岩崎弥太郎は土佐藩出身で、三菱財閥の創始者として知られている人物です。下級武士から大企業の創始者となり、その人生は多くの人から注目を集めました。この記事では、そんな彼の生涯を紹介するとともに、逸話や名言、そしてビジネスの参考にもなるおすすめの本を5冊ご紹介します。
岩崎弥太郎(いわさきやたろう)は、1835年1月9日に土佐藩安芸郡井ノ口村一ノ宮に生まれました。生家は土佐藩の身分のひとつである地下浪人(じげろうにん)。名字帯刀は許されていたものの、半農半士で下級武士よりも身分は下です。特に岩崎家は相次ぐ飢饉や一揆のため、極貧生活を送っていました。
文才に恵まれ、親類の縁で儒学者の岡本寧浦の下で学び、12歳で儒者小牧米山に弟子入り。14歳の時には、土佐藩主山内豊照に漢詩を披露するほどの腕前でした。1854年に江戸に出て朱子学者、安積艮斎の私塾に入塾。
しかし、1855年に父親が酒の席で庄屋と揉めたことがきっかけで投獄されたことを知り、帰国。奉行所に訴えたものの聞き届けられず、庄屋に味方する役人に腹を立て、不正を訴えたところ、弥太郎も投獄されてしまいます。
転んでもただでは起きず、獄中で同房の商人から算術などを学び、約7ヶ月で出獄。名字帯刀を剥奪され、村を追放されてしまいます。1855年には蟄居の身ながら私塾を開いていた吉田東洋の少林塾に入門。後に明治新政府で政治家として活躍する後藤象二郎と知遇を得るなど人脈を広げたほか、藩の役人として取り立ててもらいます。
1867年に後藤象二郎が創設した、藩内の物品の輸出入に関わる開成館に勤務。長崎に設立された土佐開成社では藩貿易の責任者として関わり、商売の腕を磨いていきました。土佐藩の官職を得て出世しますが、廃藩置県で官職を失い、土佐開成社を九十九商会とし、経営者になります。
1872年に九十九商会から、経営幹部3名の川の字にちなんで三川商会と社名を変更。1873年に三菱商会へと社名を変更し、土佐山内家と岩崎家の家紋を合わせたマークが作られました。
その後、海運や障子を中心に事業を展開しますが、台湾出兵(大規模殺戮事件捜査のため、政府が台湾へ軍を派遣した)で政府船を託されたのをきっかけに、軍事輸送など国の関係する輸送を任されるようになります。国からの助成や船舶を供与されたこともあって会社は急成長。三菱商会から郵便汽船三菱会社へ社名を改めます。
1877年に起こった西南戦争では定期運航をすべて休止し、社船を軍事輸送に集中。戦後不要になった軍事品などの処分もあり、莫大な利益を挙げました。その後も鉱山事業や商業学校開校など、次々に投資を行っていきます。
しかし、三菱が海運業を独占することを良しとしなかった三井財閥などが共同運輸会社を設立したことで、三菱は窮地に陥ります。そんななか弥太郎は、1885年2月7日、50歳の若さで病死。弟の弥之助が跡を継ぎ、共同運輸会社と合併、日本郵船となり、三菱財閥の源流となりました。
1876年にイギリスの海運会社ピー・アンド・オー社が日本にも進出してきた際は、当時郵便汽船三菱会社だった弥太郎の会社も危うくなりましたが、弥太郎も含む社員の給料カットとリストラ、経費削減を断行。新規顧客の確保や、運航の安全性が認められてもちなおすと、ピー・アンド・オー社は撤退します。
商戦に勝てたのは社員のおかげと、勝利を祝って支給された賞与が、日本で初めてのボーナスとなりました。
ここまで、岩崎弥太郎の生涯について紹介してきました。ここからは、より彼の人物像に迫れるような逸話を紹介していきます。
成功のヒントを目のあたりにすることができるでしょう。
1:子孫に中島みゆき、親戚には福沢諭吉がいる
