人類学・哲学・美術史。インディペンデント・キュレーターの指針6冊

更新:2021.12.18

連載の最後は、筆者がこれまで影響を受けた、困ったときに立ち戻る何か指針のようなもの、端緒としての6冊です。キュレーターについて知ったりする上での参考になるかはさておき、どれも優れた本であることは間違いありません。

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人類学の可能性

著者
石井 美保
出版日

ここ10年ほどの間、「存在論的転回」という変化によって、人類学ににわかに注目が集まっています。人間だけを見ていては、そこで起きていることを十全に理解できないことに気づいた人類学者たちが、人以外の要素もその出来事のネットワークの中に含めて記述するようになったのです。

大学生になったばかりの筆者は、そんな動向が人類学を席巻し出しているなどつゆ知らず本書を手にとりました。

人類学者の石井美保は、ガーナにフィールドワークへ行った折、自分自身が「精霊」を目撃するという体験をします。通常であれば、これは「幻覚だ」ということで、合理的に解釈され直す事象ですが、石井はそれをそのまま受け止め、記述していきます。

アカデミックな本の中に「自分が精霊を見た」という記述が出てくるのは衝撃でした。一歩間違えれば単なるオカルトだとして退けられてもおかしくないことですし、筆者自身もオカルト的なものは苦手なので読むのをやめていたでしょう。

しかし、石井の記述は確かに「存在論的転回」の日本における嚆矢のひとつとして、確かに筆者の胸に刺さったのです。ああ、人類学はこんなことまでできる学問なのか、と10代の自分に希望を与えてくれた一冊です。

なお、最近『環世界の人類学--南インドにおける野生・近代・神霊祭祀』という新著が刊行されましたが、この本では存在論的転回にもわかりやすく触れつつ論が勧められているので、存在論的転回について、現在の人類学について知りたいという人にもオススメです。

「ここ」は経験の出発点ではない

著者
村上 靖彦
出版日
2008-05-26

「人類学は他者によって自分が変化していく学問だ」と筆者の恩師がかつて述べておられましたが、この本もそのような経験を感じさせてもらえた大切な一冊です。本書では、「視線触発」・「図式化」・「現実」の3つが相互に関係し合って世界が現れており、(広義の)自閉症の人々は、この3つのいずれかで問題が生じているという見取り図が提案されます。

本書では、「『ここ』は経験の出発点ではなく、視線触発その他の作動の結果生まれる産物なのである」とされ、私たちが当たり前に前提としてしまっているもの(それは人類学が長きにわたって前提としてきたものでもあります)が掘り崩されます。

「私と他者を客体として認識し、定立するのは発生的には事後的な作用である。その意味で、『匿名的に見られる』視線触発が、『相手の動きや感情を感じ取ってしまう』間身体性と『私があなたを見る」対人志向性に先立つ。」つまり、まず「見られる」という経験があるわけです。「ここ」も「あなた」も「私」も最後にやってくる。

そしてもうひとつ、重要なことは、「自閉症の人は彼らの仕方で、空間を構造化している」ということです。私たちは世界の理解に言語を用いますが、「自閉症では知覚的な手がかりで整序する。多くの自閉症児の長期記憶は、彼らがしばしば持つ驚くべき記憶からもわかるとおり、映像記憶」なのです。「つまり感性的な印象がそのまま沈殿している」。

伊藤亜沙による『目の見えない人は世界をどう見ているのか』と並んで、本書は他者を「自分を代入せずに」理解しようと試みる上で、様々なヒントを与えてくれます。

哲学することの楽しさと恐れ

著者
ジル ドゥルーズ
出版日
2008-01-09

この本は筆者が初めて哲学書で感動した一冊です。この本を読み終えたことがきっかけで、哲学書に対するハードルが自分の中でかなり下がるのを感じました(といってももちろん哲学書はあい変わらず難しくてわからないのですが)。

ジル・ドゥルーズはこの本の中でカントの三批判書(『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』)を総括しようとしています。そもそもカントは三批判書を通して、自分の脳が合理的で万能あるという前提に対して疑いを持っていました。

もし脳が間違っていた場合、脳は自分が間違っていることを知ることができない(これは想像するととても怖いことです)。脳は万能ではなく、できることとできないことがある。その輪郭を明確にするためにカントは理性・悟性・構想力という3つの能力を駆使して腑分けしていきます。

ドゥルーズはこの理性・悟性・構想力という諸能力がそれぞれ単独で作動しているのではなく、その都度3つの能力の組み合わせが変化しているという風に理解します。チューニングが行われ、ちょうどいい具合にセットされ、その結果「共通感覚」と呼ばれるものが生まれているのだと。

