大隈重信は、明治時代と大正時代に2度総理大臣を務めたことや、早稲田大学の創設者として知られています。しかしそれ以外にも多くの偉業を成し遂げ、教育や文化の発展にも大きな役割を果たしました。今回はそんな重信の生涯や名言、意外と知られていない逸話、さらに彼の理念や活躍ぶりが分かる本を紹介していきます。
1838年、佐賀藩士だった大隈信保の長男として誕生した重信。7歳のときに藩校に入学して儒教を学んだものの、その内容に反発し退学します。
その後は蘭学を学び、長崎でアメリカ人のフルベッキから英語や新約聖書、アメリカ独立宣言を教えられ、大きな影響を受けました。
1965年には、佐賀藩につくられた英学塾「致遠館(ちえんかん)」の校長にフルベッキを招いています。
明治新政府では、徴士参与職、外国事務局判事、会計官副知事を兼任。イギリスとの交渉や高輪談判の処理、新貨条例の制定などで活躍しました。その後は大蔵省で鉄道や電信の建設をおこない、日本の近代化を進めます。1874年には重信が総裁となって、「ウィーン万国博覧会」に参加しました。
彼の元には伊藤博文や井上馨などの若手官僚が集まり、ともに日本の早期近代化を目指していましたが、憲法制定や議員内閣制の導入などで衝突。1881年、重信は政府から追放されてしまいました。これを「明治十四年の政変」といいます。
その後彼は、今後の国会開設に備えて「立憲改進党」を結成。そして翌年、早稲田大学の前身にあたる東京専門学校を開設しました。当時の入学生は80名とのことです。
1888年に外務大臣に就任しますが、翌年条例に反対する組織による襲撃を受け、右足を切断することになり辞職します。
その後1898年に板垣退助と「憲政党」を結成し、内閣総理大臣を拝命。日本初の政党内閣を組織しました。しかし党派の争いが絶えず、結局およそ4ヶ月での総辞職となっています。
政界を引退した重信は早稲田大学総長となり、欧米の出版物の翻訳をしたり、雑誌や著書を刊行したりするなど、文化活動に励みました。
しかし1914年の第1次護憲運動をきっかけに政界に戻り、第2次大隈内閣を組織します。第1次世界大戦に参加し、中国に「対華21ヶ条要求」を提出しましたが徐々に国民の支持を失い、1916年に総辞職しました。
完全に政界から引退した重信は、1922年、自宅にて死亡。日比谷公園で国民葬がおこなわれ、多くの人々が別れを惜しみました。国民に慕われ、政治、経済、教育、文化など多くの面から日本の近代化に大きく貢献した人物だったといえるでしょう。
1:お金を表すポーズを作った
当時、日本の通貨単位は、両・分・朱・文があり、金や銀、銅貨まで併用していたため、外国人はもちろん日本人にとっても不便でした。
そこで重信は、角が削れない円形の効果を採用し、十進法による新しい単位「円」を採用したのです。
またこの時、親指と人差し指で丸をつくる指のポーズをも考えました。硬貨は丸い円のため、誰もがお金のことを示していると分かるようにしたと説明しています。
2:子供のころはかなりおとなしい性格だった
佐賀藩の上級士族の長男として生まれた重信は、泣き虫でおとなしい子供でした。4歳年上の従兄にぶたれたり泣かされたりしても、反抗をしないおっとりとした性格をしていたそうです。
母親の三井子はこの性格を心配しており、朝夕と神仏に祈念していたと伝えられています。
3:字が汚く、負けず嫌いだったため、生涯筆をとらなかった
子供時代、弘道館で習字に励んでいましたが、成績の悪い生徒が自分よりも上手な文字を書くことに気づきます。すると彼は「書かなければ負けることはない」と字を書くことをやめてしまいました。
筆をとらない代わりに、勉強はひたすら暗記。本を出版する際も口述筆記で対応し、政府予算案ですら丸暗記したそうです。
4:南極探検隊の後援会長になった
晩年は各方面の文化事業に参加し、頼まれたら積極的に援助をしています。1916年、白瀬中尉による南極探検の後援会長に自ら就任し、資金調達に走りました。
