一口にエッセイと言っても幅広い書き方がありますよね。そのせいか、本人のいつもと違う文体や表現を見られるのも嬉しいですし、その後に最初に出会った作品に再び触れる時も勝手な優越感と深みが増してちょっぴり得した気分にもなります。
最近はウィキペディアで簡単に人物を知った気になれてしまいますが、エッセイを読むという形でその人物を考えて想像するとさらに作品が染み込んでいく。作品を読んだら、“人”を読みに行く。それはきっと特別な実感のある楽しい時間だと思います。
少し変な例かもしれませんが、初めから美味いに決まっている値段の書かれていない寿司屋さんが何軒もあったとして、どこを選ぶかの基準はおそらく自然に技術やサービス含め、きっとそのように店を「食べ」に行くことなのだと思いますし、銀座の会員制のバーにはジントニックを頼んでもバーテンダーの作る味が、一人一人違うジントニックがあると勤める知り合いから聞いたことがあります。
つまり、お客さんはバーテンダー個人のすべてを「飲み」に行っているのですね。話がそれましたが、そんな人物像ごと楽しむ贅沢な寄り道もあるのではないでしょうか。と、とあるエッセイ風な文章に勝手に挑戦した冒頭文、失礼いたしました。
泣く大人
このエッセイは、日記のような文体で書かれています。毎日の記録から著者の目になれたような気になるほど、風景が想像できるような滑らかな文体で、感動しました。
それから個人的な感想ですが、色彩に富む言葉が飛び交っているのにどこか圧倒的なドライさと冷静さが混ざり合っている、というのがひどく女性的に感じます。特有のミステリアスさにも引き込まれてしまいます。また、果物や植物を漢字で書かれていると艶かしい感覚になる気もします。
たぶん最後の御挨拶
タイトルからあるように現時点でのエッセイはこれ以降書かれていません。東野圭吾さんといえば作品数の多さでも有名で、ほぼ毎年新作が出ています。僕は時系列で読む必要はないのに作品の変化も楽しみたいという七面倒くさいクセを持っているので、ぜんぜん追いつけてないです。
このエッセイを読むと、なぜ東野圭吾さんは作品数が多いのか、なぜ時系列で読む必要がないのか、なぜこのエッセイが最後とされているのか、その理由がわかります。前職での科学の経験が今に生きている話、敢えて通勤をするようにしている話など、仕事の裏話も多く、楽しく書かれていますが、読者と作家のルールという項目で、自分の中で作品の答えはある、ただし読み手と答え合わせをしてはいけない、と言ったことも書かれています。
きっとこのエッセイも修正等に時間をかけて答え合わせにならないように発売したはずですし、ユーモアの奥に徹底した仕事への姿勢と揺るぎない志が描かれているように感じます。