大村益次郎を知る3冊。軍事の天才と言われた男

更新:2021.12.17

幕末に生まれ、維新の十傑にも数えられる大村益次郎。大河ドラマの主人公にもなっていますが、何をした人なのか知らない、という方も多いのではないでしょうか。天才と謳われ、冷血と恐れられる彼を知ることができる3冊をご紹介いたします。

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大村益次郎とは:医者、西洋学者として

 

大村益次郎(おおむらますじろう)は1824年5月30日、周防国の吉敷郡、鋳銭司(すぜんじ)村(現在の山口県山口市鋳銭司)の村医者、村田家の長男として誕生しました。家業を継いで医師となるべく、1842年よりシーボルトの弟子だった梅田幽斎の下で蘭学、医学を学び始めます。

1843年に儒学者の広瀬淡窓の私塾で漢籍や算術を学び、1846年には大阪に出て緒方洪庵の適塾に学びました。いずれも成績優秀で、適塾では塾頭になります。

1850年に帰郷し、村田良庵と名乗り、村医として活躍します。しかし、1853年、ペリーが黒船で来航して以来、蘭学の需要が急増。大村益次郎も伊予宇和島藩の要請で出仕し、西洋の兵学や蘭学の講義、翻訳を請け負います。

1854年には長崎に赴き、軍艦製造に着手。村田良庵から村田蔵六に改名し、1856年には伊達宗城の参勤交代に随伴し、江戸に向かいます。

江戸で蘭学、医学、兵学を教える鳩居堂という私塾を開業すると同時に、幕府の要所を翻訳する藩書調所に勤め始めた益次郎は、その能力を高く評価されました。1858年に長州藩の上屋敷で開催された蘭書読書会に参加した際、桂小五郎(のちの木戸孝允)と知り合ったことで1860年長州藩士に。1863年萩へ帰ると、軍事関係の仕事に邁進していきます。

一方で語学力を期待され、下関事件後の外国人への対応を任されるなど、多忙を極めました。

 

大村益次郎とは:「維新の十傑」として

第一次長州征伐を乗り越え、倒幕へと完全に傾いた長州藩。1866年、益次郎は第二次長州征伐の号令がかけられた長州藩の、軍の責任者となる立場となります。

すでに奇兵隊といった身分を問わない軍隊を持っていた長州藩ですが、益次郎は藩統制下での市民軍の必要性を説き、編成。改革を行うとともに戦術を叩き込みます。近代武器と無駄な攻撃を避けた合理的な戦術は、幕府軍をことごとく撃破し、勝利を重ねました。

益次郎は時期尚早だと異議を唱えていましたが、世は出兵論に傾き、1868年に鳥羽・伏見の戦いが発生。左遷され、出兵に関する実務を任せられていた益次郎も、軍とともに動きます。旧幕臣が彰義隊と名乗り、上野寛永寺に立てこもって戦いましたが、益次郎はわずか1日でこれを制圧。その後事実上新政府の軍総司令官として指揮を執り続けました。

1869年函館五稜郭で榎本武揚ら旧幕府残党軍は降伏。戊辰戦争は終わり、明治時代が始まります。

戊辰戦争での功績が認められ、新政府の幹部となり、軍務官副知事に就任。軍事制度の改革を担っていきます。藩兵に依存しない形を構想する益次郎と、藩兵を主体とした軍隊編成を目指す大久保利通との間で論争が巻き起こり、益次郎は辞表を提出。軍の行政機関である兵部省の次官に就任することになりました。

兵部省で着実に自身の抗争を建設していった益次郎でしたが、1869年京都三条の旅館で襲撃され、重傷を負います。治療を受けていましたが、敗血症により1869年12月7日に死去。46歳でした。

襲撃の理由は急進的な改革に対する反感のため、と言われていますが、海江田信義との遺恨など、さまざまな憶測をよんでいます。遺骸は故郷の鋳銭司と靖国神社に合祀されました。

医者でありながら天才的な軍事の才能を発揮した益次郎ですが、稀に見るクールな性格で、反感を買うことも多かったようです。反面、あまり家には帰れなかったせいか妻の琴子には頭が上がらず、琴子のヒステリーに悩まされた、というエピソードも残っています。

日本史における重要人物、「天才」と言われた大村益次郎の意外な事実5つ

1:嫌いなものが3つあった

益次郎が嫌いだと公言していたものが、写真と船と洋服です。彼はその風貌から「火吹き達磨」というあだ名をつけられていて、決して写真を撮りませんでした。そのため益次郎の写真は残されていません。

2:銅像は本人の顔ではない

益次郎の死後、靖国神社には彼の功績を讃える銅像が建てられました。これは日本初の西洋式の銅像です。

しかし、実はこの銅像、益次郎本人の肖像ではありません。彼の写真が残っていなかったため、彫刻家の大熊氏広が制作する際に、彼の妹の顔を参考にして作ったものでした。

3:豆腐が大好物だった

益次郎の豆腐好きは有名で、蕃書調所時代の小遣い帳には豆腐の文字が並んでいたそうです。

好きが高じたのか「豆腐を愚弄するものはついに国家を滅ぼす」という言葉を残すほどでした。

4:暗殺で命を狙われたが、死因は敗血症だった

敗血症は、細菌やウイルスが血液中に入って全身に回ってしまい、臓器不全などの症状をともなう病気のことです。

益次郎は1869年、国民皆兵反対派の刺客に襲われて右脚を負傷し、その傷口から敗血症にかかってしまいました。手術で脚を切断しましたが、その時はもはや手遅れで、手術の翌日に亡くなりました。

5:遺言で、自分の足を師の墓の傍に埋めさせた

彼は死の間際、「切断した私の足を緒方洪庵先生の墓の傍に埋めておけ」という遺言を残しました。そのとおり切断した片方の足は、彼が20代のころから慕っていた洪庵の墓の傍に埋葬されています。

大村益次郎の名言は?辞世の句を紹介!