また、時間が許す限りさまざまな演説会や訪問客との座談をおこなっています。
5:政界の引退発表は、憲政党本部も知らされていなかった
日清・日露戦争を終えた日本は、資本主義社会の基礎が固まりつつありました。1907年、70歳になっていた重信にも、いよいよ世代交代の波が近づきます。
彼は憲政党本部大会の時の演説で急に政界引退の発表をしたのですが、これは退陣を期待していた党役員にも知らせていなかったそうです。
6:国民葬には30万人が参列した
重信は1922年に83歳で死去しました。国葬にはなりませんでしたが、早稲田大学主催の国民葬には30万人が参列し、通常の国葬の100倍もの人が集まったそうです。
重信は数々の名言を残していますが、後世にまで伝えられているものを見てみると、失敗を恐れてはいけない、そして学ぶことをやめてはいけないという趣旨のものが多いように思えます。いくつかご紹介しましょう。
「高く飛ばんと欲すれば深く学ばざるべからず」
高く飛ぼう、つまり何かを成し遂げようとするのであれば、深く学ぶことが大切だと述べています。
「諸君は必ず失敗する。ずいぶん失敗する。
成功があるかもしれませぬけれども、成功より失敗が多い。失敗に落胆しなさるな。
失敗に打ち勝たなければならぬ。
たびたび失敗すると、そこで大切な経験を得る。
この経験によって、もって成功を期さなければならぬのである。」
これは入学式の演説で重信が述べた言葉です。いわば「失敗は成功のもと」ですね。同じような意味を込めて、
「幾多の失敗を重ねたが、しかし恐縮はせぬ。失敗はわが師なり、失敗はわが大なる進歩の一部なり。」
という言葉も残しています。たとえ失敗をしたとしても、それは後に成長するために必要なものなのであって、負い目に感じることはないということが伝わってきます。
最後はこちら。
「道が窮(きわま)ったかのようで他に道があるのは世の常である。
時のある限り、人のある限り、道が窮るという理由はないのである。」
重信は右足を切断することになっても「その分血行がよくなる」と前向きだったそう。たとえ立ち直れないほど傷ついたり困難に陥ったりしても、まさに生きている限り道は続くのです。
早稲田大学早稲田キャンパス内に重信の銅像が作られたのは、1932年のこと。創設50周年と、重信の没後10年という節目の年でした。壮年期の姿で、シンボルともいえる角帽をかぶりガウンを羽織った姿はあまりにも有名ですよね。
右足を失った後の姿のため、杖をついているのも特徴です。
またこの銅像の顔は、正面ではなく斜めの方向を向いています。これは、重信の妻である綾子の像が置かれている庭園の方角を向いているとのこと。当時はキャンパス内に女性の銅像を設置することが受け入れられなかったため、庭園に置かれた妻と見つめあうように作られました。
ただこの重信像、実は2体目なのです。1体目が作成されたのは1907年、創立25周年の時のこと。宮廷服を着ていたため大学にはふさわしくないとのことで、大隈講堂内に移動されています。
大隈重信といえば、初の政党内閣を作ったことや早稲田大学の創始者というイメージが大きいのではないでしょうか。
しかし本書では、その前の時代に注目。明治が始まったばかりの頃の新貨条例の制定が、もっとも大きな業績であったと述べます。円という新通貨を作り上げた重信の活躍を知ることができる本です。
- 著者
- 渡辺 房男
- 出版日
- 2009-01-09
本書ではなかなか知ることができない重信が参議であった頃の話を読むことができます。タイトルにもなっている円の制定に尽力したり、外国との交渉事にもその能力を発揮したりと、この時代の重信の手腕は素晴らしいものでした。1番輝いていたときと言っても過言ではありません。
日本のために力を尽くす重信の姿は、現代の私たちも見習うべきものがあるでしょう。
