長州藩の吉田松陰の思想は、幕末の多くの志士に影響を与えました。若くして亡くなった松陰の生きざまについて知り、さらにそこから明治維新についても考えられるような本を集めましたので、ぜひ読んでみてください。
吉田松陰は1830年、長州藩萩城下で長州藩士・杉百合之助の次男として誕生。草取りをしながら父や兄と四書五経を素読するような子ども時代を送ります。1834年に叔父・吉田大助の養子となり兵学を学び、9歳で明倫館の兵学師範となったり、11歳のときには藩主・毛利慶親へ「武教全書」を講義したりするなど、その才能を発揮しました。
1842年に叔父の玉木文之進が松下村塾を開き、松陰もそこで指導を受けます。13歳には長州軍を率いて西洋艦隊撃滅演習を行い、19歳で明倫館の独立師範となりました。そして1850年、アヘン戦争で清が負けたことをきっかけに西洋の兵学を学ぶため九州へ遊学します。さらに江戸で佐久間象山に学んだのち、脱藩して次は東北へ行きました。
1853年、松陰はペリーの浦賀来航を見に行き、西洋文明の素晴らしさに感化され、密航しようとします。しかしロシア船がすでに出航してしまっていたために江戸へ戻りました。1854年に再びペリーが来航したときには、松陰は漁民の小舟で勝手に乗船します。しかしペリー船長から渡航の許可はおりることはなく、計画がいずれ露呈すると思った松陰は、幕府へ自首しました。
命は許されたものの、長州の野山獄に幽囚されることになります。その後1855年に自宅謹慎となり、1857年に叔父の松下村塾を引き継いで開塾しました。ここで松陰は高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋など明治維新の立役者となる人物を育てることになります。
1858年、日米修好通商条約に強く反対した松陰は、条約が破棄されなければ老中・間部詮勝を暗殺するという計画を立て、再び野山獄に幽囚されました。1859年、安政の大獄に連座して、江戸の伝馬町牢屋敷に搬送されます。幕府は確認事項があっただけだったのですが、松陰本人が間部暗殺について自ら告白したために、斬首刑となってしまいました。享年30歳。
松陰の思想は幕末志士に多大な影響を与え、多くの名言も残しています。彼がいなければ明治維新はならなかったとも言えますが、松陰自身はその歴史の変わり目を見ることなく亡くなってしまいました。松陰が生きていれば、明治初期の在り方もまた違うものだったのかもしれないと思わせてくれる人物です。
1.生涯独身で恋愛経験はゼロ?
明治時代の雑誌『日本及日本人』のなかで、松陰の恋愛事情について妹の千代が記しています。それによれば、松陰は勉強漬けの生活で、色恋沙汰にはほとんど縁がなかったそうです。とはいえ、妹が知らないところで恋愛をしていた可能性は十分考えられ、 松陰が野山獄に収監されていた時に知り合った高須久子とは恋仲だったのではないかと言われています。
2.松陰は大福が好き
彼が江戸遊学中に記していた家計簿『費用録』のなかで、遊学中に使ったお金を記録していました。食費に関しては事細かに書いてあり、味噌や梅などを購入したという記録が残っています。勉強熱心だった彼は食事にお金を使うことは稀で、基本的に質素な生活をしていたといいます。そんな中で、頻繁に出てくるのが「大福」という文字。 月に6回購入することもあったそうです。
3.自分のことを「狂愚」と表現していた
「狂愚」の辞書的な意味は、「常軌を逸していて愚かなこと」です。 その意図を松陰は、狂は常に進取に鋭く、愚は常に避趨に疎しと表現しています。 つまり「狂」は何かに取り組み何かを掴むときに迷いなく行動でき、「愚」は逃げるということに対して疎くなる、ということです。この言葉から彼がいかに行動を起こということを大事にしていたかがわかります。
