岡本太郎は、太陽の塔の製作者として名前は知っている人も多いでしょう。「芸術は爆発だ」という言葉が一大ブームになりましたが、彼は他にも多くの名言を残していて、その生き方はまさに芸術家。岡本太郎について深く知れるおすすめの本5冊をご紹介します。
岡本太郎は1911年、神奈川県にて漫画家の岡本一平と作家・かの子の間に生まれました。小学校時代はなかなか学校になじめず、いくつかの学校に転校を繰り返しています。小さい頃から絵を描くことを好んでおり、迷いながらも東京美術学校へ進学しました。
父親が朝日新聞の特派員として渡欧することになったため、1930年に岡本太郎も共にフランスへ渡りました。そこから10年間、太郎はパリで過ごしています。フランス語を勉強し、パリ大学ソルボンヌ校で美学も学びました。中学の頃から疑問に思っていた「何のために絵を描くのか」という答えを見つけるために、絵と直接的な関係のない民俗学も学びました。
その頃、岡本太郎はピカソの作品を見て衝撃を受け、ピカソを超えることを目標にします。彼の人生観を変えることになったジョルジュ・バタイユとも親交を深めていました。
1940年に日本へ帰国。1942年には太平洋戦争で中国戦線へ出征し、1945年の終戦後に東京に戻り、それから制作に励むようになります。「縄文土器論」「忘れられた日本/沖縄文化論」などを次々と執筆し、発表。その後1953年にはパリ、ニューヨークにおいて個展を催しました。
1970年の大阪万国博覧会では、テーマ展示を依頼され、「太陽の塔」を作り上げます。生命の樹として作られたこの塔は、国際的にも話題となり、永久保存されることとなりました。これは彼の代表作の1つで、現在も大阪のシンボルとして親しまれています。
テレビ放送が始まってからは、バラエティ番組に多数出演。1970年以降にはある番組でレギュラー出演しており、そこで「芸術は爆発だ」という言葉も流行語になりました。
1996年、パーキンソン病による急性呼吸不全で、84歳の時に亡くなります。晩年も精力的に活動し、亡くなる最後まで創作し続けていました。
1:母親が育児をしない環境で育った
岡本太郎の母は資産家の出だったこともあり、世間知らずで家事や育児を全くしませんでした。 太郎が幼少の頃、かまって欲しさに母の創作活動を邪魔したところ、和服の帯でタンスに縛り付けられたという話があります。それほど、育児以外のことに熱心だった女性でした。
2:学校の成績はビリだった
なかなか学校に馴染めず転校を繰り返し、私立小学校である慶應義塾幼稚舎に移り、 そこで恩師・位上清と出会います。その芸術の才能を見込まれクラスの人気者となりましたが、成績は52人中、52番で した。
3:実は小柄だった
雑誌やテレビへの露出も多く、生前はメディアで見かけることも多い人でした。意外にも身長は156cmと低く、当時の男性平均160cmと比べても小柄だったようです。
4:「夜の会」を設立した
太郎は花田清輝とともに、文学と美術分野での前衛芸術について論じ合う「夜の 会」を結成しました。 会の名前は太郎の油彩画『夜』に由来しているそうです。 参加者は埴谷雄高、野間宏、椎名鱗三、安部公房など芸術・文学に精通した人が集まり、「リアリズム序説」「反時代精神」などの研究発表を軸に前衛芸術について意見をぶつけ合ったそうです。
5:ピアノも上手だった
母かの子が弾いていたこともあり幼少期からピアノに触れており、 慶応幼稚舎の頃には独学でショパンの曲を演奏するまでになっていたといいます。 芸術家として有名になった後も仲間の集まりで演奏したそうですが、モーツアルトが大のお気に入りでした。
6:プレイボーイだった
太郎はプレイボーイとしても有名でした。 自由奔放な母の影響を受けてか閉塞的な男女関係を嫌っていたため、結婚をせず多くの女性と関係を持っていたといいます。
7:生涯独身だった
太郎は生涯結婚をしませんでしたが、事実上の妻が平野敏子でした。「夜の会」で太郎と親しくなり秘書となりますが、その後養女として迎えられます。 戸籍上では養女でしたが、時には秘書、時には妻として太郎を支えました。
8:ガラス越しの展示を嫌った
太郎は自分の作品をガラス越しで展示されるのを嫌っており、ありのままの状態で鑑賞するように勧めていました。
