私たちの日常には気にも留めないほど小さいけれど、突き詰めたら永遠に答えを探し出せないようなディープな出来事があふれています。今回はそんな知られざる現在思想の世界を鷲田清一のおすすめ本5冊と共にご紹介します。
鷲田清一は1949年京都生まれの日本の哲学者です。専攻は臨床哲学と倫理学。特に現象学や身体論に精通しており、それらに関する著書も多く執筆しています。彼の編み出した有名な主張に「自分の『身体』は『像』(イメージ)でしかない」というものがあります。これは手や足など直接見ることのできるからだの部分は限られており、胃や頭部・表情が現れる顔でさえ直接見ることができない、といったことから組み立てられた主張です。鷲田清一の著書にはそういった「自分」といった実態に迫るテーマも多く取り上げられています。
「かけがえのない存在」という言葉を良く耳にしますが、果たして「じぶん」という存在は実態を伴っているのでしょうか?本書は鷲田清一がそんな「じぶん」という存在の曖昧性についての思考を自由に記した一冊です。
- 著者
- 鷲田 清一
- 出版日
- 1996-07-19
本書の面白さは「じぶん」という一番近くて一番遠い未知の存在をメインテーマにしているところ。人は一人ひとり違うと言うけれど、一人ひとりの独自性は言葉で簡単に説明出来るのでしょうか?「じぶん」は絶対的に「かけがえのない」「唯一のじぶん」だという脆弱な理論を論破することが出来るのでしょうか?鷲田清一が教えてくれる曖昧な「じぶん」のミステリアスな世界に、多くの人が病みつきになると思います。
「『大きくなったらなにになりたいですか?』子どもの時にわたしたちはくりかえし他人にきかれ、また教室で作文させられた。なにかになろうなどと考えなくてすめば、それがたぶんいちばんいいのに。」(『じぶん・この不思議な存在』より引用)
このような日常に溢れる「じぶん」の存在を揺がしてしてしまう「常識」。当たり前のように「お花屋さん」「警察官」などと答えることしか教えられない子どもたち。「ぼくは大きくなっても『ぼく』でいたいです」と自然に答えることが出来ない世の中の窮屈さを鷲田清一は私たちに気づかせてくれるのです。
「かけがえのない存在」とは「他者」の存在によって映し出される光のようなものかも知れません。他者は絶えず流動的であり、自分もまた彼方此方を移動しています。それぞれ動いている一人ひとりが創り出す光と陰が、二度と同じ形を創り出すことがないように、「じぶん」という存在も絶対的な実態を伴うものなのではなく、その瞬間瞬間で流動的に変化し続けているものなのかも知れません。
一度読んでみたあとも時間を置いてまたもう一度読んでみたい一冊です。「じぶん」が変わり続けているのと同じように、この作品もまた読むたびに新しい刺激と興奮を与えてくれることでしょう。
「耳に穴を開け、そこにイヤリングを通します。首に鎖を巻きます。指先の爪にエナメルを塗り、腕には指輪やブレスレットをはめ、そして脇の下の毛を抜きます。肩から膝まで、あるいは踝まで、布で何重にも覆います。その形もかなり複雑です。(中略)ひとはどうして自分の身体に、このようなさまざまな細工を加えるのでしょうか。」(『ひとはなぜ服を着るのか』より引用)
- 著者
- 鷲田 清一
- 出版日
本書はこんな身近で素朴な疑問を徹底的に分析していく一冊です。鷲田清一がファッションと「じぶんという存在」について、専門である現象学の見地から考察を深めていきます。服を着るという行為そのものがひとの存在をどのように照らし出しているのか。服を着飾ることとはひとのどんな心理を投影し得るものなのか。複雑なテーマを取り扱っていますが、文章は語りかけるように優しく、スラスラと読み進めることが出来ます。
「文化」(culture)の語源はラテン語の「耕す」という言葉なのだそうです。つまりファッションという文化も身体の表面を耕し、あらたに整地しなおす行為だと鷲田清一は言います。アクセサリーなどで表面を着飾り、時にはタトゥーなどにより自然の身体へ介入していく。それほど「服を着ること、着飾ること」はひとの生活に欠かせないものなのです。
鷲田清一の考察はさらなる深みを求めて、スピード感を上げていきます。服だけでは足りず美容整形を受けるようになった人々の心理。化粧は目立つためにするのか、隠すためにするのか。知的好奇心をくすぐる考察の数々をぜひ本書でお楽しみください。
『まなざしの記憶』は写真家・植田正治の写真に鷲田清一が文章をよせたフォトエッセイです。「まなざし」というものを大きな軸にしながら、写真と言葉で臨床哲学の思考を記しています。
- 著者
- 鷲田 清一
- 出版日
- 2016-04-23
抜群の思考力と洞察力を持つ鷲田清一の文章。彼の文章は穏やかな語り口なのに、その一つ一つが確実に核心を突いている一級品です。それに添えられる植田正治の写真。彼の写真もまたメインの被写体だけでなく、その周りにいる「ひと」のまなざしまで作品として創り上げられている一級品です。そんな二人の文章と写真が一緒になり、強烈な表現力として読者の心へ届いてきます。
例えば私たちは「美」というものについて、どれくらいきちんと把握しているでしょうか?