新貨条例は、日本の今後を決定づける大切なものでした。明治へと時代は移り変わりましたが、貨幣制度は江戸時代のものを引き継いでいたために、全国で統一した通貨がなかったのです。
そこで重信は造幣局の建設と、円という通貨を作ることを提言します。10進法を基本とする、硬貨を円形にするなど、今までにないものを作り上げていくことはどれだけ大変なことでしょうか。重信の奮闘ぶりや財政面を考える能力には、驚くばかりです。
日本の経済を支えるためにも必要不可欠な幣制改革でしたが、やはり多くの時間がかかりました。どのように円は作られていったか、重信はどう考えていたか、本書を読めば理解できることでしょう。
重信は佐賀藩出身です。佐賀城本丸歴史館では、幕末から明治に活躍した人物を「佐賀偉人伝」として紹介するシリーズを刊行しています。その2番目に発行されたのが本書。
重信の略伝、政治論、教育理念などを簡潔にまとめてあり、重信の生涯と考え方を知るのに最適な作品です。
- 著者
- 島 善高
- 出版日
明治初期の政治体制を整えた人物として、重信は偉大な人物と言えます。日本の近代化にも大きく貢献しました。その業績や、当時の重信の理念を知ることは、今日の日本の姿を考えるきっかけにもなることでしょう。本書は読みやすい文章で重信の思考に触れていますので、その心がすんなりと身に入ってきます。
特に教育に関しては、若者や女性に対して大きな期待を抱いており、国を整えるためには学問が必要だと考えていました。現代は重信の期待に応えられるような社会となっているでしょうか。教育学、政治学について学びたい人にとっても、必読の本です。
大隈重信は明治政府で大きな役割を果たした人でありますが、なかなかその功績は今に伝わっていません。本書では、功罪含めて重信が成し遂げたことをまとめ、再評価を促しています。
特に第一次世界対戦、中国への21ヶ条要求について詳しく論じてあり、政治家・大隈重信像が浮かび上がってくる一冊です。
- 著者
- 木村 時夫
- 出版日
第2次大隈内閣が総辞職した原因を探っていくと、第一次世界大戦にいきつきます。特に中国に対する21ヶ条要求は、国内外から批判されました。しかしこれは本当に間違ったものだったのでしょうか。偉大な政治家であり、孫文や袁世凱とも親交があった重信にはどのような考えがあったのか、本書から読み取ることができます。
福沢諭吉と親しかったエピソードなど、重信のプライベートの様子も描かれ、その実像が浮かびあがってきます。著者は重信の罪も実は罪ではなかったという論調なのですが、本書を読み、重信に対してどのような評価を持つかは読者自身で考えてみましょう。
本書は、演説の得意な重信の言葉を数多くまとめたものです。青年に対して、女性に対して、彼はどのような思いを持っていたのでしょうか。
4部構成になっており、人生・学問を語る、政治・世界を語る、文明を論ず、世界平和のために理想を掲げて、という内容です。ひとりひとりの心に響く言葉が、きっとどこかにあることでしょう。
- 著者
- 出版日
- 2016-03-17
重信が発した言葉がそのまま記載されているので、言葉に力が宿り、とても説得力があります。特に人生・学問についての第1章は、現代の私たちが読むべき内容にあふれていると言ってよいでしょう。
これからを生きる若者たちへ向けた話、仕事も子育ても頑張る女性たちへのメッセージ、何のために勉強していくのかなどを読み進めていくうちに、自分の人生観が変わることもあるかもしれません。
政治の話では、国民が政治を論じ、批判していくことが大切だと語っています。100年ほど前に演説されたものですが、時代を越えて役立つ話ばかり。私たち自身が政治に対してもっと向きわなければならないと、改めて考えさせられます。手元に大切に持って、何度も読み直したい一冊です。
いかがでしたでしょうか。今の日本の姿も大隈重信あってのことかもしれないと思うと、その偉業を知ることは大切なことです。特にその理念にはぜひ触れてみてくださいね。