4.東北に学びに行くために脱藩
彼は東北へ遊学する計画を立てましたが長州藩から通行手形をなかなか受け取れず、 友人と交わした約束の日取りを優先して脱藩までしてしまいました。 脱藩の罪は重く、江戸に帰ると罪に問われ、士籍剥奪・世禄没収という処罰を受けました。
5.松下村塾で教えていたのは兵学だけではなかった
松下村塾では、儒学者の山鹿素行が記した兵学書『武教全書』を教科書として使用していました。ただし、講義は兵学にとどまらず、地理・歴史・経済・倫理・芸術など幅広い科目にわたっ ています。また単に書物による学問をするだけでなく、草むしりや炊飯の仕方を教えるなど、 日常生活に必要な知識も教えていたようです。
6.辞世の句は「親思う 心にまさる親心 けふのおとずれ 何ときくらん」
松陰は辞世の句として故郷の両親に宛てた歌を詠みました。子どもが親を思うよりも、親が子どもを思う気持ちの方が強いだろう。今日の処刑の知らせをどのような気持ちで聞くのだろう、という親を想った歌です。
7.弟子たちのために遺書を書いていた
1859年、安政の大獄で処刑される前。松陰は獄中で門下生のために遺書を記しました。この遺書は『留魂録』と呼ばれ、松陰が処刑された後も塾生の間で繰り返し読まれました。この遺書こそが、松下村塾出身志士の行動力の源泉となったと言われています。
8.墓は東京世田谷にある
松陰は長州・萩出身ですので、山口県に墓地があると思っている方も多いかと思います。萩には松下村塾や墓地など松陰ゆかりの史跡が残っていますが、実際の墓があるのは東京です。安政の大獄から4年後、門下生である高杉晋作・伊藤博文などの門下生が尽力したことから、 世田谷若林に改葬されることになりました。それが松陰神社となっています。
9.”松陰”の由来は「寛政の三奇人」高山彦九郎
松陰の本名は吉田寅次郎ですが、本人は松陰と名乗っていました。その”松陰”という号の由来は定かではありませんが、一番有力な説として、江戸時代の思想家である高山彦九郎のおくりな「松陰以白居士」から取っているのではないか、というものがあります。高山彦九郎は、林子平・蒲生君平と合わせて「寛政の三奇人(優れた人)」として知らられ、会沢正志斎の『高山彦九郎伝』を読んで感銘を受けたと言います。
10.彼の短刀がアメリカで発見された
彼の妹寿が、実業家であった新井領一郎に送ったとされる短刀が発見されました。カリフォルニア州バークレーで暮らしている新井領一郎の子孫が保有していたそうです。 短刀の長さは42センチで、室町時代の槍を短刀に作り直したものと見られています。
前半は松陰、後半は高杉晋作を主人公として書かれた全4巻の名作『世に棲む日日』。明治維新まで生きることはなかったけれども、維新に欠かすことのできなかった二人の若者の生涯が胸に迫ります。松陰の生きざま、思想がよく分かることでしょう。吉川英治文学賞受賞作品です。
- 著者
- 司馬 遼太郎
- 出版日
- 2003-03-10
松陰というと狂気に溢れ、攘夷の思想に凝り固まった若者を思い浮かべるのではないでしょうか。しかし本書で描かれる松陰は、明るく快活とした青年です。友人との約束のために脱藩したり、ふらふらと思いの向くまま旅したりと、直情型で子どものような心も忘れない人物とも言えます。
情熱に溢れている松陰を、ちょっと引いた目で眺めている著者の書き方が松陰を狂気とはかけ離れた人物に見せています。しかしながらその思想は長州藩の多くの若者に大きな影響を与えた訳です。幼い頃より稀有な才能を持っていた松陰がどのような人生を送り、どうやって長州藩を導いたのかがよく分かる物語。明治維新を知るためには必読の1冊です。
