長宗我部元親を知る5冊の本。戦国ブームで人気急上昇中!

更新:2021.12.17

戦国ブームにより、各地の戦国武将が人気を集めていますが、四国を治めた長宗我部元親もその中のひとり。姫若子と呼ばれた過去も持つ長宗我部元親が、どのような人物で、どんな生涯を歩んだのかを知ることができるおすすめの本を5冊ご紹介いたします。

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長宗我部元親の人生を知ろう

長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、1539年、現在の高知県南国市にある岡豊城(おこうじょう)で生まれました。土佐の国を治め、長宗我部氏復興に尽力、野の虎と評された長宗我部国親(くにちか)の長男でしたが、長身だったものの色白でぼんやりとした性格だったため、「姫若子(ひめわこ)」と揶揄されることも。父の国親は跡継ぎにするべきか否か、大いに悩んだといいます。

1560年に弟、親貞とともに長浜の戦いで初陣し、槍を振るって勇猛さを見せました。直後、国親が急死、家督を継いで長宗我部家の長となります。この頃の土佐は、一条家、津野家、大平家といった多くの武将が争っており、元親は父が考案した元は農民や地侍の出だった人たちを兵士とする「一領具足」を動員して戦力を増強、勢力を拡大していきます。

戦の傍ら、弟に吉良氏や香宗我部氏を継がせることで、勢力を併合。1575年、土佐一条氏を四万十川の戦いで撃破し、土佐を統一。織田信長の正室、濃姫と縁戚関係にあったことから同盟を結び、伊予、阿波、讃岐へと侵攻を開始します。織田信長の侵攻から逃れた三好家の生き残りや、弟親貞の早逝もあってか、最初は思うように進みませんでしたが、阿波、讃岐を掌握。伊予の守護、河野氏は毛利家に援助を求めたため、戦が長期化していきます。

そんな中、四国平定をよしとしなかった織田信長は、臣従するよう命じますが、元親は拒否。信長と敵対関係になり、三好康長や十河存保ら信長の助力を得た勢力が盛り返します。三好氏の旧臣の寝返りや、神戸信孝を総大将とした四国攻撃軍が侵攻してくるとの噂もあり、窮地に立たされます。しかし1582年6月21日、京都本能寺で織田信長が明智光秀の謀反により命を落としたことで、四国攻撃軍は解体され、危機を脱します。

織田家中が混乱するなか、元親は十河存保を1582年に中富川の戦いと勝端城で破り、阿波国を平定。十河が豊臣家を頼ったため、柴田勝家を支援。秀吉が送り込んできた仙石秀久や小西行長との戦いに勝利するも、柴田勝家は賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いに敗れ、自害。元親は1584年、小牧・長久手の戦いのときには、織田信雄や徳川家康に協力、豊臣勢を撃破、その一方で讃岐を平定します。

1585年、河野通直が降伏したことで、伊予を平定。元親47歳にしてようやく四国を統一しましたが、紀州征伐を行っていた秀吉が伊予、讃岐の返納を要求したことで、雲行きが怪しくなります。和睦の道を模索しましたが実を結ばず、羽柴秀長を総大将とする10万の大軍が四国へ派遣されることになりました。

讃岐から宇喜多秀家、小早川隆景、吉川元長ら毛利勢が伊予、羽柴秀長、秀次が阿波と、3方向から攻められた元親は、家臣谷忠澄のすすめにより、降伏を選択。結果として土佐一国のみを安堵され、秀吉に臣従を誓います。秀吉の下、水軍の力を期待され、九州征伐や小田原征伐、朝鮮出兵にも同行。秀吉の死後の1599年に体調を崩し、京都伏見屋敷で死去。享年61歳でした。

元親の後家督を継いだのは、四男の盛親。長男信親は九州征伐時に島津家の策に落ちて死亡しているためです。信親が死亡したと聞いた時、元親は自害しようとするほど錯乱し、家臣に諫められて落ちのびたそうです。九州征伐で多くの人材を失った長宗我部家では、相続問題で家臣の争いが頻発。盛親を後継ぎとするため、元親は反対派を粛正するという措置を取っています。

長宗我部元親と豊臣秀吉のエピソード

1:自分が発令した禁酒令を自分で破って家臣に怒られた

豊臣秀吉の天下統一が成される以前、元親は領内に禁酒令を発令したことがありました。しかし事もあろうに元親自身が部下に命じてこっそり酒を城内に運び込んだことがあり、それを家臣の福留儀重(ふくとめよししげ)に見つかってしまいました。