大村益次郎の辞世の句は、

「君がため捨つる命は惜しからで ただ思わるる国の行末」

というもので、「君のためにならこの命惜しくはないが、ただ後に残すこの国の行く末だけが心配だ」という意味です。

ところがこの句、元々は「君がため身を捨つる命は惜しからで ただ思はるる行末」という、益次郎と同じ長州藩で彼より7年ほど前に亡くなった長井雅楽が遺した句なのです。

益次郎は暗殺を企んだ刺客に襲われたことをきっかけに亡くなったので、辞世の句を遺しておらず、彼の手帳にメモされていた長井の句が辞世の句として使われました。

地味と侮ることなかれ!大村益次郎の魅力が溢れる司馬遼太郎の傑作

西郷隆盛や木戸孝允に交じり、維新の十傑に数えられる大村益次郎。幕末好きにはお馴染みの人物ですが、広く知られているわけではありません。日本近代兵制の創始者と呼ばれる彼の生涯を題材とした作品に、『花神』があります。作者は司馬遼太郎。数多くの歴史小説を世に送り出し、司馬史観と呼ばれる独自の歴史観で人気を集めた作家です。

 

著者
司馬 遼太郎
出版日
1976-09-01


物語は大村益次郎の人生とともに、激動の幕末期を追っていく形になります。志士が主人公であれば刀での斬り合いといった場面も登場するのでしょうが、益次郎はあくまでも技術、学問畑の人。歴史の家中に入るものの、技術者から見た明治維新という、新しい視点で改めて歴史の転機を見ることができます。

とにかく無愛想で、不器用な性格の益次郎ですが、司馬の筆により、どこかとぼけたような魅力が引き出されています。長崎時代に知り合い、益次郎が医学の手ほどきをしたシーボルトの娘、楠本イネとのほのかなラブロマンスも展開され、小さな花を眺めているような、ほっこりと温かい気分にさせてくれます。

作中では、天才であるが故か空気は読まず、率直な物言いをしたため、反感を買いがちだったというエピソードも多く登場します。しかし、誰かに媚を売るでもなく、自身の役割と考えを真っすぐに通していく姿には、自然と背筋が伸び、力をもらうことができるでしょう。己の知識と技術で出世していったサクセスストーリーとしても楽しめる本作、司馬遼太郎の描く益次郎に、地味という印象を覆されますよ。

勤勉すぎ!時代に求められた生涯!

出世をする人というのは、人付き合いが得意で、社交的な人物というイメージがあります。人と接することを苦手にしていたが故に、後の世で不世出と再評価される歴史上の人物もいます。そんな中、故郷でも変人だといわれ、馴染めなかったといわれる大村益次郎が、村医という身分から、一国の軍事を担うまでになったのは、大出世といえるでしょう。

 

著者
稲葉 稔
出版日


本作は、大村益次郎の生涯を描いた物語です。作者は稲葉稔。「研ぎ師人情始末」シリーズや、「不知火隼人風塵抄」シリーズなど、数多くの時代小説を執筆しています。

益次郎を主人公に据えた作品は多くはありませんが、夏に「暑いですね」と言われて「夏は暑いものです」と返す、無愛想さはどの作品でも共通です。本作では、彼がとにかく勉学に励んでいる様子を描写。出世の原動力であり、益次郎の武器でもあった知識を得る姿は、益次郎がいかに勤勉だったかを表すのと同時に、隠された野心を浮かび上がらせます。

不器用な性格ではあるものの、時代が求める知識を持っていたが故に、必要とされた益次郎。言動にハラハラさせられる場面はありますが、益次郎の波乱に満ちた生涯を追い、その実直さを知る一助となる作品です。

大村益次郎の作った軍制は歴史にどう影響を及ぼしたのか?

大村益次郎は村医として蘭学、医学を学んでいましたが、同時に兵術や戦術など教える講師をしていました。任されていたのも軍事に関する事が多く、戊辰戦争時は彰義隊が立てこもっていた上野寛永寺をわずか1日で攻略。「その才知、鬼の如し」と言われるほどの戦上手としても知られています。

 

著者
絲屋 寿雄
出版日


維新が成ってからも軍務に携わっており、襲撃によって落命するまで辣腕を振るった益次郎は、幕末での功績よりも、近代兵制や陸軍の創始者としての側面に注目が集まるようです。絲屋寿雄『大村益次郎―幕末維新の兵制改革』は、益次郎が基礎を作った兵制と、その後日本が歩む軍事の歴史の振り返りがなされています。作者の絲屋寿雄は、映画プロデューサー、思想史家という、異色経歴の持ち主です。

益次郎が当初構想を描いていたのは、藩の廃止や徴兵令の実施に加え、兵学校を設立して職業軍人を育てる、というものでした。当時は受け入れられないと、大久保利通と論争を巻き起こしましたが、大村の死後すべてが形になっていることを考えれば、やはり軍制の祖という言葉は間違っていないのでしょう。軍の目的が、あくまでも国防にあった事を考えると、その後日本と世界が歩んだ戦争の歴史を、益次郎がどう考えたのだろうか、と思いを巡らせてしまいます。

発行時期が1971年であるため、若干偏った意見も見られますが、益次郎が作った軍制が、その後どんな影響を与えていったかを知るきっかけとなる本作。時代の流れを感じさせる作品でもあります。

経歴を見ると地味にすごい、というのが大村益次郎を表すのにぴったりとハマる言葉です。あまり目立ちはしませんが、しっかりと地に足をつけて時代を歩んだ人物、その生涯に触れられるおすすめの作品をご紹介しました。

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