吉田松陰の生涯を描く本書は、全2巻の歴史小説です。1巻では、どのように松陰の人格が形成されていったのかということがよく分かり、その勉学への取り組み方の凄さに驚いてしまいます。そして続く2巻では、自分の信念に基づき行動していく松陰に感動すること間違いありません。日本のことだけを考え、日本のために行動した松陰。激動の時代を作り出した人物の人生に触れてください。
- 著者
- 山岡 荘八
- 出版日
- 1987-07-01
歴史小説を得意とする著者特有の文体は、松陰を生き生きと蘇らせています。感動を与えてくれる場面も多くあり、特に最後松陰が江戸へ搬送される場面での家族との別れのシーンはドラマチックです。また恋愛には疎かったと言われている松陰ですが、本書で見ることができるのは淡い恋心。九州遊学のときのフィクションの話となりますが、物語の中のいいスパイスとなっており、松陰を身近に感じることができます。
まっすぐな性格からか、自白した松陰のことを自ら死を選んだように思うことでしょう。しかしこの死があったからこそ、長州藩はまっすぐに維新に突き進み、松陰の死は起爆剤になったのだと著者は語っています。本書の松陰を見れば、確かに松陰は死んでも生き続けたのだと感じることができる1冊です。
松陰は、ペリーが来航した時に密航を試みようとしました。しかし失敗。江戸伝馬町の獄から長州萩の野山獄に移されます。その獄中と杉家幽閉中に、松陰が『孟子』を講義した内容をまとめたものが『講孟箚記』です。松陰の根本がここにあり、獄中の囚人たちや彼に関わった人々はその思想に触れ感銘を受けました。
- 著者
- 吉田 松陰
- 出版日
- 1979-11-08
「今、諸君とこの野山の獄に幽囚されている身ではあるけれども、幸いに『孟子』を研究することができるのであるから、これ以上の幸福はあるまい。」(『講孟箚記』より引用)
このように、どこにいても勉学に励もうとする姿が松陰の根本たる心意気だと言えます。そしてどこででも人を惹きつけ、人に教えを行うというように、生まれながらに先生の素質があったのです。
本書の内容は『孟子』の内容というより、松陰の考えといっても過言ではありません。
「至誠にして動かざるものは、未だこれ有らざるなり」(『講孟箚記』より引用)
これが松陰の原点です。誠を尽くせば、動かなかった人は誰もいないという意味で、松陰は人民に対して「至誠」を尽くした生涯を送りました。その至誠に関することを本書でも多く説いています。
数多くの名言が残されている本作品。松陰の心がよく分かり、現代社会で生きる私たちにも指針となってくれることでしょう。
第二次世界大戦の敗戦は、長州テロリストが明治維新を行ったことが原因であるという説を展開する本書。これまでにない幕末史を読むことができます。薩摩長州が政権を奪ったために間違った方へ進んでしまったという著者の持論は、私たちが普段知っている通説を覆すもので、ハッとさせられます。正しい意見を持つためには多くの考えを知る必要がありますので、こういった方面から論ずる考えを読むことは大切なことだと言えるでしょう。
- 著者
- 原田 伊織
- 出版日
- 2015-01-14
本書では吉田松陰は痛烈に批判され、頭がおかしい変人だったとされてしまっています。そして明治維新は長州と薩摩のテロだというのです。
この意見に対してどのように思うかは、読者が考えることですが、歴史を知るにあたっては、勝者と敗者の両面から考えることは重要です。一面から見るだけでは偏ったことしか分かりません。本書の意見もまた偏っているかもしれませんが、確かに第二次世界大戦で敗戦したことは事実ですので、なぜ日本が間違った方向へ進んだのかということを考えるきっかけになることでしょう。
「私たちは、長州を核とする勝者の言に従いその後の時代を「近代」と呼び、今日の行き詰まりを迎えているのである。」(『明治維新という過ち』より引用)
この言葉は、現代社会を生きる私たちの心に刺さるのではないでしょうか。