弥太郎は喜勢夫人と婚姻し、その後1男2女を授かります。さらに養子も受け入れました。岩崎家は大いに繁栄し、その繋がりは広がっていきます。
養子として受け入れた豊弥の父は郷純造(実業家・郷誠之助の父)です。郷純造の異母妹の息子に帯広市議会議長を務めた中島武市がいますが、その孫娘はシンガーソングライターの中島みゆきです。
また、岩崎の長男・久弥の三女・綾子は福澤諭吉の孫・堅次に嫁いでおり、婚姻関係があります。さらに、他の親類にも内閣総理大臣や大学教授などもおり、非常に華やかな繋がりがあるのです。
2:坂本龍馬に刀を貸した
彼は坂本龍馬と親しい仲でした。1867年の長崎で2人は出会い、意気投合します。
坂本龍馬は非常に筆マメで手紙や日記が数多く残されているのです。そんな坂本の日記の一文に弥太郎が登場しています。坂本龍馬が菅野覚兵衛のために弥太郎より吉国の刀を借用するという内容です。
刀匠の上野守吉国は本名・森下孫兵衛、土佐で刀を打っていた名工です。
3:弥太郎の屋敷は現在庭園として公開中
東京都台東区池之端1丁目には、彼の屋敷が現存しています。
一般公開がなされており、「旧岩崎邸庭園」として庭園や三菱財閥岩崎家の茅町本邸という歴史的建造物が楽しめます。旧舞鶴藩主から岩崎弥太郎が購入した屋敷で、現在では国の重要文化財に指定されているのです。
4:若い頃は放蕩家な時期もあった
幕末や明治の激動の時代を駈け抜け、地下浪人から実業家に進み、三菱を創始した偉人。そんな彼にも放蕩三昧な時期がありました。
1859年、彼がまだ20代半ばの時です。土佐藩の命により、土佐の特産品を国外に輸出する調査と各国の情報収集をしに長崎へ向かいました。
しかし、彼は藩のお金を使い、宴会や遊郭でお金を使い果たしてしまったのです。
後に土佐に帰った弥太郎は、豪商に頼んで100両を借り、使い込み分を返済します。このような放蕩時期を経て、彼は学び、豪商への道を切り拓いていったのです。
1:武家出身社員への、ちょっとした意識改革
当時、日本は幕末から明治維新にかけて士農工商という江戸時代の封建社会が崩壊し、新しく商工業が広がるという、近代化が急激に進んだ時期でした。
1873年に創業した三菱商会の社員には、武家出身の人がたくさんいました。「殿様商売」という言葉があるように、武士の意識が抜けず愛想のいい笑顔ができない社員に、岩崎弥太郎は小判の絵を描いた扇子を渡し 「お客を小判と思え」と意識改革をしています。
当時最大手の海運業者は日本国郵便汽船会社でした。最大手だけに態度は大きく、「船に乗せてやる」という高慢な態度だったそうです。
しかし、岩崎弥太郎率いる三菱は、店の真ん前におかめの面を掲げ笑顔で応対するように心がけます。顧客への態度や、笑顔で接することなど、弥太郎の人柄や商売の巧さが見えてきます。
2:外国人を積極的に雇用した
1876年の三菱の社員は日本人1351人に対し、外国人は388人もいました。
さらに東京大学や慶應義塾の学生も加わり、非常に優秀な社員で組織が構成され、三菱の基礎を築いていったのです。
3:3代目以降もトップが優秀
弥太郎は1885年に50歳で死去します。
死後、三菱は弟の弥之助が2代目社長となり事業は繁栄し、さらに3代目社長の久弥らによって経営の多角化がおこなわれ、銀行、鉱山、造船とさまざまな業界に進出して成功を収めます。
2代目社長である弥之助の長男・小弥太が4代目社長となり、銀行、電気とさらに事業を拡大します。こうして巨大な財閥となり、やがて日本を代表する現在の三菱グループへと発展し、今なお成長しています。
「3代目が会社をダメにする」という話を耳にすることもあると思いますが、弥太郎が創業した三菱は違ったのです。