儀重は父の代から長宗我部に仕え、武勇に優れた剛毅な性格として知られていました。遠慮なく元親を叱りつけ、これには元親もぐうの音も出ず素直に酒をやめて、行動を改めたといわれています。

少なくとも信親が戸次川で戦死するまでは、元親は家臣の諫言をよく聞く優れた主君であったという評価が一般的です。

2:サン=フェリペ号が漂着した際に最初に処理をした

秀吉のキリシタン弾圧のきっかけとなったイスパニア(スペイン)のサン=フェリペ号漂着ですが、彼らが漂着の目標としたのが四国土佐、元親の領国です。

元親は土佐沖にてサン=フェリペ号を牽引し船をとどめます。この際に船内の物品が漂流してしまいます。元親はとりあえず上の判断を仰ぐために船員達を抑留し、秀吉に報告しました。

船員達は秀吉自身との面会を求めましたが受け入れられず、奉行の増田長盛が対応し最悪の場合処刑もあり得るとの報告をしました。これがやがて二十六聖人殉教事件にもつながる秀吉の禁教令のきっかけにもなるのです。

元親はこうした交渉下で上の指示を待つしかない立場にあったので、直接交渉に影響を与えたわけではありません。しかし、こうした場面で元親の名が出てくるのは面白いですね。

3:本能寺の変の首謀者説

元親の妻は明智光秀家臣・斎藤利三の妹。元親が四国統一のために信長の意向に背いて毛利と結んでいたことなどから、信長が長宗我部征伐を決定すると長宗我部担当だった光秀は顔を潰されたと感じ、斎藤利三らが主体となって本能寺の変を起こしました。現在一般的に知られている本能寺の変四国黒幕説は、およそ次のとおりです。

しかし最近発見された資料によると、元親は信長に臣従すると意思表示していたことがわかっています。

元親が直接的に手を下すことは距離的にも状況的にもまず不可能でしょう。そこで四国征伐に反対だった光秀や利三を通じて信長を討つことを協議・匂わせたというのが元親の実際の立場だったのではないでしょうか?もっとも、それも決定打と呼べるものではなかったでしょうが。

いずれにしても、本能寺の変を起こした光秀はすぐに秀吉に倒され、元親が望むような四国統一と独自の勢力を築くという野望は早々に崩れ去り、元親は豊臣政権でもやや低い位置に甘んじなくてはならなくなります。

長宗我部元親は、実は渡来人、そしてあの人物の子孫だった?

長宗我部氏は渡来人である秦氏の直系子孫、または蘇我氏の子孫であるとも言われています。日本では四国や九州、それに北陸、東北などにも渡来人系の氏族があちこちで地盤を築いていますが、長宗我部氏もその一部、おそらくは純粋な大和民族ではないはずです。

ところで、この秦氏の出自について書かれた『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』には、秦氏の祖先は渡来人の弓月君、そして彼は秦の始皇帝の子孫であるというのです。つまり長宗我部家は始皇帝の血を引く一族ということになります。

ただし、この説はあくまで文献上の記述をそのまま信じた場合の話、そもそも弓月君が伝説上の人物で信憑性は当然高くありません。渡来人の出自は、秦氏が始皇帝なら東漢氏(やまとのあやうじ)は後漢の献帝(三国志の曹操の傀儡)であり、かなり箔がついているものなので鵜呑みにすることはできません。

しかし、中国や朝鮮からの渡来人が日本に帰化した例は後にも先にも多いです。こう考えると、渡来人の血をまったく引かない純粋な大和民族と呼ばれる人達はどれだけが大名にまで発展していったのか興味がありますね。

長宗我部という苗字の由来について

日本のほとんどの氏族はその氏姓の由来を与えられた土地の名前に求めます。長宗我部も秦氏の末裔とされる秦能俊が土佐国長岡郡曾我部郷の地頭となったことから長宗我部と名乗ったとされています。

土佐には香宗我部という苗字もあるようにおそらくはこの辺りでは割とポピュラーな名前なのでしょう。

ちなみに、ジャン・クロード・バンダム氏の吹き替え等をした声優の曽我部和恭は長宗我部家の末裔なんだとか。

長宗我部元親についての逸話5つ!