「『美』という言葉が人の形容詞に用いられると、『美』は選別の規範になってしまう。これは必然だ。そして人は驕ったり、卑屈になったりする。『美しい顔、美しい身体』これは、『美しい』ということが『ひと』や『女性』の属性としてとらえられるとき、だれも逃れがたいような選別効果を発揮する。男性のほうからの。そういうおもしろさを知っているからだろう。ひとはだれかに向かって気軽に『きれい』とは言うが『美しい』とはなかなか言えないものなのだ。」(『まなざしの記憶』より引用)
鷲田清一が考察するのは「美」という言葉の持つ残酷性。その指摘は非常に的確で、私たちの「もっと知りたい」という好奇心をどんどん駆り立ててくれるようです。
文章からもたらされる「まなざしの記憶」と、写真から漏れ出す「まなざしの記憶」。言葉の語る力と写真の語る力が相乗効果をもたらして、読む人の心に強い印象を焼き付けるような一冊です。読後は知的好奇心が満たされて、豊かな気持ちになるでしょう。
必要なのは強いリーダーがいる社会ではなく、誰もがいつでもリーダーになれるよう準備が出来ている社会。人口の減少、孤独死、無縁社会などの日本の数々の課題に立ち向かうには、どのような市民としての心構えが必要なのか。それらについて考察したのがこの『しんがりの思想』です。
- 著者
- 出版日
- 2015-04-10
選ばれたリーダーが特別なリーダーシップ力で世の中を引っ張っていくのでなく、誰もがリーダーになり得るような社会を作っていかなければならない、というのが鷲田清一の主張。「地域」や「コミュニティ」とはどのようなものなのか。「自立」と「相互支援」の関係はどのようなのか、生活の中でなんとなく受け入れていた言葉や概念の数々をとことん掘り下げて追求している一冊です。
「いまあらためて顧みて、ひとびとが生き存えるためにどうしてもしなければならないこと、たとえば出産の助け、食料の調達、病や傷の手当て(中略)といったいとなみをひとびとはどれだけじぶんたちの手でできるだろうか。ほぼすべてできないし、したこともないのではないか。(中略)つまりは《いのちの世話》の能力を私たちはほぼすべて失っている。」(『しんがりの思想』より引用)
この文章を読んで衝撃を覚えない人がいるでしょうか?当たり前のようにお金を払って《いのちの世話》のサービスを受けてきたのだという事実に驚かない人がいるでしょうか?
そんな複雑化した社会の中で、鷲田清一が提案する私たち市民の理想的な在り方とは一体どんなものなのか、続きは本書でお楽しみください。日本の抱える数々の問題に勢いよく斬り込み、様々な実例を織り交ぜながら上手く「反リーダーシップ論」という立場での考察をまとめ上げています。大満足の一冊になること間違いなしでしょう。
『「待つ」ということ』は鷲田清一が雑誌『本の旅人』に連載していたエッセイを一冊の本にまとめたものです。何もかもがスピーディーで待つ必要がなくなった現代社会。そんな現代社会だからこその「待つ」ことの意味を現象学的立場から考察したのがこの本です。
- 著者
- 鷲田 清一
- 出版日
- 2006-08-31
本書では「待つ」ということを多面的に考察しています。私たちの日常生活はスピード至上主義が蔓延し「待つ」ことを悪いことだと思い込んでしまっているという指摘。さらにカウンセラーなどの「聴く」立場の人たちが「待つ」ことをどのように捉えなければいけないのかという問い掛け。
「カウンセリングや傾聴もまた〈待つ〉を事とする。言葉をむかえにいくのでなく、言葉が不意にしたたり落ちるのをひたすら待つのである」といった、待つことの豊かさを教えてくれる言葉が溢れる内容になっています。
これから先、技術がさらに発展して「待つ」ことが更に失われるようになったら、私たちの心と身体はどのように変わるのでしょうか。人間の身体が動くスピードには限界があります。どんどん社会のスピードが加速していけば、いつしか人間側がスピードを操るのでなく、そのスピードに必死についていかなければいけなくなる日が来るかも知れません。本書は、心も身体も追いつかなくなる前に読んでおきたい一冊です。待たなくてよい社会が何を失ってしまったのか本書でぜひ確かめてみて下さい。
いかがでしたか?今回は鷲田清一の哲学・現代思想が思い切り堪能できる5冊をご紹介しました。お読みいただきありがとうございます。