4:紙まで倹約した
弥太郎は三菱を創業してから、無駄な経費は確実に減らし倹約に努めました。
あるとき、弟の弥之助が会社の領収書を未使用の白い紙に保存しているのを見つけると、「全国の支社で同じように白い紙を使ったら、使い古しの紙を使った場合と年間でいくら違うか計算してみよ」と言ってきました。
実際に計算してみると年間で400円(現在の約800万円)の経費削減になることが判明し、すぐに改めたといいます。
必要な投資は惜しまず、台湾出兵の時などはコスト度外視で「国に貸しを作る」という目的のために巨額の投資をおこなっています。これは後々、他社にはない政府の援助が得られ、大成功となりました。
ここからは、経営者として人の上に立ち、リーダーシップを発揮していた彼の名言をご紹介していきます。きっと現代にも通じるヒントがあるはずです。
「機会は魚群と同じだ。はまったからといって網を作ろうとするのでは間に合わぬ。」
「小事にあくせくするものは大事ならず。ひとたび着手せし事業は必ず成功を期せ。決して投機的な事業を企てるなかれ。国家的観念を持って全ての事業に当たれ。」
「無駄をなくすということは、口に出して言うのは簡単でも、実行するのは難しい。これは昔も今も、人々のひとしく悩みとするところである。余分な人員を整理し、無駄な費用を省き、精魂を尽くして本社の基礎を固め、相手に負けないだけの体制を築いてこそ、はじめてこちらの勝利が期待できる。」
これらの名言を見ていると、大きなことを成し遂げるために大胆に行動していたというよりも、どんなことにもしっかりと準備をして臨むことが大切なのだと感じられます。
また、勝つか負けるかわからない勝負に出るのではなく、勝てるための体制を整えるべきだというビジネスマンとしての毅然とした姿勢がうかがえるでしょう。
日本三大財閥というと、三井、住友、三菱の名前が挙がります。三井は江戸時代からの豪商、住友が平家一門を祖に持つ古い家系を持っています。対する三菱は、明治初期の動乱の中、武士の中でも身分の低かった岩崎弥太郎が基礎を築き、後継者たちが盤石なものにしていきました。
本書は、三菱財閥の興りとその経営術を初代の岩崎弥太郎、2代目で弟の弥之助、3代目で弥太郎の子久弥、4代目で弥之助の子小弥太4人の総帥それぞれの人生を追いながら解説していきます。
- 著者
- 河合 敦
- 出版日
創業者である弥太郎が中心となり、歴史的な流れに加えて小さな頃はガキ大将だったというエピソードが登場。土佐藩の経理を任されていた時の、商品を納品してもらい、返品や月賦を滞らせて代金を値切るという、詐欺まがいの借金踏み倒し術などもこと細かく記述されており、相当の切れ者であるということを察することができるでしょう。
身分にとらわれない柔軟な考えを持っていることがわかるエピソードも紹介されています。士族意識をなくさせるために商人特有の格好である前掛けを着せ、どうしても馴染めない者にはお金に頭を下げていると思え、とアドバイス。精神論に訴えるでもなく、合理的に問題を解決するところに、経営者としての手腕を感じることができます。
若い時分には藩のお金を使い込むなど、ダメさ加減も際立つ弥太郎ですが、2代目の弥之助は兄とは反対に堅実なタイプ。傾きかけた三菱を、金融や造船などの新事業を興して立て直していき、自身は相談役について甥で3代目の久弥に総帥を譲ります。
久弥は好景気に乗って事業を拡大し、4代目の小弥太は世界恐慌という荒波を乗り越えていきます。時代や状況が違いますが、それぞれの総帥が己のなすべきことを自覚し、難事を乗り越えていく姿が印象的です。
