伊能忠敬にまつわる逸話6選!日本中を歩き地図を作った男を知る本も紹介

更新:2021.12.18

伊能忠敬は地図を作った人ということは知っていても、その人生や測量の様子まではご存知ない方が多いのではないでしょうか。実は日本を測量し始めたのは晩年で、その前の人生の方が長いのです。今回は伊能忠敬の生き方、測量の詳細が分かる本をご紹介します。

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隠居後に日本全国を測るため旅した伊能忠敬

伊能忠敬は江戸時代に日本を測量し地図を完成させました。現代の地図と比較しても、かなり正確に海岸線が描かれています。明治以降、ほとんどの地図はこの伊能図を元としています。

伊能忠敬は1745年千葉県の名主、小関家で生まれました。幼名は神保三治郎。10歳までは小関家で祖父母と過ごし、その後は神保家で父と暮らしました。この頃の彼についてはあまり分かっていませんが、親戚の間を転々としていたと考えられています。

1762年、酒造家・伊能家のミチと結婚し、伊能家を継ぐことになります。伊能家があった佐原村は人口5000人ほどの関東でも有数の村で、村民の自治で成り立っていました。伊能家は経済力が大きかったので村に対して発言力を持っていましたが、当主不在で衰退していたため、忠敬に復興の期待がかかります。

この頃佐原村は、不作続きで困窮していたので、忠敬は倹約を訴えました。1781年には名主となり、1783年の天明の大飢饉にも対応。1784年村方後見の役を任じられ、その後の佐原村の不作対策や、貧民救済に取り組んでいます。彼の活動により、佐原村から餓死者が出ることはありませんでした。

1793年には伊能家の利益は1264両まで増え、多くの財産を築きました。1790年頃から隠居を願っていた忠敬は独学で暦学を勉強しています。1794年にやっと隠居が認められ、家督は長男景敬に譲り、翌年50歳になった彼は暦学をさらに学ぶため江戸へ行きました。

天文学者の高橋至時に弟子入りし、「推歩先生」と呼ばれるほど勉強しました。至時は1797年に新たな暦「寛政暦」を完成させますが、地球の大きさや緯度が分からなければ正確なものはできないと、この暦に満足していません。そこで忠敬は正確な緯度1度の距離を確認するために、江戸から蝦夷地までの距離を測ることにしたのです。

そして1800年、55歳の時に蝦夷地へ出発しました。第1次測量です。その後第10次測量まで、日本全国を測り続けます。1816年の最後の測量が終わると地図の作成にかかりますが、難しく時間のかかる作業でした。忠敬は地図投影法を研究しながら地図作成作業を続けていましたが、体調を崩しがちになり、1818年74歳で亡くなりました。彼の死は伏せられたまま、地図は1821年にようやく完成し、「大日本沿海輿地全図」と名付けられています。

伊能忠敬の「測量」にまつわる逸話3選!

1:そもそも彼の測量は「日本地図を作るため」のものではなかった

歴史上誰よりも正確な日本地図の基礎を築いた伊能忠敬ですが、実は日本地図を作ることが彼の本当の目的ではありませんでした。

ある時、忠敬と高橋至時との間で「経度は1度の長さ」を巡る討論がおこなわれました。彼は自分の家から役所までの距離を元にそれを計算しましたが、誤差がとんでもなくとてもじゃないけど参考になりません。 そこで至時に相談したら「江戸から蝦夷地くらいまで調べたらもっと正確なデータが取れる」とアドバイスをもらいます。

しかし当時はロシアなどとの関係から、蝦夷地に軽々しくいって測量などとてもできませんでした。 そこで忠敬と至時は幕臣に対して一計を案じ「蝦夷地の防備のためには今よりもずっと正確な地図が必要です。我々が作りたいと思います」と、地図作成の名目で測量の許可をもらいます。

こうして彼は「経度は1度の長さ」を測るついでに、日本地図の作成という偉業を完成させていったのです。

2:商家時代に身に着けた知識が測量に活きた

商家時代の経験は決して後の測量と無縁ではありませんでした。忠敬は商家時代に江戸への普請工事や利根川の決壊に際する修築工事を経験していますが、ちょうどこの時期は老中・田沼意次の経済政策が進んでいた暁の天明の大飢饉の頃でした。

堤防建築や治水、城郭整備には地理や算術の知識が多く必要です。忠敬はこうした難解な事業を今まで自分が習ってきた知識を用いて解決してきました。彼は商売を続けていく傍らでこうした事業を行い、その功績は幕府にも認められるようになり名誉ある「苗字帯刀」を許されるようになりました。

