岩倉具視の知られざる事実!日本初のがん告知!?使節団や暗殺未遂事件も紹介

更新:2017.3.15 作成:2017.3.15

明治維新の際に活躍した岩倉具視。「維新の十傑」のひとりとして知られていますが、大久保利通や西郷隆盛らに比べればその業績はあまり知られていません。明治政府設立後もさまざまな活動をおこなった彼の生涯をおさらいするとともに、暗殺未遂事件や意外と知られていない事実、「岩倉使節団」について、さらにおすすめの本まで紹介していきます。ぜひこの機会に人物像を探ってみてください。

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岩倉具視とは。明治維新の立役者で500円紙幣にもなった男

岩倉具視は、1825年に権中納言堀河康親の次男として京都で生まれました。1838年には岩倉具慶の養子となっています。貧しい暮らしをしていましたが、1853年、関白の鷹司政通へ歌道入門したことをきっかけに、朝廷内での発言力を得ていきます。

1858年、日米修好通商条約の調印に反対し、通称「廷臣八十八卿列参事件」を起こしました。朝廷と幕府を結び付けようとする公武合体を唱え、孝明天皇の妹である和宮を14代将軍家茂へと嫁がせようとします。しかし尊王攘夷運動が活発になってくると、この和宮降嫁の件で責められ、朝廷を追われることになってしまいました。そこからしばらくは、京都北部の岩倉村で暮らしています。

1864年、禁門の変から始まった尊攘派の一掃、徳川慶喜による大政奉還などにより、赦免されます。その後は薩摩の大久保利通らとともに王政復古を目指しました。

そして1868年、明治政府が誕生。岩倉は朝廷の主要メンバーとして活躍することになります。版籍奉還や廃藩置県もおこない、日本は近代国家としての道を歩み始めることになりました。

岩倉は外務卿、右大臣を兼任。1871年には外国の近代化状況の視察のために「岩倉使節団」を設立して、欧米諸国を巡りました。旅は1年10ヶ月にもおよび、彼は諸外国の文明開化の素晴らしさに驚き、感銘を受けます。

外国巡回の後は鉄道整備にも力を入れ、国の近代化を進めました。「維新の十傑」のひとりとして数えられています。

岩倉が不在の日本では「征韓論争」が巻き起こり、彼は帰国後これに反対の立場をとりますが、結局西南戦争へと続く問題へと発展していきました。

立憲問題に関しては、岩倉は伊藤博文に憲法制定を任せることにしましたが、1883年に亡くなってしまいます。大日本帝国憲法の制定を見ることはできませんでした。57歳でした。
 

およそ70年後の1951年、500円紙幣が初めて発行されました。2種類ありますが、どちらの肖像も岩倉で、1994年に支払いが停止されています。
 

岩倉具視の死因は?日本初のがん告知に日本初の国葬!

 

岩倉の死因は咽頭がんだと伝えられています。

1883年の5月、当時京都に滞在していた彼は喉の痛みを訴えました。これを聞いた明治天皇は、東京帝国大学医学部で教授をしていたドイツ人の医師・エルヴィン・フォン・ベルツに診断を命じます。

この時ベルツは岩倉が咽頭がんにかかっていることを診断し、その結果を本人に伝えています。これが日本の歴史上、記録に残っている初めてのがん告知だそうです。

その後岩倉は船で東京へ移動し、明治天皇からたびたびお見舞いを受けましたが、7月20日に亡くなっています。

葬儀は、明治維新の功績を讃えられて「国葬」扱いとなりました。その5年前に亡くなった大久保利通は「準国葬」という扱いでしたので、岩倉が明治政府になって初めての国葬対象者だったようです。

 

岩倉具視の暗殺未遂「喰違の変」

1874年、「喰違の変」(くいちがいのへん)と言われる、岩倉具視が暗殺されかける事件が起きました。

ことの発端は、朝鮮を武力で開国させようとしていた板垣退助や西郷隆盛らと、それに反対していた岩倉や勝海舟らの「征韓論争」です。

岩倉使節団が欧米諸国を歴訪中、日本の政府を守っていた板垣退助や西郷隆盛らが一斉に下野(官職を辞めること)し、これに征韓を期待していた士族らが不満をもったのです。右大臣だった岩倉はこの論争を主導していて、とりわけ恨みを買いました。

ある夜、彼が仕事を終えて帰宅する際、多数の襲撃者に襲われます。彼らは皆、板垣らと共に職を辞した者たちでした。 岩倉は怪我こそしたものの、運よく堀に落ちたため襲撃者たちから隠れることができ、一命をとりとめました。

岩倉具視はどんな性格だった?