1:美濃斎藤氏と血縁関係がある

美濃斎藤氏といえば斎藤道三などで有名ですが、元親の母は美濃斎藤氏の出身です。美濃の斎藤氏と土佐の長宗我部氏はどのような関係で縁組を結んだのかはよくわかっていませんが、こういう説があります。

現在斎藤氏として有名な斎藤道三らの一族は庶流または僭称にあたり、本来の美濃斎藤氏は下克上によって美濃に追い出されてしまいます。そこで祖先の縁をたどって土佐の一条氏を頼った当時の守護代・利長は一条家と相談の結果長宗我部と縁組を結ぶことにします。

これが長宗我部国親であり、その子が元親です。一見地域も離れて全く関係のないように思える家が実は遠祖を同じくするというのは歴史上よくあることです。

元親自身も正室は明智光秀家臣・斎藤利三の妹である石谷頼辰(いしがいよりとき)の娘であり、長宗我部が単なる土豪ではないという証にもなっています。

2:寺社の保護に熱心だった

長宗我部家は応仁の乱以来、都から逃れてきた一条氏の配下として仕えていました。その下で任されたのは寺社奉行であり、元親もその影響を受けて寺社の復興や保護に力を注いでいます。四国統一の過程でも、失われた寺社に関しては積極的に投資しています。

家臣の谷忠澄らは僧侶出身ですが、のちに元親の下で大いに権限を与えられています。元親は儒学等の学問にも熱心で武功以外にも学問で優れた功績を残した人物には恩賞を与えています。ゲームなどでは風流な海賊というイメージの強い元親ですが、文人肌の繊細な感覚の持ち主だったのです。

3:長男信親の烏帽子親を織田信長に頼む

土佐統一を果たした元親は、母や妻が美濃斎藤氏であるとの縁から織田信長の正室・濃姫の親戚であると称して信長と同盟を結びます。そして元親は長男の千雄丸の元服の際、烏帽子親を信長にお願いするように使者を送ったのです。

『土佐物語』によると、元親は身分の低い中島可之助(なかじまべくのすけ)なる人物を使者としました。信長は可之助の名前が変わっていることを気に入り、「元親は鳥無き島の蝙蝠(井の中の蛙なのにうるさい奴)」と評しましたが、可之助は「蓬莱宮の寛典に候」と答え信長を感心させます。

自分の子供に奇妙丸(信忠)なんて名前をつける信長ですから、こうした一見変わった人物を認める度量の広さを元親は読んでいたという説がありますが、いずれにせよ千雄丸は信長を烏帽子親として元服、信親と名乗り、元親の嫡子となるのです。

4:豪族を手なずける手段は養子作戦

甲斐の武田信虎・信玄親子、毛利元就もそうでしたが、室町・戦国時代にかけて同じ地域に数多くの土豪が割拠し権力を争うという状況に、一族を送り込んで乗っ取るという方法を長宗我部家も取っていました。

父の時代には香宗我部(似ているけど元は敵)、吉良(駿河の吉良氏とは別系統)をすでに家臣化していましたが、元親も讃岐の香川、土佐の津野に息子を送り養子として乗っ取りに成功します。

彼らは要するに家臣であり親戚であるため、裏切ることのない忠実な家臣として別家を興す形となりました。しかし元親は後に豊臣政権の九州征伐で信親を亡くすと優秀だった次男・香川親和を幽閉してしまい(まもなく死去)、三男・津野親忠を冷遇(後に弟に殺される)、暗愚とされる四男・盛親を後継者に指名しました。

元親晩年の錯乱で長宗我部の一体感は崩れてしまい、最期は宗家断絶となってしまうのです。(後に分家が宗家を継ぎ、現在も長宗我部家は存在している)

5:とても厳しい「長宗我部元親百箇条」

最晩年、元親は後継者の盛親と共に領内に分国法を発令しています。「長宗我部元親百箇条」と呼ばれるこの条例には、数々の禁止事項が掲載されています。

例えば、喧嘩・口論の禁止。流言蜚語の禁止。賭博禁止・犯罪者の犯人隠匿に関しては極刑を以て対処する。隠田の禁止。密輸の禁止。はたから見てもとても厳しい内容が記されていますが、僧侶に対しても、寺社に賊を保護した場合には僧侶自身も処刑だということが書かれています。

当時、長宗我部家は養子作戦の崩壊によって家臣団が分裂するという状態にありました。盛親が家督を継ぐことになったのも元親個人の願いによるものですが、乱暴者だった盛親は家臣からも好かれておらず、元親は盛親の相続をどうにか納得させようと苦心していました。

元親自身もこの2年後に亡くなることを考えると、分国法は元親が盛親のためにしてあげられる最後の手助けだったのでしょう。なお、盛親の家督相続は豊臣家には最期まで認められていなかったとされています。

長宗我部家の栄光と挫折。長宗我部元親の心理に深く切り込む!