これは正式に武士として認められたのと同じで、士農工商の江戸社会においては大出世と言っていいでしょう。これによって伊能家は永沢家と同じように村を監視する立場となることができ、婿入りの目的を果たしたのです。  

3:非常に過酷な測量の旅で、仲間が次々に死んでいった

忠敬の測量は結果として日本全国におよびましたが、その最初である蝦夷地測量の時点でその苦労はすでに見えてきます。 簡単に説明すると、測量は毎日40kmを歩く必要があり複数人が歩いたデータを平均して歩くという方法をとっていました。

第2回の伊豆から太平洋沿岸の測量では縄を用いて測量を行いましたが、断崖絶壁を登るなど命を危機にさらす場面もありました。 測量は一番短い江戸測量で約半月、一番長い九州・中四国で1年9ヶ月という、非常に厳しいスケジュールで測量をこなしながら過ごしてきたのです。

さらに忠敬はすでに60歳超えの老体。天候にも左右される過酷な仕事であったのは容易に想像できます。 それに第8回測量の時点で信頼していた副隊長・坂部貞太郎が亡くなり、この時期には佐原村を任せていた長男も亡くなります。

しかし彼にとって最もショックだったのは、まだ測量が始まったばかりの頃に師の高橋至時が病死してしまっていたことです。自分よりも遥かに若い有望な人材が老骨を遺して死んでいくことに、彼はより一層に地図の完成を志すようになります。

伊能忠敬の「地図」まつわる逸話3選!

1:「大日本沿海輿地全図」は日本全土を記しているとは限らなかった

忠敬らの命を懸けた努力によって1821年、ついに地図が幕府に献上されることとなります。その名を「大日本沿海輿地全図」とつけられ、現在「伊能忠敬の日本地図」として認識している地図の原本です。

しかし、先述のように彼の目的は元々日本地図を作ることではなかったので、その図は尺寸や輪郭に特化していて沿岸部の様子はよくわかりますが、彼は内陸部の高低差については決して正確に計測したとは言い切れません。

ただ、彼の偉業はこうした行いを最初に踏みだしたことです。江戸初期までに出回っていた日本地図は、四国が遥か東にズレていたり、山口県が跳ね上がっていたりするなど、大きな違和感の残るものだったため、忠敬の功績はやはり冠絶しています。

現代の地図と比べてもわずかな誤差しかない伊能図は、明治以降のすべての日本地図の参考として現在でも活用されているのです。 

2:忠敬の地図は幕府の危機を呼んだ

高橋至時の死後、彼の役職だった天文方は息子・高橋景保に受け継がれますが、景保はのちにシーボルトに内通したとして斬首になります。 その原因は景保がシーボルトに禁制品である日本地図の写しを渡したからです。

その日本地図の写しがなんだったのかというと、忠敬の「大日本沿海輿地図」です。彼の地図はこの語の幕府の政治や外交戦略においても非常に有用な道具でした。 それゆえ、海外に出回ると最悪侵略される恐れすらあったのです。

当時の日本は異国船打払令を発令しており、外交は非常に危険な状態にありました。彼の地図はこんな場面でも歴史の表舞台に現れたのです。

3:「大日本沿海輿地図」は 西洋諸国に恐れと関心を抱かせた

幕府は忠敬の地図を秘伝のものとし、外に流出させたくはありませんでした。しかし実際は1830年代、幕府の権威に限界が感じられはじめた頃には、彼の測量技術は欧州に伝わっていました。

特にイギリス海軍にとっては忠敬の天文学や測量の技術は、それまで「おかしな髪型で剣を振るうしか能のない劣った民族」という認識を改められさせ、幕末に至る薩英戦争や薩長との軍事同盟のきっかけになったと言われています。 こうした技術がアジアの中で中国や朝鮮と比べてもいち早く民間から現れたことに、日本が明治維新以降に先進国に仲間入りできたことの遠因があるのではないでしょうか? 。

彼自身は決して国の政治などについて複雑に考えていたわけではないのでしょうが、こうした国民の底力や庶民の進出の早さは日本の強みでしょう。

測量を始める前の伊能忠敬の人生とは

伊能忠敬は日本測量を行ったことで有名ですが、それはこの時代であれば晩年ともいえる55歳からでした。では、それまでの彼の人生はどのようなものだったのでしょうか。『伊能忠敬 日本を測量した男』では、彼の前半生を中心に、その生き方と人となりを描いていきます。