国立近代美術館で『コントルポアン』が展示中、作品が傷つけられてしまったこと に配慮して、 関係者がガラス越しで展示することを提案すると太郎は激怒し「傷がつけば、俺が自ら直してやる」 と言ったという逸話が残されています。
9:スポーツが大好きだった
芸術家というとインドアなイメージを持たれる方も多いと思いますが、太郎は逆でじっとしていることが嫌いな性分だったといいます。
特に野球が好きで、巨人の千葉茂・中西太たちと野球に興じたそうです。なお、2004年までパ・リーグに所属していた「大阪近鉄バファローズ」の猛牛をモチーフにしたロゴは太郎によってデザインされました。
10:葬式が嫌いだった
生前、葬式が嫌いであることを公言していた太郎に配慮し、葬儀は行われませんでした。翌月2月26日、太郎の85歳の誕生日にお別れ会として「岡本太郎と語る広場」が開催されます。
太郎の遺した作品が展示されたり、プロジェクターによって太郎のイメージを空間全体に投射したりと、参加者が全身で「岡本太郎」を感じることができるようなイベントだったそうです。
岡本太郎の人生論、名言がこれでもかというほどに書かれている『自分の中に毒を持て』。この本を読めば彼の頭の中が見えてきて、その普通の人とはかけ離れた考え方に、私たちも大きく影響されることでしょう。
そうはいっても天才画家の考え方を、常人の私たちが簡単に理解できるわけではありません。ですが、彼が放つ言葉は、時代を越えて訴えかけてくるものがあります。人生にくじけそうなときや、パワーを貰いたいときに読んで欲しい1冊です。
- 著者
- 岡本 太郎
- 出版日
- 1993-08-01
「ぼくはいつでも、あれかこれかという場合、これは自分にとってマイナスだな、危険だなと思う方を選ぶことにしている。」(『自分の中に毒を持て』より引用)
楽な道を選んでも、それは遠回りであり、全く面白くない人生になると太郎は言います。常に挑戦し続けることは、たしかに難しいことです。しかし、自分と戦うことから逃げなければ、それによってきっと道はひらけます。作中には、日々色んな場面で諦めてしまうことも多い私たちをハッとさせてくれる言葉が並びます。自分自身の生き方を見直すきっかけになることでしょう。
さて、「芸術は爆発だ」というのは、太郎の有名な言葉です。しかしその真の意味を理解している人はどれだけいるでしょうか。本書ではこの爆発という意味についても触れられています。
「音もしない。物も飛び散らない。全身全霊が宇宙に向かって無条件にパーッとひらくこと。それが『爆発』だ。」(『自分の中に毒を持て』より引用)
確かにこれこそが芸術なのかもしれないと思わせてくれる言葉です。宇宙に導かれるということでしょうか。いわゆるドカンという効果音が伴う爆発とは全く違うものであり、彼が発する言葉の奥深さに改めて驚きます。ぜひ彼の残した多くの言葉から、何かを学び取り人生に活かしてください。
『もっと知りたい岡本太郎 生涯と作品』では、岡本太郎の作品や交友関係について、オールカラーで分かりやすく説明されています。写真や資料も多く、目で見て彼の人となりを知れる本。特に作品の中でも絵画に注目し、その後ろにある思想まで読み解いています。彼について知りたいと思ったならば、まずはこの1冊を手にとってください。
- 著者
- 佐々木 秀憲
- 出版日
- 2013-07-01
本書は作品紹介にとどまらず、どういった背景でその作品が生まれたかを言及しているところが特徴的です。特に宗教や思想は岡本太郎の芸術を形作るのに大きな影響を与えていて、そのことが資料を元にしながら語られています。制作背景を知ることで、より彼の芸術作品を楽しめますし、理解できるようになることでしょう。
岡本太郎は交友関係も多く、パリでの10年間に出会った人々は彼の芸術の方向性を決めるほどでした。芸術家や哲学者、詩人、写真家など当時知り合った人々との交流図も作られていて、面白くその関係を読み取れます。本書を読んでいると、岡本太郎の作品を実際見に行きたくなることでしょう。
岡本太郎はどのようにその芸術家像を完成させ、何を思い生きていたのでしょうか。『人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている。』はそんな疑問に答えてくれるエッセイ集です。まずは彼の両親である一平とかの子についての話が取り上げられています。特に母親であるかの子の影響は大きく、彼女こそ岡本太郎という人物を作り上げたと言っても過言ではないでしょう。
