市井の物書き大場諒介が小説への偏愛を書き綴る不定期連載「僕が小説を読む理由」。第1回は芥川賞を受賞したベストセラー『蹴りたい背中』。本作の味わい方を僭越ながらご紹介させていただこうと思います。
芥川賞を取ったミリオンセラーを紹介して、何を目指してるんだという話ですが、僭越ながら、文学の楽しみ方の一例を示させていただきたいと思います。
多くの方がご存じだとは思いますが、著者と作品について簡単に。綿矢りさは高校在学中の17歳の時に「インストール」で文藝賞を受賞してデビュー、19歳の時に2作目の『蹴りたい背中』で芥川賞を史上最年少受賞するわけです。
芥川賞とはなんぞやと詳しくは書きませんが、直木賞との対比という点で少しだけ書くとすれば、直木賞はエンターテインメントに、芥川賞は純文学に与えられる賞だということです。つまり、『蹴りたい背中』は純文学作品だということになります。
純文学というと小難しい感じがしますし、実際小難しい作品も多々あるのですが、『蹴りたい背中』は何も難しくないです。初心者向けの優しい文学作品です。まぁただ、文学作品なので、エンターテインメント的なハラハラドキドキ的なサムシングは期待しないでください。
- 著者
- 綿矢 りさ
- 出版日
- 2007-04-05
では、『蹴りたい背中』の何が魅力かということをこれから書かせていただきます。まず冒頭が素晴らしいです。引用します。
さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く。紙を裂く耳障りな音は、孤独の音を消してくれる。気怠げに見せてくれたりもするしね。葉緑体? オオカナダモ? ハッ。っていうこのスタンス。あなたたちは微生物を見てはしゃいでいるみたいですけど(苦笑)、私はちょっと遠慮しておく、だってもう高校生だし。ま、あなたたちを横目で見ながらプリントでも千切ってますよ、気怠く。っていうこのスタンス。
黒い実験用机の上にある紙屑の山に、また一つ、そうめんのように細長く千切った紙屑を載せた。うずたかく積もった紙屑の山、私の孤独な時間が凝縮された山。
(『蹴りたい背中』より引用)
冒頭の2段落を引用させていただきました。この短い引用部分だけで、もう胸がキュンキュンしてしまいます。しかし、引用しただけでは、この文章を書いている意味がありませんので、まことに僭越ながら解説させていただきます。
この部分、ようは2段落かけて、「私はさびしい」ってことを書いてるわけですが、「私はさびしい」と書いてしまっては、文学ではないんですね。「さびしい」という言葉を使わずに「さびしさ」を表現するのが文学なんです。で、しょっぱなから「さびしさ」という単語を使っているわけですが、その後の「鳴る。」という部分で裏切ってくるわけです。その音というのが、「耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音」。直接書かれてはいませんが、クラスの女子が騒いでる声ってことです。それを「高く澄んだ鈴の音」って表現しちゃうところがいじわるですね。で、さらにツイストをかけて「鈴の音」を今度は「紙を裂く耳障りな音」に転換します。
「さびしさ」→「耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音」→『「孤独の音」を消してくれる「紙を裂く耳障りな音」』という流れですね。
そして1段落を経た2段落目では、「さびしさ」が視覚化されています。「さびしさ」を消してくれるのは「紙を裂く耳障りな音」です。その結果できるのが「うず高く積もった紙屑の山」なわけです。見えないし聞こえない「さびしさ」というものが、まずクラスの女子が騒いでいる声「高く澄んだ鈴の音」で表現され、「紙を裂く耳障りな音」に転換され、それがさらに「紙屑の山」になるというね。「実験の授業でクラスメイトが騒いでいる中、ひたすら紙を細長く裂いて紙屑の山を作る私はさびしい」っていう話です。それを描写の対象が移り変わっていくひとつの流れで、こんな風に表現されたら、まぁ惚れますよね笑
その後の「私の孤独な時間が凝縮された山」という部分は人によっては削るべきという人もいるかもしれませんが、この部分のおかげでわかりやすくなっています。まぁ、わかりやすくなった分だけ文学から遠ざかるという面はあるのですが、こういう部分が、初心者向けの文学作品と評したゆえんです。
そして文章のリズムが素晴らしい。独特の女子高生語りと体言止めによって読んでいて気持ちのいい文章になっています。デビュー作『インストール』でも体言止めが多用されていますが、『蹴りたい背中』の方が圧倒的に洗練されています。
引用し始めたらきりがないですが、長くなってしまったので、このへんで切り上げます。名文を堪能してください。1年に1冊くらいは文学ってもんを読んでみてもいいのではないでしょうか。