4人の人生や経営術と人生訓が登場し、在りし日の大財閥総帥の工夫や苦労を知る本作。動乱の時代を生き抜き、現代にまで続く企業に育てた4人の経営哲学がぎっしりと詰まった、重みを感じさせる一冊です。
武士が初めて幕府をひらいた鎌倉時代以降、日本を動かしてきたのは物理的な力を持つ武士でした。それは天下泰平となった江戸時代でも変わらず、士農工商という身分を見るにも明らかに、武士が一段上。
しかし、明治維新はすべての身分の人が関わり、新しい世に向けて動いていったのだと感じさせるのが、南條範夫の『暁の群像』です。
- 著者
- 南條 範夫
- 出版日
- 2010-01-08
上下巻に分かれており、上巻は廃藩置県がおこなわれる前あたりまで。下巻は会社を興して以降の話になるので、歴史経済小説の名前どおり、経済的な内容が中心となった内容です。岩崎弥太郎の生涯を綴る本作ですが、史実として残っていることを美化したりすることはなく、ありのままの姿で描かれています。
藩費で豪遊するといったエピソードは良く知られていますが、郵便汽船三菱会社以降は実業家としての側面や愛国心に溢れた姿が多く目立ちます。その陰で正妻と愛人を同居させていたといったエピソードや、鉱山労働者への非道さなども余すことなく描くことで、弥太郎がどういう人物だったのかをよりくっきりと浮かびあがらせるのです。
本作は史実に添っており、坂本龍馬や後藤象二郎、板垣退助や大隈重信らも登場。その中に、三橋節弥というオリジナルのキャラクターが現れます。道化的な役割で物語を掻き回し、弥太郎の周辺をうろつく彼が物語にどういった影響を及ぼしていくのかにも注目です。
大河ドラマ『龍馬伝』から岩崎弥太郎の存在を知り、もっと知りたいと手に取った読者からも広く支持されている本作。性格はかなりクセがありますが、生き抜こうと強い力を持っていることが文面から伝わってきます。龍馬と対比しても決して遜色ない、生きる力に満ちた激動の人生を描いた物語をお楽しみください。
岩崎弥太郎が脚光を浴びるきっかけとなったのが、大河ドラマ『龍馬伝』です。弥太郎は龍馬を認めながらもライバル視している幼馴染として登場。自信家で口が悪いという面はあるものの、情に脆いという弥太郎が龍馬の物語に彩を添えました。
物語を盛りあげた弥太郎の存在ですが、史実ではふたりが面識を得たのは、龍馬が結成した海援隊が土佐藩の後ろ盾を得たあたりで、距離も近かったわけではないようです。史実での岩崎弥太郎はいったいどんな人物だったのかを知る一助となるのが、伊井直行『岩崎彌太郎─「会社」の創造』です。
- 著者
- 伊井 直行
- 出版日
- 2010-05-19
巻末に記載されている参考文献は200以上にも及び、その中でも主に弥太郎自身の日記を中心に考察されています。伊井直行独自の視点を交えながら描かれる弥太郎像は、やはり剛毅で癖のある人物であった様子。しかし、外国人との交渉を任されるなど精神的に負担のある役割を負っていたせいか、心配事があると眠れなくなるなど、意外と神経質な一面も見ることができます。
悩み、苦しまない人間はおらず、少なからず弥太郎も日記にその苦悩を綴っています。しかり任されたことをやり遂げる気概は見事なもの。だからこそ弥太郎の元には多くの人材が集まっていったのではないかと容易に想像させます。
弥太郎の部下たちの多くは士族。身分が高かった彼らが、会社という組織でどのように働いたのか、どう馴染んでいったのかという部分にも純粋な興味が湧き出てきます。