本書では、松陰の思想の変化を検証します。西洋に興味を持ったこと、日本を改めて認識したこと、ペリー来航に触れたこと。そのようなさまざまな出来事が、どのように松陰の思想に影響を与えたのか、数多くの資料から解き解いていきます。
- 著者
- 桐原 健真
- 出版日
- 2014-12-08
松陰は脱藩して処分されたり、その考え方から幽閉されたりと多くの挫折を味わいながらも、それを基に思想を形作っていきます。それがどのように行われたか、本書を読めば詳しく知ることができるのです。特に松陰の思想が過激化していったのは獄中のことでした。それをそこで出会った浄土真宗の僧侶が原因だと著者は考えます。このコペルニクス的転回と著者が呼ぶ松陰の思想の転回について、多くの資料を基に明らかにしていくのです。
松陰の人物像がその思想の転回からはっきりと浮かび上がってきます。多くの志士に影響を与えることになった松陰はこのように作られたのだと、新たな発見をしながら面白く読むことができます。
吉田松陰が残したと言われる言葉を366編一日一遍ずつ読む形式でまとめられた本です。当時の古文形式に、現代文の訳もついていますので、わかりやすく読むことができます。
吉田松陰は、桂小五郎、高杉晋作などの幕末に活躍した志士たちに、多大な影響を与えた思想家です。その言葉は、国を憂う若者の心を震わせ、明治維新の原動力となりました。現代にも通じるその思想は、心に響く教訓として明日からの日々の糧になることでしょう。
- 著者
- 川口 雅昭
- 出版日
- 2006-12-22
「花柳詩酒に陥る如きは、真に道に志す者の必ず暇あらざる所なり【訳】本当の人としての道に志したものにとっては、飲食街で遊んだり、詩や酒に狂うというような暇は絶対にない」(『吉田松陰一日一言』9Pより引用)
「凡そ読書の功は昼夜を捨てず、寸陰を惜しみて是れを励むに非ざれば、其の功を見ることなし。【訳】だいたい、読書の効果というものは、昼となく夜となく、ちょっとした時間でも惜しんで励むのでなければ、その効果を上げることはできない」(『吉田松陰一日一言』13Pより引用)
背筋が伸ばされるような言葉が続きます。毎朝一遍ずつ読んでから出かけると、一日一日人間として成長出来る気がしてくるでしょう。幕末の志士と同じように今の時代でも奮い立たせてくれる本です。
天才的な思想家で明治維新の精神的指導者と言われる吉田松陰が残した言葉を、現代風に訳してまとめた書籍です。多くの若者に影響を与えた松陰の思想から、現代人が忘れていた熱いエネルギーを感じることができます。
本の見開き最初にある「この命どう使い切るか。ついに志を立てる時がきた。」から、その過激で熱い魂がほとばしっているように、松陰はとにかく熱く、その行動力が凄まじく、有名な黒船に乗り込んだ事件や、不平等な日米通商条約破棄のために幕府の老中を暗殺しようとまでします。自分の志、理想の為には死も辞さず突き進む姿は、平和な現代では想像しがたい人物です。
- 著者
- 出版日
- 2013-05-25
ただ過激なだけではなく、根底には国を憂う愛国心が源にあり、その正義に多くの人々が師と仰ぐほど。松陰が開いた松下村塾からは、後に総理大臣2名、国務大臣7名、大学創始者2名と考えられない程の人材が育っています。歴史的にも一流の教育者だったとも言えるでしょう。
そんな魂の志が溢れた本作は、教育に携わる人はもちろんのこと、現代の社会の中で生きる人たちにも勇気を与える本です。忘れかけていた情熱を思い起こしてみましょう。
幕末の天才的教育者にして、明治維新の精神的指導者と言われる吉田松陰が残した数々の名言の中で、著者が厳選した100個をまとめた書籍です。古文の原文と、現代訳、著者解説の構成で、わかりやすくその真意を伝えます。
