島津義弘は戦国時代の薩摩の英雄です。勇猛果敢に戦ったことで「鬼島津」の異名も持っていますが、兄弟、家族への愛情も深かった義弘。島津家を存続させるという後世に残る活躍をした彼についてのおすすめ本を5冊集めましたので、ぜひ読んでみてください。
島津義弘は薩摩国の武将であり、第16代当主義久の弟です。義久のことを常に助け、盛り立てました。その後17代当主になったと言われていますが、はっきりと分かっているわけではありません。
武力に優れ、戦国最強の「鬼島津」として恐れられていた一方で、家臣や家族への愛情は深く、多くの人に慕われた人物だったようです。さらに学業や茶の湯などにも秀でており、まさに文武両道の英雄でした。
義弘は1535年、島津貴久の次男として誕生します。1554年に岩剣城における戦いで初陣、1557年には初めて敵の首級をあげました。その後も木崎原の戦いや耳川の戦いなどで勇猛ぶりを発揮し、島津家の九州制圧に大きく貢献しています。1587年、豊臣秀吉の九州平定軍と戦って敗北したものの、秀吉からは大隅国を所領安堵されました。
それ以降は豊臣政権のもと、1592年からの文禄の役、慶長の役にも参戦し、朝鮮へ渡っています。そこでも多くの武功をあげ、朝鮮側からは「鬼石曼子(グイシーマンズ)」として恐れられました。
1600年に起きた関ヶ原の戦いで、義弘は当初徳川家康率いる東軍の援軍要請に応えて伏見城へ行きましたが、入城を拒否されたため、逆に西軍に付いて戦っています。
この時、島津家内部では反豊臣の義久と中立的な義弘との間で不和が起きており、軍を動かせる状態ではありませんでした。およそ1000人の軍勢しか用意することができず、さらに少数だったため、西軍の石田三成らからも軽視されていたようです。
その結果、義弘は関ヶ原の戦いが始まってからも軍を動かすことはしませんでした。しかい小早川秀秋が寝返って西軍が総崩れになったことで、退路を断たれてしまいます。
結局彼は、敵陣の中央を突破しながらの退却に成功。この様子は「島津の退き口」として語り継がれています。
家康は東軍勝利の後に島津家を征伐しようとしましたが、できずに本領安堵を決定。島津家の戦力が大きかったことが原因のようです。
1619年、義弘は無事息子に家督を譲り、84歳で永眠。殉死禁止令が出ていたにもかかわらず、13人もの家臣が殉死したといわれています。
1:朝鮮へ出陣するも「日本一の遅陣」と言われた
1592年、朝鮮出兵の命が下り、義弘の軍も朝鮮へと向かいます。
しかし、出発する船が一艘もないという事態が起き、「日本一の遅陣」をしてしまいます。原因は、出兵の準備をすると決めておきながら本宗家が支援をまったくしていないからでした。
彼は「御家のため命を懸けているのに、支援がしないのは御家を傾ける所業だ」と嘆いたそうです。
2:親族のたび重なる死に嘆いた
1593年、義弘の次男であり、ともに朝鮮にも赴いた久保(ひさやす)が21歳の若さで没します。これにはあの秀吉も「小さい頃から知っている分、一層不憫に思う」と悔やんだそうです。
また4日後には、娘の夫、朝久(ともひさ)も朝鮮の地で没しています。義弘は連続して精神的打撃を受け、声をあげて激しく泣いたといわれています。
3:時を読むため戦場に猫を連れていった
義弘は正確な時刻を知るために、戦場に猫を連れていったといわれています。
一般的に猫の瞳は明所にいる時は縦に細くなり、逆に暗所では丸い形になります。この特性を利用して彼は時刻を読み、朝鮮出兵の際には7匹のうち2匹が生還しました。
1:戦いの秘訣、兄とは別の内容を教わっていた
島津義弘の祖父である忠良は、戦いの秘訣を少年時代の義久と義弘に伝授しました。
義久は「大将は腹据えて動じないことが勝利の得る基本」と教わりましたが、義弘は「たとえ負けても、後の締め括りが重要」と、兄とは別の内容を教わります。
忠良によるこの教育方針の分け方が、兄弟それぞれの人格形成につながったとされています。
2:妻へ悲痛な手紙を送っていた
1594年、家族思いな彼は妻にあてて、「私は御家や子供のために頑張って来れたが、私が死んだら子供はどうなってしまうのか」という悲痛な内容の手紙を送っています。
