村上春樹の新作『騎士団長殺し』の主人公は肖像画家ですが、今回は美術と小説の関係について考えられるようなものを選びました。だんだん脇道をそれていくような感じもしなくもないですが、それもまた読書の楽しみというやつです。。。
- 著者
- ドン デリーロ
- 出版日
現代アメリカを代表する作家と言われるドン・デリーロですが、彼の著作にはときどき現代美術の作品が登場します。ゲルハルト・リヒターの絵画を大胆に解釈した短編もあれば(「バーダー=マインホフ」)、主人公が数多くの現代美術の作品を購入するコレクターである場合もあります(「コズモポリス」)。資本、グローバリゼーション、現代の崇高についての熟考を重ねるデリーロにとっては、現代美術は不可欠な存在なのでしょう。本作『墜ちてゆく男』は9/11直後のアメリカを描いた傑作ですが、そこでも象徴的に描かれる現代美術の作品があります。ジョルジョ・モランディの卓上静物画です。
本作は「ビル・ロートン」「アーンスト・ヘキンジャー」「デイヴィッド・ジャニャック」という3人の名前が章のタイトルとなっていて(彼らが誰なのかがとても重要です)、さらに9/11のテロリスト側の視点も差し込まれます。モランディの静物画は、第二章のタイトルにもなっている「アーンスト・ヘキンジャー」なる人物が恋人にプレゼントしたものです。小説では、瓶や水差しや箱といったオブジェをやや抽象的に描きとった静謐な静物画は、9/11を経験した恋人にとっては、もはや「ツイン・タワー」にしか見えなくなる、というシーンが非常に効果的に描かれています。
- 著者
- ポール オースター
- 出版日
- 2002-11-28
ポール・オースターもまたアメリカを語る上でなくてはならない小説家です。ニューヨーク三部作と言われる1980年代の秀作も素晴らしいですが(『幽霊たち』はとりわけ好みです)、現代美術との関わりで言えば1992年に発表した『リヴァイアサン』です。本作は、アメリカ中の自由の女神像のレプリカを破壊して回るテロリストが爆死するところから始まります。彼の態度がすでにコンセプチュアルと言えなくもないですが、この小説には実際にマリアというコンセプチュアル・アーティストが登場してます。マリアは道端で見つけた人を尾行して撮影する、という作品を作り続けていますが、これはソフィ・カルという実在する現代美術家の作品(「尾行」)が元になっています。元になっている、というよりもそのままです。
「作家は、虚構に現実を混ぜ込むことを許してくれたソフィ・カルに深く感謝している。」
と小説にも謝辞が出てきますが、面白いことに、ソフィ・カルはさらにオースターの『リヴァイアサン』に着想を得て、マリアと自分を重ねるような作品を発表します(「ダブル・ゲーム」)。そこでのソフィの謝辞は次のようなものでした。
「作家は、現実に虚構を混ぜ込むことを許してくれたポール・オースターに深く感謝している。」
- 著者
- フォークナー
- 出版日
- 2011-10-15
フォークナーはノーベル文学賞も受賞している押しも押されぬ大作家ですが(彼もアメリカ人です)、彼の小説はびっくりするくらい読みづらいものです。オススメしておいてなんですが、オススメしづらいです。なぜかと言えば一行あたりが超絶長い独特の文章にあります。あるいはまた、誰かの会話中唐突に( )が登場して、別の人物の心中が語られ始めます。これがまた超絶長くて、岩波文庫版ではわざわざ「この )は××ページの(を閉じている」と注釈が入るほどです。これは「意識の流れ」という20世紀の小説において試みられた手法で、小説内の時間を静的なものとせず、複数の視点が絡まりあいながら(同時進行しながら)絶えず変化し続けるものとしてそのまま記述することを目指したものです。
『アブサロム、アブサロム!』は奇跡的なほどにそれが成功している小説で、一旦慣れれば(人は慣れるものなのです)常に海の中で小説を読んでいる気分になります(ずっと動いている感じ、です)。
今でも、映画やゲーム、ライブ、絵画、彫刻など様々な表現手段がありますが、『アブサロム、アブサロム!』が執筆された1936年当時も、小説には小説でしか描写しえない表現が目指されていました。そしておそらくその最大のライバルは映画であったように思います。視点の切り替え、内的独白、複数同時進行、俯瞰、BGMといった映画ならではの技術を、どうにか小説にも移植し、そしてそれを超えることができないか、という試行錯誤。
余談ですが、2016-2017年に行なった展覧会「クロニクル、クロニクル!」は、タイトルからも分かる通りこの『アブサロム、アブサロム!』に多大な影響を受けています。
http://www.chronicle-chronicle.jp/
- 著者
- イタロ・カルヴィーノ
- 出版日
- 2016-10-06