長宗我部元親は、急死した父国親の跡を継ぎ、土佐一国だけではなく、一時的とはいえ四国を統一しました。それは長宗我部家にとって栄華を極めた瞬間でした。しかし後に秀吉に臣従することを強要されてからは、過去の華やかさからはほど遠い、苦難や挫折を味わったといえます。

天野純希(あまのすみき)作『南海の翼 長宗我部元親正伝』は、名門長宗我部家の繁栄と四国統一を夢見た元親の、栄光と挫折が描かれています。作者は、2007年に『桃山ビート・トライブ』でデビュー。歴史小説を中心に発表していますが、ちょっとマイナーな主人公を取り上げ、軽妙な語り口で展開する物語が特徴です。本作では正統派歴史小説としての重厚さを感じさせる作品を作り上げています。

 

著者
天野 純希
出版日
2013-11-20


大阪の陣を目前に控えた頃、長宗我部家の家臣久部親直が、長宗我部家を継いだ盛親に、元親の事を語って聞かせる、という形で物語が始まります。「姫若子」と呼ばれた幼少期から、土佐、四国を統一。息子を失い、家中の混乱を招き、懊悩し失意のまま生涯を閉じるまでが語られました。

作中の元親は、夢を語り、民に目を向ける有能で篤実という人柄で描かれていますが、信長や秀吉といった大大名への対応に苦心するなど、年を経るごとに苦悩が増していきます。息子の信親を失ってから物語は加速度を増し、錯乱した彼のもとで長宗我部家が混迷を極めていく様子が克明に描写されています。晩年は特に重苦しさを増し、四国を統一した勇将の姿を見ることはなく、その空気が読者にものしかかってきます。

有能ではありましたが、時勢に翻弄され、後悔と迷いの多い人生を歩んだ元親。その後、盛親と長宗我部家の歩んだ最期を知ると、彼の後悔がよりいっそう感じ入られるでしょう。時代に翻弄された、長宗我部元親という人間の様々な心理と長宗我部家の栄枯盛衰に、感情が揺さぶられる作品です。

土佐の名門、長宗我部家の末裔が語る長宗我部氏のあゆみ

長宗我部氏は中国を統一した秦の始皇帝の流れをくむ、秦氏を祖としています。平安末期から、様々な戦乱を乗り越え、現代にまで続く名家には、多くの苦難の道のりがありました。『長宗我部(ちょうそがべ)』は、長宗我部氏の末裔、長宗我部友親が記した、長宗我部氏の辿ってきた道が、前後編で語られています。

 

著者
長宗我部 友親
出版日
2012-10-10


長宗我部氏にとって、大きな転機となったのは、やはり元親、盛親の時代です。元親は長宗我部氏の勢力を土佐一国、さらには四国を統一させるまでに延ばしました。しかし、時勢や家臣、息子たちとの軋轢もあり、失意のまま死亡。

跡を継いだ盛親は、大阪の陣で豊臣方に味方をしたため、直系は絶えることとなりました。吉良家といった縁戚の家系が農民になり、他家に仕えるなどしてその血を繋ぎ、時代は幕末、そして現代を迎えます。

平安時代から始まる家系とあってか、想像も及ばないほどの壮大な時間の流れを感じることができる本作。末裔の目線からとはいえ、脚色を加えることなく、事実を記しているところが特徴でもあります。長宗我部氏がどのような歴史を歩んできたのか、その概要を知るには最適な作品です。

独自視点と軽妙な語り口で長宗我部家の興亡を描く!

