとらわれず自分を見失わない愚息にも憧れてしまうことでしょう。
信長に仕官することになっても光秀は彼らと友人であることをやめず、愚息のアドバイスも参考にして出世していきます。目指す道は違えど、3人の根底にある人間として正しく生きたいという心は同じなのでしょう。本能寺の変でしか注目されることのなかった光秀。しかし彼にもそれまでの人生はありました。人間味あふれる光秀のことを好きになること間違いなしの作品です。
実は優しくて誠実な光秀の姿は、浮かび上がってきたでしょうか。勝者の作る歴史は曲げられていることも多いと言います。ぜひこの機会に歴史をさまざまな角度から検証していってみてくださいね。