しかしここでドゥルーズはカントが築き上げた一大体系を根底から揺さぶります。では、「その諸能力の一致(共通感覚の発動)」はどうやって起きているのか?と。上手い具合にチューニングをしている奴がいるのか。違う。なぜならそれだと脳にさらに上位概念があるということになってしまう。結果、ドゥルーズは諸能力の一致を「偶然」であると結論づける。

私たちの認識の根底が偶然によって規定されているということを他ならぬカントの三批判書を通して暴露するこのスリリングな一冊によって、筆者はようやく遅まきながら哲学をちゃんと読んでいこうと腹を括ったのでした。

消費ではなく、浪費すること

著者
國分 功一郎
出版日
2015-03-07

國分功一郎は『カントの批判哲学』の訳者でもあるのですが(訳者解題がとても素晴らしい)、本書においては彼自身の思考を辿り直していくことができます。

とにかく筆者がこの本に強く影響を受けたのは、ボードリヤールの「消費/浪費」区分から踏み込んで提言されている「消費ではなく浪費する」というテーゼです。

ハイデガーの退屈論をひきながら、なんとなく退屈で、退屈の明確な原因がわからない、あるいは退屈の原因は自分の内側にある、そのようなときには、「必要以上に物を受け取る」浪費家になることが重要だと國分功一郎は述べています。「物」の「意味」や「記号」だけ受け取っていて物を受け取っていない限りそれは「消費」であり、それは消費である限り無限に吸収し続けることが可能です。そこには終わりはありません。受け取りきれないほどの物を受け取ること。こと美術や展覧会について考えるとき、必ずこのテーゼが頭をよぎるのです。

圧倒的な現代美術史の厚み

著者
["Hal Foster", "Rosalind Krauss"]
出版日
2016-09-08

筆者は、大学で人類学を専攻していたので、とくに美術史などを専門的に教わることはなく(今思えば教わるチャンスはいくらでもあったはずなのですが)、大学を卒業してからちゃんと美術史をやらないとダメだと気づいて読み出したのがこの本です。英語の本ですが、噂では邦訳も進んでいると聞いているのでもしかしたら近いうちに書店に並ぶかもしれません。

この本はハル・フォスター、ロザリンド・クラウス、イヴ=アラン・ボワ、ベンジャミン・ブクロー、デイヴィッド・ジョセリットといった、『オクトーバー』誌寄稿者たちによって編まれた「現代美術史」です。

連載第一回目でも紹介したゴンブリッチの『美術の物語』と本書をひたすらなんども読みこみながら、労働に励んでいた(大学卒業してしばらくは就職していた)のを覚えています。

もちろん、彼らの語りがそのまま客観的な「現代美術史」であるはずもないのですが、それでもなお、本書は現代美術について考えるための基本となる様々な情報を与えてくれる優れた一冊です。

図版も豊富ですし、最近第3版がでて、ここ数年の事象も取り扱われているので(正直物足りないですが...)、ぜひ7,000円が高いと言わずに購入することをオススメします。

初めての現代美術

著者
会田 誠
出版日

筆者は、「どうしてキュレーターになったの?」と聞かれることが時折あるのですが、この本が原点のひとつであろうことは確かだと思います。

これは筆者が中学生だったときに美術の先生が誕生日プレゼントだとこっそりくれたものです。普通の公立の中学校なのですが、その先生は現代美術に詳しく、中学校最初の授業はポップアートについてで、思い返すと、リキテンシュタインやオルデンバーグから始まり、パトリシア・ピッチニーニ、森万里子、奈良美智などが紹介されました。その年(2001年)の期末テストの試験内容は、「あなたなら9/11の跡地をどうしますか?」というものだったことを今でも覚えています。

会田誠については、彼の初期作「あぜ道」(1991年)が教科書に掲載されたことに驚いた先生が授業で紹介していたことがきっかけで知ったように思います。

さて、その先生にもらったこの作品集のページをめくると、四肢切断された女の子のヌードがあったり、自殺未遂マシーンがあったり、ミュータント花子というとんでもない漫画が載っていたりとかなりやばく、中学生だった筆者はまずこれをどう母親に隠すかに腐心したものです。

しかし読めば読むほど、作品ひとつひとつにつけられた会田誠自身による解説によって、一見馬鹿げた作品が、既存のイメージに擬態しながら様々な社会の歪みを暴露していることに気づかされます。この妙な毒っ気と、ポップさと、それらの背後にある確かな意思にとても魅了されたことを覚えています。

今考えれば、中学生ながらにこの作品集をすっと受け入れられた時点で、自分は日本の様々なサブカルチャーや教育体制、社会状況についての特殊性を内面化していたのだろうとも、感じさせられます。私たちはその都度の歴史的条件に拘束されながら生きる他ありませんが、少なくともその意味において、会田誠は間違いなく筆者の「同時代人 the contemporary」なのです。

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