複雑化する小説、というと本当にたくさんの本が挙げられるのですが、今回はイタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』を紹介させてください(ちょうど最近新装版が出ました)。この本を初めて読んだとき、本当になんなんだ...とびっくりしたものです。なぜなら書き出しが、
「あなたはイタロ・カルヴィーノの新しい小説『冬の夜ひとりの旅人が』を読み始めようとしている。」
で始まるからです。小説内の記述と自分が今まさに行なっている行為が一致している、というのは大変不思議な気分になるものです。しかも、この小説は30ページほど読み進めると製本のミスが発覚します。怒った「あなた」は買った本屋に交換に向かいますが、そこでなんとこの本自体が『冬の夜ひとりの旅人が』ではないことが判明します。ならもう逆に『冬の夜ひとりの旅人が』よりもこの本(『マルボルクの村の外へ』というそうです)の続きが読みたい、と「あなた」は読み始めますが、またしても、『マルボルクの村の外へ』は途中から白紙になっていまいた。
「夢中になりかけたところで読書が中断されるはめになるんです。その続きを読みたくてたまらないのですが、その読み始めた本の続きだと思って開けてみると、それがまた全然別の本なんです。」
と「あなた」は嘆き、本はいつまで経っても読み進めることができない、かなり不思議な小説です。これはかなり暴論でもあるのですが、こうした「小説のメタ化、複雑化」を、今度は様々な作家が取り入れ、映像作品に反映させていったようにも、僕は思うのです。映画(映像)と小説はそれぞれ独自に進歩してきたというよりも、互いに影響を与えあいながら向上しあっている、良きライバル関係であるのだと思います。
- 著者
- 宮沢 章夫
- 出版日
- 2014-12-08
さて「読み進められない小説」に続いては、時間のかかる読書です。時間のかかる、と聞いてどれくらいの時間を思い浮かべるでしょうか。1ヶ月。半年。1年。あるいは読み通せぬまま本棚にしまったままにされた本もあるかもしれません。宮沢章夫は、横光利一の『機械』という短い小説を、なんと11年かけてちびちびと読み進めていきました。この本はそのおそるべき停滞と蛇行の記録です。毎回毎回、一行一行に、一語一語にこれでもかというくらいにこだわり、考え、疑い、そして横道へとそれていきます。読み進める、という表現はふさわしくありません。その都度その都度全部確かめていくという感じです。消費への抵抗だとか、「メタ文学」の脱構築、といった紋切り型も意味をなしません。ある種の狂気がそこには宿っています。
横光利一の『機械』は青空文庫で読めるので、ぜひ皆さんも読んでみてください。自分の『機械』読書体験が加わることで、尚一層、『時間のかかる読書』は楽しめるはずです。(もっとも、『時間のかかる読書』にも『機械』は収録されていますが)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000168/files/907_54297.html
- 著者
- 新田 次郎
- 出版日
- 2011-06-15
最後の一冊ですが、唐突に思われるかもしれません。ともあれ、新田次郎の『聖職の碑』を直接知るきっかけとなった論文があり、先にそちらを紹介させてください。
吉田貴富「美術教育史の教材としての小説『聖職の碑』の可能性」
http://ci.nii.ac.jp/els/110010042579.pdf?id=ART0010610101&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1489461995&cp=
『聖職の碑』は大正時代に起きた「木曽駒ヶ岳大量遭難事故」をテーマとした、いわば一種の山岳小説です。しかし同論文にもある通り、その原因となったのは明治以来の「実践主義教育」と「白樺派的理想主義教育」の対立でした。事故が起きた1913年とは、いわゆる「自由画教育」の普及前夜という長野県の教育事情のまさに過渡期でした。
「『白樺』は文学誌ではありますが、芸術総合誌と云った感じのものでもあります。教育については一言片句も触れてはいません。だが、われわれはその中から新しい教育法を見つけ出そうとしているのです。(...)それが長野県の若い教師たちの願いでもあるのです。」という台詞からもうかがえるように、「臨画」(絵を手本にしてその通りに絵を描くこと)をやめ、自由な表現を認める写生画への移行が期待されていたのです。この「自由な表現の肯定」と「臨画から写生画へ」という指標は無指導放任主義を生み出し、結果としてそれが遭難事故へと繋がっていきます。
私たちは事件から100年以上が経った今もなお、「図工」や「美術」の教育について考える際、「自由の肯定」と「技術の指導」の「矛盾」に突き当たります。実際これは矛盾ではないのですが、ある種のバランスの欠落が行き着く悲劇の一端をこの小説は優れて示してくれているのです。