1:自宅でギャンブル!破天荒なお公家さんだった

岩倉家は公家といってもかなり貧乏な家柄でした。そこで、自宅を賭場として開き、寺銭(開催料)を得ることで収入の足しにしていたようです。どれほどの窮状だったのか、また彼がどれほど豪快な人物だったのかが窺えるエピソードです。

2:下の立場で上を動かす!圧倒的な切れ者だった

1860年、皇妹の和宮の将軍徳川家茂への降嫁希望の書簡が、幕府から朝廷に対して出されます。この時、和宮の反対を押し切る形で天皇が降嫁を認めたのは、岩倉の『和宮御降嫁に関する上申書』が決め手でした。

岩倉家は、娘のひとりが天皇に嫁いだとはいえまだ位の低い公家でしたが、時の関白・九条尚忠らを抱き込んで、最終的には朝廷に働きかけたのです。

3:切れ者すぎて長期間の謹慎を余儀なくされた

和宮降嫁のあたりから、岩倉は尊王攘夷派からは「佐幕派」として疑われ、対立する公家からの圧力により1862年から1867年にかけて、5年半の間謹慎処分となりました。

その間何度も恩赦のタイミングがありながら、時の尊王攘夷派の強い反対により、異例の長期間の謹慎となりました。それだけ尊攘派が岩倉を敵として厄介と思い続けてきたからでしょう。ちなみに謹慎中もさまざまな書簡を書いては朝廷や薩摩藩に提言をし続けていたそうです。

4:天皇暗殺を疑われるほどの「要注意人物」だった

明治天皇の前の天皇である孝明天皇は、開国は絶対しないという攘夷思想の持ち主だったため、岩倉たちが目指した新政府樹立とは根本的な部分で思想が相容れませんでした。

結果的に孝明天皇が急死したことで明治維新が加速した側面があるので、「岩倉ならそれくらいのことはやりかねない」と世間に思われたのかもしれません。

 

岩倉使節団とは。

 

1871年12月、岩倉具視を特命全権大使とする「岩倉使節団」が、アメリカの船で横浜の港を出発しました。

彼らの主な目的は、諸外国と結んでいる不平等条約の改正、新しい明治政府のお披露目、そして近代化をはかるための欧米各国の視察の3つです。

藩閥政府の実力者を大使や副使に据え、そのほかにも国際的な知識をもつ人材をメンバーに起用。総勢107人の大所帯でした。また、平均年齢もおよそ30歳と若かったそうです。

当初は10ヶ月程度の予定でしたが、12カ国を歴訪し、その結果1年10ヶ月という長い旅になりました。

結果的に不平等条約の改正には至りませんでしたが、西洋の文化に直で触れ、近代化を目指す日本の現状を知り、また同行したメンバーはその後国の要職に就く者が多かったので、人材の育成の面で大きな成果がありました。

 

岩倉具視の意外と知らない3つの事実!加山雄三は子孫だった!

 

1:日本人で初めてチョコレートを食べた?
 

1871年に日本を発った岩倉使節団は、フランスのパリ郊外にあるチョコレート工場を見学し、そこで見聞きしたチョコレートの作り方やカカオについての情報を『特命全権大使米欧回覧実記』に記述しました。

これが日本にチョコレートを初めて紹介した文献と言われているので、これより前にチョコレートのことを知る日本人はいません。ということはつまり、岩倉たちが日本人で初めてチョコレートを食べたのではないでしょうか?

2:多種多彩な子孫の方々がいる

岩倉具視は自身が優秀だっただけでなく、その優秀な遺伝子は子孫にも受け継がれています。実業界では多数の経営者を輩出、また芸能界でも俳優の加山雄三さんが岩倉の玄孫(孫の孫)、女優の喜多嶋舞さんが来孫(ひ孫の孫)など、多種多彩な子孫の方が活躍されていらっしゃいます。

3:お屋敷が神社になった

兵庫県西宮市の西宮神社の中にある六英堂は、元々は岩倉具視の旧宅でした。岩倉はじめ三条実美、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文の六英傑がたびたび会合を重ねたため、この名がつきました。

癌を患った岩倉を明治天皇が見舞ったことから「天皇行幸の地」ということで、岩倉没後も保存されています。その後川崎重工創始者の川崎家の手に渡り、1977年に西宮神社に移設されました。

 

岩倉具視の実像を丁寧に探る

本書は丁寧に史料を研究し、岩倉の人物像を突き詰めていった作品。構想40年をかけて書かれており、単に彼の生涯を追っただけの書籍ではありません。

言葉の皮を剥きながらという副題通り、明治維新、佐幕、尊王攘夷など一つ一つの言葉をほどきながら文章が組み立てられているのです。ひとつの単語では言い表せないという思いがそこには詰まっているのでしょう。そのなかで、下級公家であった岩倉がどのように朝廷の中心へ上り詰めたのかを描きます。
 

著者
永井 路子
出版日
2011-02-10


明治維新の立役者として活躍した岩倉ですが、大久保利通や木戸孝允、西郷隆盛と比べると少し毛色が違います。他のメンバーは武力にも長けた志士が多く、岩倉のように下級公家出身というのは珍しいことです。それがなぜ中心人物となり得たのでしょうか。

本書では、岩倉が上手く関白や天皇に近づくことができたからだと言います。この時代の天皇の影響はやはり見逃せません。そこをバランスよく立ち回ったからこそ岩倉は、政界の中心へと入っていけたのでしょう。