松陰は、明治維新を成し遂げた桂小五郎や、後の初代総理大臣伊藤博文などに影響を与えたことで有名な思想家ですが、現代でも様々な経営者や政治家が、心酔する思想、格言を遺しています。松陰の言葉から自身の人生の糧を見つけることが出来るかもしれません。
- 著者
- 野中 根太郎
- 出版日
- 2014-09-26
「一月にして能くせずんば、則ち両月にして之を為さん。両月にして能くせずんば、則ち百日にして之を為さん。之を為して成らずんば輟めざるなり。【訳】いったん志を立てたなら、一ヶ月で出来なければ、二ケ月でこれを成し遂げよう。二ケ月でも出来なければ、百日をかけてもこれを成し遂げよう。いくらやっても出来なければ、出来るまで絶対やめるものか、必ずやるのです。」(『吉田松陰の名言100 −変わる力 変える力のつくり方−』より引用)
あの松下幸之助が創設した、「松下政経塾」でも取り上げられる有名な言葉です。自分の魂に響く言葉を、本書で見つけてみてはいかがですか。
吉田松陰が、自ら開いた松下村塾の塾生や親族、友人、藩主や藩士などに語ったとされる言葉をまとめた本です。人間として必要なものはなにか、学ぶ姿勢とはなにかなどを教えてくれる人生の教科書的書籍と。
明治維新の思想に大きな影響を与えた松陰ですが、その学ぶ姿勢は現代人も心が揺さぶられる言葉を多く残しています。教育に携わる人たちや子を持つ親、職場で部下を持つ人たちには是非読んでほしい作品。教育とは何かを考え、学べる本です。
- 著者
- 楠戸 義昭
- 出版日
- 2014-10-22
「松陰は、人間に最も大切なものは〝至誠(真心)〟であり、志をたてることが重要であると教育した。」と解説されているように、松陰の言葉には志を貫く強い意志と行動力が見えます。松陰亡き後も、この志が数多くの長州藩士に引き継がれ、明治維新という大改革が成し遂げられることになります。時代背景は違いますが、現代においても何かを成し遂げるために必要なもの、日々の努力の大切さを教えてくれる本です。
吉田松陰が安政の大獄で処刑される直前に、弟子たちに残した遺書ともとれる『留魂録』に、現代語の訳と注釈を加えた書籍です。松陰が獄中で書き連ねた文からは、死が間近に迫っているにも関わらず、冷静な教育者としての言葉と、志を貫こうとする熱い魂が感じられます。
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」の歌から始まり、自身の死後の仕置きと弟子たちへの師事を事細かに記した『留魂録』は、その後旧長州藩士のみならず明治維新の思想としても影響を与えました。これらの記述は、現代の私たちが読んでも、その強い人間力、精神力に胸を打たれるでしょう。
- 著者
- 古川 薫
- 出版日
- 2002-09-10
松陰最後の言葉は「心なることの種々くさぐさかき置きぬ思いのこせることなかりけり。 呼びだしの声まつ外ほかに今の世に待つべき事のなかりけるかな。 討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇あがめて夷えびす払へよ。 愚かなる吾れをも友とめづ人はわがとも友どもとめでよ人々。 七たびも生きかへりつつ夷えびすをぞ攘はらはんこころ吾れ忘れめや。」の5首の歌で結ばれています。
自身の身の置かれている現状を自己責任と反省しつつも、残される人々への思い、繋いでほしい志を記し、この文章を書いた翌日に処刑されることになります。松陰の遺書から学ぶものは人それぞれ置かれている立場で違いますが、人間としての誇りある死を遂げた人物の最後の言葉を、日本人として知っておくことは悪くないはずです。
いかがでしたでしょうか。吉田松陰の人ととなりがよく分かる本を集めてみました。明治維新に多大な影響を与えた松陰をもっと知ってもらえると幸いです。