島津家の存続には義弘自身が七難八苦を背負って奮闘せねばならないことは自明でした。しかし、露見している家臣団の統率の脆弱性に、彼は不安を感じざるを得なかったのです。
3:島津を救うは検地
義弘は、島津家が窮状から脱却するには、検地の実施以外ないと固く決意していました。
しかし検地は、ある大名がクーデターを起こされ改易されたこともあったほど、危険をはらんでいるものです。義弘は検地をすれば反乱の可能性、しなければ滅亡という、賭けにも似た葛藤にさいなまれました。
そして、石田三成の力を借りて検地をおこなうという、危険な路線を選択するのでした。
4:心労を抱えたまま帰国する、苦労人
検地がおこなわれると、島津領の庶民から、家臣が納得しないという声があがってくる状況になりました。
義弘はこの時朝鮮にいましたが、三成の家老は、すぐに帰国して義弘自身で家臣団のわがままを抑えるべきだと指摘します。きわめつけ、「貴方の覚悟ひとつで御国を存続できるかが決まる」と念を押されてしまいました。
実質的に存続のキーパーソンである義弘は、心労を負ったまま混乱の渦中に帰国するのでした。
5:兵士の声でたちまち元気に
義弘は晩年、食事はおろか、ひとりで立って歩くこともままならない体になっていました。
ある日家臣が飯時に「殿、戦でございます」と言い、城外からは兵士たちの声が聞こえます。すると義弘は目を大きく見開き、通常以上の考えられない量のご飯を食べたそうです。
戦国最強とも言われた島津家。しかし、関ヶ原の戦いでは敵中逃亡を余儀なくされました。いったいなぜだったのでしょうか。
本書では、国の重要文化財である「島津家文書」をもとに、義弘を中心とした島津家の戦国時代を描きます。小説の形ではありませんが、壮大な物語として読み取れるノンフィクションです。
- 著者
- 山本 博文
- 出版日
島津家は当主の義久と、猛将・義弘との間に、埋められない溝がありました。島津4兄弟の確執、義弘の葛藤が膨大な資料から浮かび上がってきます。
武力では負け知らずの義弘でしたが、秀吉の命令になかなか従わない義久には、手を焼いていたのです。そんな義弘の姿からは、強いだけではない人情味あふれる性格が見えてくることでしょう。
秀吉と義久との間で板挟み状態になり、苦悩する義弘。そして、関ヶ原の戦いへと舞台は移り、義弘の名を天下に知らしめた島津の退き口がおこなわれるのです。
本書では、なぜ彼がそんな行動をとったのかということが、信頼できる資料を紐解いて説明されていて、説得力があります。
慶長の役での戦いや敵中逃亡に関する記述は、合戦の様子が目の前でくり広げられているようです。戦好きで戦うばかりだと思われがちですが、それだけではない義弘について、多くのことを知ることができる一冊です。
本書は島津義弘伝の上巻として刊行されており、義弘を主人公にして豊臣政権下での朝鮮出兵を描いています。仲が良く、協力して薩摩を守り、領土を広げてきた島津4兄弟。しかし、秀吉が九州に進出してきたことでその兄弟仲もこじれていくことになるのです。
島津家はあまりにも強かったために秀吉の目に留まり、その勢いを削ぎたいと思われてしまうのです。義弘を中心とした4兄弟の苦悩と別れに、悲しみが募ります。下巻は関ヶ原の戦いをメインに書かれているので、ぜひ続きもご覧ください。
- 著者
- 天野純希
- 出版日
- 2016-07-29
本書では朝鮮での戦いの様子が鮮明に描かれています。末弟の家久が亡くなり、秀吉への恨みを抱いている義弘は、朝鮮でどのような戦をくり広げるのでしょうか。義弘の勇猛さは素晴らしく、朝鮮での「釣り野伏せ」という戦法も読みごたえたっぷりです。しかし、鬼島津と恐れられるほどの戦いぶりのなかにも、苦悩と悲しみが読み取れます。
戦の描写は残酷で、大義も見いだせず、朝鮮出兵の無意味さを際立たせることでしょう。兄、義久の行動も興味深く、どのような展開が待っているのかドキドキしながら読み進めてしまいます。
秀吉に翻弄され、いつしか心が離れてしまう義弘と義久。読んでいて心が痛みますが、それも本書の心理描写が上手いからこそです。ぜひどっぷりとはまって読んでください。