戦国時代は大名や家臣たち、武将が武の力で時代を動かしていた、というイメージがあります。その反面、千利休が交渉面で重宝されるなど、商人や僧のもつ特性も、国を動かす力となっていました。武将は武だけではなく教養を試されることもあり、その中に連歌も含まれます。他人数による連作方式で作られる和歌で、戦国時代では必須教養のひとつでもありました。

そんな連歌の師匠であり、元は足利将軍家に仕えた経歴を持つ長宗我部家の家臣、蜷川道標(本名蜷川親長)と元親の関係とともに、長宗我部家の盛衰を描くのが『黒南風のうた 蜷川道標と長宗我部元親』です。作者の三浦伸昭は、会計士や税理士として働く傍ら、歴史小説や映画評論を手掛けています。

 

著者
三浦 伸昭
出版日
2014-09-01


大名の名前は知っていても、その家臣に関しては、家系を調べるかよほどの功績を残していない限り、なじみが無いもの。蜷川道標は、その経歴からか礼法や教養面で重宝された人物です。武で道を切り開いていった元親に対し、文を己の道と定めていった道標。その対比や交流とともに、元親死後の長宗我部家についても語られます。

歴史小説といえば、重厚さを醸し出すためか硬い文章の作品が多いですが、本作は現代人にあった軽妙な語り口が特徴。物語は徳川の治世で、オリジナルのキャラクターとともに春日局まで登場するのは、道標が関ケ原の戦い後の残務処理が認められ、徳川御伽衆になったという経歴からなのでしょう。戦だけではなく、文化、経済といった観点からも長宗我部家を知ることができる、エンターテイメント性の高い作品です。

膨大な資料を基に多角的に長宗我部元親を解き明かす学術書!

大名は武芸の他にも戦術、政治や経済手腕、教養もなければならないという、かなり高い能力を必要とされる立場です。文武両道とはよく言いますが、その体現が必須であったといっても過言ではありません。

 

著者
山本 大
出版日
2010-05-07


長宗我部元親は武力だけでなく、弟や子どもたちに家臣の家系を相続させるなどして、一族の結束を図るとともに、勢力を拡大していきました。本書は膨大な資料を基に、その魅力を浮かび上がらせていきます。作者の山本大は、高知大学の教授。郷土史に精通した人物です。

土佐から四国を統一した手腕を見れば、長宗我部元親が有能な人物だったということは想像に難くありません。戦術や戦略という、大名の持つ一側面にばかり目が行きがちですが、外交手腕や領土経営。必須教養である和歌や茶道、儒教や仏教に至るまで、多くの知識と広い視野を持っていたことが、資料によって明らかになっていきます。

本作では元親の戦略、戦術を語る以外にも、長宗我部家臣団や家系図も収録されており、彼の人物像、そして彼を支えた家臣団についての知識を深めることができます。コラムではちょっとしたエピソードが披露されるなど、飽きさせない作りが魅力的。学術書なので資料としても、固すぎない作りで読物としても楽しめる1冊です。

姫若子から鬼若子へ!戦を中心に長宗我部元親の生涯と人間性を描く

長宗我部元親は、色白で軟弱、姫のようだということで「姫若子」と揶揄されて育ったという過去を持っています。しかし初陣以降は家臣や父親もなんのその、その勇猛さを見せつけ「鬼若子」と呼ばれるほどの武将として成長しました。

そんな初陣から土佐統一、生涯を閉じるまでを描いた作品が近衛龍春の『長宗我部元親』です。作者の近衛龍春は、フリーライターを経て歴史小説家となった人物。主に戦国武将を題材にした小説を数多く執筆しています。

 

著者
近衛 龍春
出版日
2010-04-15


戦国時代はまさしく鬼の時代。元親は婚姻や外交でも勢力拡大を図りましたが、やはり竹の領土を奪うのに戦は不回避でした。四国各地で戦を行い、その多くで勝利を重ねていきます。本作ではその戦に多くのページを割いており、地名や城名以外にも、家臣、地形といった、戦に関わる全てが事細かに描きだされています。

地元の人にとってはなじみがありますが、四国をよく知らないという方でも、地図を片手に読み進めれば、より臨場感を味わうことができます。晩年の錯乱期には深く言及をしていませんが、四国を統一していく、力強い人物像が魅力的。家臣や妻を大切にしたエピソードにもほっこりし、親しみやすさと戦の時の苛烈さのギャップで、彼の魅力に引きずり込まれる作品です。

ゲームなどの影響もあり、注目度の増している長宗我部元親。その人生は苦難に満ちながらも、力強い輝きを持つものでした。様々な観点から彼を知ることができる作品ばかり、四国の勇将の歩みを、ぜひ感じてください。

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