著者
童門 冬二
出版日
2014-02-06

忠敬の若い頃は苦難の連続でした。しかしここでどのように生きるかということで、隠居後の生活が変わってきます。飢饉を乗り越え、きちんと業績も残しつつ、将来のために財を蓄えていく生き方は、現代の私たちの参考にもなるものです。

伊能忠敬は決して隠居後に急に勉強を始めたわけではありません。常に人生の中で学べることを吸収しています。本書から分かるのは、下準備の大切さと生涯現役という気持ちを忘れないことです。正しい意見はどんな身分の人からでも聞く、というような上下を差別しない忠敬の人柄も描かれています。ビジネス本としても大いに役立つことでしょう。

日本を測る伊能忠敬の足取りを追う

55歳からの10回の測量で日本地図を作り上げた忠敬。その17年間の軌跡に迫る本が『伊能忠敬の歩いた日本』です。明治時代に使われた地図のほとんどは伊能図を元にしたものでした。彼がそこまで測量に熱意を傾けたのはなぜなのか、測量はどのように行われたのか、その様子を詳細に読み取ることができます。

著者
渡辺 一郎
出版日

先述したとおり伊能忠敬の測量は、まず江戸から離れた蝦夷地までの距離を測るところから始まりました。この時代にそんなことを思うだけでも、常人とは違うと思いませんか?彼の行動は夢のある話だと感じさせてくれますね。

本書では旅をしているときに食べたものや、各藩での対応が書かれていて、面白く読み進められているのです。藩の事情などにも詳しく、忠敬の日記を参考に日本全国の様子が手に取るように分かるでしょう。幕府の正式な援助が始まってからは、藩側にも資料が残るようになったので、本作ではそういった資料も紹介してあります。

今まで誰もやったことがないことを楽しみながらおこなう忠敬の道中をワクワクして読むことができるでしょう。

読みやすく、分かりやすい伝記

『天と地を測った男』は、小学校高学年から年配の方まで楽しめる伊能忠敬の伝記本です。幼い頃の話から分かりやすくまとめられており、しかも内容は詳細で読みごたえたっぷり。特に測量に関する話には半分以上のページが割かれており、その様子を細かく知ることができるのです。図版・写真や資料も豊富に掲載されています。

著者
岡崎 ひでたか
出版日

忠敬の母親は、彼が幼い頃に亡くなってしまいました。その母親が北極星になったと信じていたことが晩年の緯度観測の原点になったこと、利根川の堤防が決壊したときに測量の技術を習得したことなど、本書ではなぜ日本を測量し始めたのかということに関するエピソードも多数紹介されていて、新たな発見をしつつ読み進められます。

測量中の様子では、各藩の対応の違いや、現地住民の助けがなければ測量はなし得なかったことなども書かれています。当時の人々の様子、地域の情勢が読み取れ、測量だけではない知識も手に入れることができるでしょう。

本書の伊能忠敬を見ていると、こんなにも情熱を傾けるものに出会えるということは、どんなに素晴らしいことであろうと思わずにはいられません。現代でいうところのリタイア後の第2の人生。自分らしく生きたいと誰しもが思うはずです。彼の生き方を見習いながら、自分自身も見つめ直すことができる作品です。

伊能忠敬の歩いた四千万歩を知る物語

忠敬を主人公とした物語『四千万歩の男』。伝記ではなく小説なので、史実に加えて面白いフィクション部分も多数盛り込まれています。しかしどこまでが史実で、どこからが創作なのか分からなくなる文体に引き込まれ、全5巻の大作ですがあっという間に読み終えることでしょう。

著者
井上 ひさし
出版日
1992-11-04

二歩で一間という歩幅で日本中を歩き回った忠敬。どこまでもその歩幅を守り続ける姿を、著者は愚直だと表現しています。愚直に生きることの美徳を表現している本といえるでしょう。そうやって歩いた距離は35,000kmとなり、4千万歩にもなるのです。

旅の途中で出会う間宮林蔵、十返舎一九、葛飾北斎、芭蕉ら同時代に生きていた人々との関係は、史実ではないものの、もしかしたら起こり得たかも……と思わせてくれ、ドキドキワクワクしてしまいます。また陰謀に巻き込まれたり、女性関係のゴタゴタだったりと、その道中の出来事は読者を飽きさせません。

蝦夷地測量に多くのページが割かれ、蝦夷と幕府の関係についても詳しく説明されており、とても勉強になります。彼の人生や当時の情勢について学びながらも、物語として大いに楽しめる1冊です。

いかがでしたでしょうか。伊能忠敬のように第2の人生を豊かに過ごせるといいですよね。常に学び続ける精神も見習いたいものです。ぜひいろいろ読んでみてください。

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