そして、彼の女性に対する思いやパリ時代の恋愛模様が語られます。本書の中にいるのは、いろいろな顔をもちつつも、芯の通った生の姿。その姿や言葉に私たちも自分を見直す機会を与えられることでしょう。
- 著者
- 岡本 太郎
- 出版日
- 2009-05-01
どんな子どもでもそうですが、母親の影響というのは大きいものです。太郎の母は、純粋で不器用であり、他の人の目を気にして傷ついている人でした。そんな母を愛し、優しく見つめる彼だったからこそ、常に人に対して優しい人になれたのでしょう。そして人の目を気にする必要なんてないということを訴えます。この両親の話を読むと、太郎の原点が分かり、より理解できるのです。
「人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている。いささか激しい言い方だが、私はそう思う。青春期には未知の人生への感動として、なまなましくその実感がある。しかし中年以降、とかくその意気込みがにぶり、いのちが惜しくなってくる。堕落であり、つまらなさだ。」(『人間は瞬間瞬間に、命を捨てるために生きている。』より引用)
作中に書かれているこの部分から本書のタイトルはつけられています。彼の生き方そのものを表す言葉で、この言葉だけでも彼がどれだけ物事に真摯に向き合い、一生懸命生きていたのかということが分かることでしょう。彼が語る言葉はどれも力強く、訴えるものがあります。本書は岡本太郎の本質に触れることができるエッセイ集です。
『今日の芸術』は、岡本太郎が芸術について語っている本で、最初に出版されたのは1954年です。60年以上たった今でも全く色あせず、「芸術とは何か」に答えてくれる本となっています。
文章は分かりやすく、岡本太郎の別の一面を感じさせてくれますが、その言葉の力強さはやはり彼ならでは。芸術論と言えども、人生論や哲学書としても読み取れるおすすめの1冊です。
- 著者
- 岡本 太郎
- 出版日
芸術に興味があってもなくても、芸術とは何かと聞かれれば返事に詰まってしまうことでしょう。その部分を岡本太郎は、分かりやすく説明して、私たちを納得させてくれるのです。
「芸術はきれいであってはならない。芸術はここちよくあってはならない。芸術はうまくあってはいけない。」(『今日の芸術』より引用)
この言葉にすべてが集約されています。彼の言う芸術とは、感動することや描き続けること、創造的であること、努力を感じさせないことなどです。それを体現している彼は、やはり人間離れした天才だと感じてしまいます。
芸術の歴史や、日本の在り方、日本人についてなど、様々な岡本太郎論が語られていきます。それは時代を越えて私たちに多くの気付きを与えてくれることでしょう。
常にパートナーであり続け、養女となった岡本敏子が書いた『岡本太郎に乾杯』。敏子と彼が知り合った「夜の会」から「太陽の塔」制作までの話となりますが、彼女しか知り得ないエピソードからは本当の姿が伝わってきます。
敏子なしでは、彼の芸術はあり得なかったかもしれません。それほど敏子は献身的に支え続けました。そんな彼女が見た芸術家の姿を、しっかりと感じ取ってください。
- 著者
- 岡本 敏子
- 出版日
敏子の深い愛情のもと、自分の限界を超えて挑戦し続けた芸術家の姿には感動させられます。どんな困難も、そうと知って向かっていく、そして新しいものを作り出していく、そんなことはなかなか普通の人にできることではありません。しかし本書では、人間離れした精神であった太郎の姿を温かく見つめる目線で書かれているので、彼に対しても親近感がわいてくることでしょう。
子どもの絵を大切にし、上手く描くことではなく、描くという情熱を大切にするように伝えていた話や、ピアニストとしても素晴らしい腕を持っていたことなど、太郎が作り上げた芸術作品とはまた違うところのエピソードに心暖まります。敏子の愛に溢れた1冊です。
岡本太郎はやはり人間離れした、芸術家の中の芸術家だと感じさせてくれる本ばかりだと思います。ぜひ機会があれば、太陽の塔など実際の作品を目にしてくださいね。