本書の前には『破天の剣』という、島津家4男家久を主人公とした話が出版されています。こちらを読むと、秀吉が攻めてくるまでの島津家の様子が分かりますので、より楽しめることでしょう。
本書は、島津義弘について漫画で分かりやすく語られた本です。島津4兄弟がしっかりと協力しあっていたことや、弟2人が亡くなり義弘も朝鮮出兵に参戦したことで、義弘と義久との間に不和が生まれていったことなど、島津家の問題も含めて彼がどのような人物だったのかを描きます。
- 著者
- ["すぎた とおる", "藤科 遥市"]
- 出版日
- 2013-09-25
漫画なのでインパクトがあり、身に入りやすいと言えるでしょう。歴史家が考証していて、内容も史実に基づいたものとなっています。勇猛果敢な義弘の強さは、朝鮮出兵や関ヶ原をはじめ多くの場面で発揮されており、その魅力に惹きつけられること間違いありません。
このシリーズは、人物を知ることで歴史を学ぼうという意図があります。義弘について見ていくと、島津家が薩摩にある理由や九州全土の戦国時代について、おおよそのことが分かることでしょう。島津は九州統一を目前としていたので、九州全体の動きが掴みやすいのです。
小学生でも分かる内容の本書。歴史好きになる第1歩として、子どもと一緒に読むこともおすすめです。
祖父、父から才能を引き継ぎ、兄の義久を盛り立てながら島津家のために戦い続けた義弘は、武力だけではなく、性格も皆に慕われるような立派な人物でした。
その波乱万丈の人生が1冊にまとまっているので、内容はかなり充実しています。読みはじめたら最後、ページを捲る手が止まりません。
- 著者
- 徳永 真一郎
- 出版日
- 2010-09-10
島津家を代表して戦に率先して出陣し、大きな成果を上げ続けた義弘。兄弟との絆を大切にし、九州統一を目指そうとする姿は、秀吉も家康も恐れる偉大な人物となることを想像させます。しかし最強軍団と呼ばれるほどの強さを持ったばかりに、秀吉に目をつけられてしまうのです。
兄弟との確執や秀吉との関係などもコンパクトにまとめられているので、初めて義弘に触れる人におすすめの本です。九州情勢についてももちろん詳しくなれること間違いありません。
本書は、島津義久、義弘、歳久、家久の島津4兄弟を主役とした漫画で、全2巻となっています。1巻は義弘が15歳だった岩剣城の戦いからはじまり、沖田畷の戦いまで。2巻では戸次川の戦いから関ヶ原の退き口が描かれます。
政治力に優れていた義久、勇猛果敢な義弘、知的な歳久、愛らしくも強い家久というように、4人の特徴が明確に示されているのでとても読みやすいことでしょう。歴史にあまり馴染みのない子どもや女性にもおすすめです。
- 著者
- 岡村 賢二
- 出版日
- 2014-03-27
最初の読みどころは、4兄弟がいかに絆を深めていくかというところ。もちろん合戦シーンも格好よく読み応えがあるのですが、お互いを思いやり、お互いから学びながら成長していく彼らに惹きつけられます。
1巻で、義弘は50歳近くまで時間が進みますので、自分が島津家を守っていくというところにまで行きつく彼の成長ぶりを頼もしく感じることでしょう。
2巻の途中から島津家の苦難が始まり、兄弟にも死が訪れます。しかし本書で描かれる死は家族を守るという信念のなかにあり、4兄弟の絆は失われていないことを実感できるはずです。
最終話での関ヶ原の退き口では、敵中逃亡後に近畿から薩摩まで逃げ落ちる様子が鮮明に書かれており、これが本書の真骨頂ともいえるでしょう。落ち武者狩りなどと戦いながら、千数百キロも落ち延びるのです。どうにか多くの人を薩摩へ連れて帰りたいという義弘の思いに胸が熱くなります。
4兄弟の祖父である忠良が作ったいろは歌も随所に散りばめられています。これは義弘も大きな影響を受けた歌で、現代でもためになる言葉が多く登場します。ぜひじっくりと楽しんでください。
島津義弘と、4兄弟の凄さが分かる本を集めましたが、いかがでしょうか。九州の雄、島津について知識を深めてもらえると嬉しいです。