近衛文麿は総理大臣を3度務め、日中戦争を起こし、太平洋戦争へのきっかけを作った人物です。最悪の総理大臣という評価や、それを擁護する論調などがあり、彼をめぐる意見はさまざま。読者の考えを深められる本を集めましたので、ぜひ読んでみてください。
近衛文麿は、1891年公爵・近衛篤麿の長男として東京都で生まれました。近衛家は五摂家のひとつで、近衛は後陽成天皇の12世孫にあたります。近衛が幼い頃に母が亡くなり、父も近衛が成人する前に亡くなりました。父の後妻と上手くいかなかったことや、父が死亡すると多額の借金を相続することになったことが、近衛の人格形成に大きな影響を与えたようです。
泰明尋常小学校から学習院中等科、旧制一高、東京帝国大学哲学科、京都帝国大学法科大学で学び、新渡戸稲造や河上肇、米田庄太郎らに影響を受けました。1916年に貴族院議員になり、1918年には論文「英米本位の平和主義を排す」を発表。1919年のパリ講和会議の際は、西園寺公望に付き従って参加しました。
1927年近衛は院内会派である「火曜会」を結成し、1933年には貴族院議長に就任しました。1934年にアメリカへ行き、大統領フランクリン・ルーズベルトや国務長官と会見しています。
1937年、近衛は西園寺公望の推薦により、45歳で内閣総理大臣に就任。1937年北京での盧溝橋事件を発端として日中戦争が起こります。事件不拡大を唱えていた近衛でしたが、結局戦局拡大を容認し、和平工作も失敗。1939年に総辞職しました。
1940年に再び内閣総理大臣となり第2次近衛内閣を組織します。同年、日独伊三国軍事同盟を締結、そして1941年には日ソ中立条約を締結しました。一国一党の新体制のために大政翼賛会を結成するものの失敗。同年7月近衛は一旦内閣総辞職し、すぐに第3次近衛内閣を組織します。
しかし日米交渉が上手くいかず、戦争をせざるを得なくなったため、政権を投げ出すように同年10月総辞職しました。近衛は戦争に自信がなかったのです。
太平洋戦争時、近衛は和平運動を起こし反東条派として行動しています。1945年には「近衛上奏文」を天皇に奏上し、早期和平を主張しました。1945年終戦後は、軍部のみに戦争の責任があると述べて自身の擁護をくり返しています。
しかし、日中戦争や三国同盟、大東亜戦争についての責任は免れず、A級戦犯として裁かれることになったものの、出頭する前に服毒自殺しました。54歳でした。
近衛文麿が服毒自殺をする前の晩、実は遺書をしたためていました。
息子と遅い時間まで語りあっていた時、おもむろに今の心境を書きたい、ということで走り書きをしました。その様子からは自殺をするような雰囲気はなく、家族の目からも平静な様子だったといいます。
遺書には、日中戦争以来、自身が多くの政治上の過失を犯したことと、そのことに対して責任を感じていること、だからこそその解決を自身の最大の使命として日米交渉に尽力していたこと、しかし戦争犯罪人としてアメリカの法律で裁かれるというのは耐え難いという内容が述べられています。
さらに、戦争に伴う興奮と激情、勝者の行き過ぎた増長、敗者の過度の卑屈、そして故意の中傷やデマなどの世論もいつか冷静を取り戻し、その時初めて神の法廷でその判決がくだされるであろう、と記されていました。
しかしこの遺書はすぐにGHQに没収され、内容について語ることを禁止されます。
1:初恋相手と結婚した
近衛が一高に鉄道で通っている際、学習院の女子とよくすれ違っていて、その一団のなかに彼の初恋の相手がいました。名前は千代子といいます。
近衛は自分に無いものを持っている彼女に惹かれ、結婚したいと思うようになりました。周りからは「性格が合うかしら」言われましたが、最終的に結婚することになりました。
2:娘たちを芸者のもとに連れて行っていた
近衛は家族に家の外での女関係を平然と娘達に話していたといいます。 仲が良い芸者の写真を娘に見せ、できる芸事や容姿について品定めをして見せたそうです。 ある日は娘達を芸者のもとに連れて行き、いつもと違う父親の姿を見せました。 帰りに娘達に「男がなぜああいうところへ行きたがるか」と言う質問をしました。「わかりません」と答える娘達に「宿題にしておこう」と話していたそうです。
3:近衛家では仮装パーティーがおこなわれていた
近衛家ではおめでたいことがあったときは、集まって皆で楽しむのが慣例でした。 2人の娘が結婚する際に近衛は、洋装婦人やヒトラーに仮装し場を楽しませたそうです。 その後記念写真が新聞に載せられ、当時話題になりました。
4:勝ち負けに関心のない性格だった
近衛は生まれつき、また環境のせいか物事に無頓着であったといわれています。 そのため碁や将棋、トランプなどでも勝ち負けに興味がなかったといわれているのです。 娘達とかるたをやっても自分から取らないため「つまらない」と娘達にいわれてしまったのだとか。
1:乃木希典に注意されるもスルーした
