京都を舞台に描かれる、家族をめぐる伝統と近代の止揚
最近は『おんなのいえ』『先生の白い嘘』『地獄のガールフレンド』など、社会的な視点から「女」を論じる作風で注目を集めている鳥飼茜氏の青年誌デビュー作です。京都を舞台に、主人公であり、家事上手な26歳の会社員・一保と、超美人だがガサツな姉・奈保子と理保子を中心に、三者三様の仕事・恋愛・「家庭」模様が描かれます。
一見すると取り留めがなく、ゆるやかな雰囲気の中で日常が続く作品のように見えますが、登場人物一人ひとりの裏に彼らの「家族」像がきちんと、しかし目立ちすぎない形で存在しています。不倫、家業の後継、予期せぬ妊娠、養子、子の認知、きょうだいとの別離……。これだけ多くの家族をめぐる事件が、一読すると強いメッセージ性も感じず、描かれる京都の空気や雰囲気のように柔らかく流れていく作品です。漫画家・萩尾望都は鳥飼茜の作品を「品がいい」と評していますが、筆者の主張をこれという形で示さず、しかし確かに読者に対して考えを開かせるという点で「品のいい」著作になっていると思います。
京都という舞台や、家を継ぐ、という語がビジネスの面でも、文字通り主人のいる「イエ」を守り継ぐ、という面でも少なからず顔を出すことから、因習的な家族観に翻弄される人々の話とも感じがちな本作ですが、むしろフレキシブルな家族のあり方を提示しているのではないでしょうか。応仁の乱から続いた家を守り、「後継ぎを産むこと」にこだわった奈保子の義理の母は、血も繋がらず、幼い頃から育てたわけでもない「赤の他人」を養子として迎え入れます。家業を継ぎ結婚の勧めをほうぼうから受けるものの、好きな相手に振り向いてもらえない福住は、見合い相手の提案により「愛情を前提としない結婚」を受け入れます。家族をめぐる伝統的・近代的な規範が入り混じりながら、新しいあり方を模索するキャラクターの生き方は、読むたびに新たな発見があります。
内容、構成、すべてをもって、私たちの「前提」を鋭く揺さぶる
近年最もホットなトピックの一つが、LGBTの権利に関することがらではないでしょうか。アメリカ合衆国が同性婚を認め、事実上合法化し、渋谷区が同性パートナーシップを承認した2015年は、セクシュアル・マイノリティの人々が形成する「家族」を考える上で特別な年になったと考えられるでしょう。
しかし、そもそも、同性愛は「認める」「承認する」性格のものなのでしょうか。「認める」としたら、それは誰で、どのようなことをすれば承認したと言えるのでしょうか。この作品は、双子の弟が同性の外国人と結婚したことを「認められない」主人公・弥一と、無邪気にその存在を受け入れる娘・夏菜、そして弥一にとって「弟の夫」であるカナダ人・マイクの交流を描くストーリーです。
「男同士でも結婚できるの? 」「どっちがパパでどっちがママなの? 」といった夏菜の無邪気な問い掛けと、その度にヒヤヒヤしたり、説明に困ったりする「マジョリティ」弥一、どのような問いに対しても優しく、分かりやすく答えてくれる「マイノリティ」マイクのコミュニケーションは、ほのぼのとしながらも私たちの多くが抱えている「男性社会的」「マジョリティ的」な感覚や価値観に鋭くヒビを入れるものです。
また、この漫画の面白さは、漫画の描き方そのものに「ゲイ向け」の視点を挿入していることでしょう。作者・田亀源五郎は、登場人物のシャワーシーンを「漫画でよくあるヒロインのシャワーシーンのようなもの」とし、「それをゲイ向けにやるとこうなるんだよというのを描いて、読んでいる人に『えっ? 』って思って欲しかった」と話しています。1ストーリーだけでなく構成にまで、マジョリティの持つ目線を転倒させるような仕組みが入っている、さすがゲイポルノアートの巨匠、と唸らされる作品です。
からだに縛られ、たまごに悩むという理不尽
家族の機能や構成員の役割など、家族はその時代に合わせて変化を遂げますが、子どもに関する考え方やあり方もまた、大きく変化し続けています。たとえば非嫡出子(法律上の婚姻関係にない男女間に生まれた子ども)の出性に占める割合は、世界的にもここ30年で劇的に増加しています。
交際9年・同棲5年という付き合いをしている29歳のカップルが、この物語の主人公。惣菜屋勤務の「あっちゃん」と弁理士事務所で働く「コーヘー」は、それまで淡々としつつも上手くいっていたのですが、ある日コーヘーに会社の上司・高野さんとの子供が出来てしまう、という事件からお話がスタートします。非嫡出子の割合が増加しているとはいえ、まだまだ非常に低い日本において、「子供」は結婚やパートナーと全く切り離して捉えられる問題ではありません。そして、子供を産み育てるということは、その分誰かがお金を稼ぐ必要があるということ。こうした諸々の問題をめぐって、あっちゃん、コーヘー、高野さんが、人生の選択を行うことになるのです。
興味深いのは、ある種の「理不尽」に直面し、自分の生き方を問い直すあっちゃんと高野さんに比して、コーヘーが多くの場面で戸惑い、流され、なすすべなくたたずんでいるようにしか見えないこと。こうした実情が、「男性の育児参加」や「家事分担」が取り沙汰される現代において、やはり「産む」ことはからだの問題であり、男女同等に考え行動することは困難なのだなと感じずにはいられません。結末、そうした実態の中でコーヘーとあっちゃんが選んだ選択肢に、その不平等を乗り越えるチャンスがあるのかもしれません。