伊井直行は、会社や会社員を題材にした作品を多く残した作家です。本作は巨大な財閥を創りあげた人物を描くことにより、弥太郎が作り上げた会社はどういった存在であったのかということを論じる意欲作。日記から読み取る人間臭さのある岩崎弥太郎像と、彼の創りあげた三菱という会社に大きな繋がりが見える、そんな一冊です。
三菱創業者である岩崎弥太郎の、波乱に満ちた生涯を描いた漫画作品です。作者の本宮ひろ志は『サラリーマン金太郎』の作者としても知られる人気漫画家。本作は2001年に宝塚歌劇団で舞台化されたことでも大きな話題となりました。
小さなころはガキ大将だった、というエピソードもある弥太郎ですが、本宮ひろ志の熱く力が漲る絵に、行動力と熱意溢れる弥太郎の姿が見事にマッチ。とくに序盤はジョン万次郎や坂本龍馬との出会いを描いていることもあり、新しい世界への広がりに胸躍らせる、エネルギッシュな印象を受けます。
- 著者
- 本宮 ひろ志
- 出版日
- 2004-04-16
本作では弥太郎と龍馬が知己であり、龍馬暗殺後はその遺志を継いでいく、という形で物語が進んでいきます。弥太郎は商いで道を切り拓くことになりますが、ライバルキャラクターとして三野村利左衛門が登場。三井を大財閥まで押し上げた立役者であり、大番頭という立場の人物です。後に三菱がピンチに陥るきっかけとなる共同運輸会社を立ち上げるよう裏で操作するなど、動きはかなり怪しげ。
逆に住友家より経営等の権限を委譲されていた広瀬宰平とは、苦労を分かち合う仲で、大企業の頂点に立つ者にしかわからない苦労をふたりが分かち合う、奇妙な友情のような関係が築かれます。
さまざまな人に影響され、また影響を与えていった弥太郎。確かな力と情熱を胸に秘めたその姿が、大きく揺るがないものに見えてきます。どこか薄暗いながらも埋火のような熱を持っていた幕末から明治にかけての革命が、生きる力に満ち溢れたエネルギッシュなものに感じられる、そんな作品です。
史実の中に創作を織り交ぜた作品を見ていると、史実と創作の境目を見失ってしまうことがあります。知識が無く、作品の中で初めて存在を知ったという状態ではなおのこと。
岩崎弥太郎に関しても同様で、特に龍馬と深い関係であったというのは創作であると、最初から断じているのが本書です。
- 著者
- 砂川 幸雄
- 出版日
- 2011-08-12
弥太郎の生涯を史実に基づいて紹介している本作ですが、主となっているのは起業をし、後に大財閥を築いていく明治期の弥太郎の姿です。しかし、人生はその瞬間だけでは語ることができず、生まれた時からの時間の積み重ねがあります。
弥太郎は経営者となるものの、身分は低くとも元は武士。生粋の商人ではなかった弥太郎が、いかにして大会社の長になっていったのか、歴史を紐解くことにより、一層深く弥太郎を知ることができます。
幼少期から明治の動乱辺りまでの弥太郎像を描いた作品は多いですが、弥太郎が実業家として過ごした後半期を記したものはあまり多くはありません。本作では、三菱のマークの由来となったエピソードや、庭石を集めていたというような、ちょっとしたエピソードも収録。より本来の弥太郎の姿を知ることができます。
時代の波に乗り、現代にまで続く大企業の礎を気付いた弥太郎。何かを変える力を持った人物ではありませんが、その持てる力をすべて使い、商いで自身の道を切り拓いていきました。動乱の時代を生き抜いた、武士にして商人という経歴を持つ岩崎弥太郎という実業家の本当の姿がここにあります。
岩崎弥太郎は、大企業の創始者です。現代の三菱がどういう企業であるのかは知っていますが、過去がどうであったのかまでは知ることはなかった人も多い事でしょう。大企業の社長、という人は多くはありません。動乱を駆け抜け、会社という形で足跡を残した弥太郎の人生が熱く迫る作品ばかりです。