悪者だと言われることもある岩倉ですが、著者はそれに反対意見を唱えます。自信もあり上昇志向もある人物でしたが、本当の悪党ではないのでしょう。孝明天皇毒殺説も、きちんと論じたうえで否定していきます。岩倉について、今までとは違った姿を見ることができる書籍です。

岩倉具視の偉大さを追求した本

幕末を扱う小説の中では、悪役で登場することも多い岩倉具視。策略家であったと言われ、天皇暗殺の噂まであります。しかし本書では、新たな岩倉像を打ち立てています。薩長をまとめあげ、明治維新の立役者となった岩倉の政治的手腕を高く評価した本なのです。

今まで注目していなかった人も、悪人だと思っていた人も、改めて彼について知ってみてください。

 

 

著者
佐々木 克
出版日


岩倉には5年間、朝廷を離れて隠居していた時期がありました。尊攘派に追われたことが原因ですが、その当時のことも本書では詳しく書かれています。表舞台に立っていなくても、何とか朝廷を動かし、自分の望む方向へ政治を行っていこうとしていた岩倉。決してじっと隠居しているだけではありませんでした。

明治政府が作られてからの岩倉の活躍を描いた本は少なく、使節団や明治6年の政変での働きぶりに言及してある本作品は貴重です。史実に基づき書いてありますので、岩倉の実像が分かりやすいと言えるでしょう。

謀略の宰相というイメージも本当でしょうが、別の側面から見ると、素晴らしくバランス感覚のよい、優れた政治家でもあったのです。

この混沌の時代で活躍し、病とはいえ自宅で死ねるというのも、岩倉が大器であることをうかがわせます。最も明治維新に貢献しながら、なぜか注目を浴びることの少ない岩倉にスポットを当てた、読みやすい評伝です。

岩倉使節団がもたらした日本への功績とは

岩倉使節団の功績を論じている『堂々たる日本人―知られざる岩倉使節団 この国のかたちと針路を決めた男たち』。この使節団は、岩倉具視を全権大使として大久保利通、伊藤博文、木戸孝允など国のトップであった多くのメンバーがおり、彼らは1年10ヶ月も海外を周遊しました。

使節団は意味がなかった、日本はトップがいなくても問題なかったと言われることもありました。しかし今の日本があるのも実はこの視察のおかげかもしれません。本書では外国での使節団の様子や評価、その後の日本に与えた影響をまとめます。

 

著者
泉 三郎
出版日


前半は使節団の旅行記のように楽しく読むことができます。礼節をわきまえた様子、諸外国とは一風変わった出で立ちで堂々としている様子などから、日本人の評判は高かったようです。そして岩倉をはじめとしたメンバーは、文明や社会制度だけならず庶民の生活の隅々まで観察し学んでいきます。

予定よりもかなり長引いたゆったりとした旅だったのですが、これを経験したかどうかが国に対する考え方に大きく寄与しました。大久保利通と西郷隆盛との意見が別れてしまうのも、この使節団への参加の有無が大きく関係します。国を豊かにするためにはどうすればよいのかということを、頭で考えるのではなく、体で体験していたのです。

帰国後、岩倉や大久保利通は産業を発展させたり、鉄道を整備したりと国力の上昇をはかります。また、大久保の暗殺、岩倉の病死の後は、後を引き継いだ伊藤博文が大日本国憲法を制定しました。これらは外国を見たからこそできたものです。本書を読めば使節団の意義がよく分かることでしょう。

三大政治家といわれる岩倉具視の功績を読む

『明治維新三大政治家―大久保・岩倉・伊藤論』はもともと明治45年にまとめられた書籍です。著者の池辺三山は、東京朝日新聞の主筆で、ジャーナリストの先駆けとも言うべき人物。夏目漱石や二葉亭四迷を朝日新聞社へ入社させたことでも有名です。本作品の序文も夏目漱石が書いたものとなっています。

そんな昔に書かれたならば読みにくいだろうと思われそうですが、そんなことはありません。堅苦しくなく口語体で書いてあるので、面白く読み進められることでしょう。タイトルの通りの3名の人物論に加えて、簡単にですが23人の話も付属しています。

 

著者
池辺 三山
出版日


岩倉具視に対する著者の評価は高く、策謀家と言われることも政治家として優秀だからだと言っています。奸雄、奸者という岩倉を表す言葉も、賛辞なのです。岩倉が明治天皇に言った何事も伊藤博文に相談するようにという言葉によって、後の元老制度ができあがったということも指摘しています。

「帝国は大きくなったが、人物は小さくなった」(『明治維新三大政治家』より引用)

大久保利通の章に書かれているこの言葉は、今の日本においても心に刺さる言葉ではないでしょうか。偉大な政治家によって作られた明治。その代表格である岩倉、大久保、伊藤の功績、人となりがよく分かる書籍です。目の前に明治が広がってくるような談義で、薩長、勤王、佐幕に関しても通説にとらわれない新鮮な論述がなされているといえるでしょう。

岩倉具視は多くの本に登場しますが、彼を主人公にした話というのはあまりありません。ぜひご紹介した本を参考に、幕末から明治初頭に活躍した岩倉について知ってくださいね。