近衛が旧制一高に通っているとき、乃木希典と目白駅前で居合わせたことがありました。 乃木は近衛の服装を見て、「制服があるのになぜ和服を着ているのか」と小言を言ったそうです。
近衛は返事こそすれど、つまらないことは言う気がないと思っていて、スルーしました。 何度注意されようとも和服で出かけていると、乃木は呆れ、何も言わなくなったそうです。
2:運動部のヘッドハンティングをかわしていた
近衛は中学のころ走るのが速く、ランニングの選手をしていました。一高に進むと運動部がその噂を聞きつけ、選手になれと無理やり練習させます。
しかし興味のなかった近衛は、高い地位に居た山川健次郎が認めないからと言う理由をつけました。山川は「五摂家の筆頭を馬のように走らせようとは何たることか」と檄を飛ばし、直談判に行った運動部たちは恐れ入ってしまい、引き下がったといいます。
3:西園寺公望の印象はあまり良くなかった
近衛は大学生になった頃から政治に興味を示すようになり、西園寺公望を尋ねます。しかし、自分のことを「閣下」と呼んでくる西園寺に、近衛は気を悪くしてしまいます。
近衛を閣下と呼ぶのは当然の礼儀でしたが、彼はからかわれたと思ってしまったのです。その後、西園寺のことを尋ねようとしなくなってしまいました。
4:パリの料理をたいそう気に入っていた
近衛がパリに行っているときに、パリの料理を大層気に入ったようです。 日本にいる間は西洋料理はあまり口せず、日本料理を好んでいました。 しかし、パリの料理は口に合ったようで、野菜やソースが特に気に入ったそうです。 パリにいる間、日本料理が恋しくなることはなく、毎日食べても飽きなかったそう。
5:大規模な茶会を開催した
1935年、近衛主催の大きな茶会を開催し、当時の茶道界の話題を独占します。多忙の身にもかかわらず、人任せにせずほぼひとりで計画しました。 彼は、「一番難しいのは席の順番。まちがうと怨まれるからな」と語っています。「特に難しいのは坊さん。執着を捨てた人達なはずだがこれが難しい」と悩んでいました。
近衛文麿の生涯、思想、政治能力など、多くのことを読み取れる本書。近衛に対して擁護も批判もすることなく、淡々と事実を述べていきます。しかしその周囲の人々の日記や書簡などから彼の人物像に迫る描写は、はっきりと近衛の姿を浮かび上がらせるのです。
彼がおこなったことは何だったのか、この時代の政治はどのようなものだったのか、詳しく理解できることでしょう。
- 著者
- 岡 義武
- 出版日
- 2003-03-20
本書での近衛の性格は、優柔不断で無責任にもかかわらず、目立ちたがり屋という少し困った人物。そんな彼が総理大臣となるのですから、大変です。日中戦争を引き起こしてしまい、どうしようもなくなるその心情が手に取るように伝わってきます。軍部やその他の政治家をまとめ上げるには、パワーが足りなかったのではないでしょうか。
近衛は、周りの勢力に逆らうことのできない自身を「ロボット」と表現し、もうロボット稼業はいやになったと3度も内閣総辞職するのです。結局大東亜戦争のきっかけを作ったとしてA級戦犯に指定されてしまう近衛。本当の戦争責任はどこにあるのか、ぜひ本書を読み、考えてみてください。
本書では、近衛文麿のことを教養主義的ポピュリストだと言っています。これは近衛の大衆人気がとても大きく、それに押し上げられるように総理大臣へとのぼっていったからです。
どのようにして彼の人気は作られていったのか、その結果どんな政治を行うことになったのかについて書かれており、読みごたえがあります。
- 著者
- 筒井 清忠
- 出版日
- 2009-05-15
近衛は長身で見た目も良く、知的であり、貴族という家柄も持ち合わせていました。これを本書では「モダン性」と「復古性」を持っていたと考え、これにより国民人気が高くなったとしています。さらには新聞がこぞって近衛一家を紹介し、そのフィーバーぶりを煽ることになったのです。このように大衆人気は作られたのかと、新たな発見ができることでしょう。
近衛は国民の期待に応える形で政治家になりましたが、地盤は何も持たず、国民の意向に沿った政治をおこなうことしかできませんでした。独自の政策も出せず、大衆や軍部の言われるがまま戦争へと突き進んでしまった彼に対して、戦後のマスメディアは手のひらを返したように戦争責任を問う記事を書きます。
マスメディアに翻弄された人生を送った近衛を見ていると、かわいそうな人物に感じられ、また違った視点で彼について知れる本です。
近衛について、彼は共産主義者だと言い切っている本書では、近衛文麿の周囲も共産主義者で固められていたと言います。
「近衛は共産主義者として、一九一七年のロシア革命が成功した同じ土壌、すなわち敗戦によって生じる経済破綻と精神の荒廃という共産革命のための土壌をつくるために対米戦争を目論んでいた。」(『近衛文麿の戦争責任』より引用)
というように、共産国家を作るために近衛は戦争を望んでいたという論調で話が進んでいきます。近衛や当時の政治家、歴史について、違った目線で見ることができ考えさせられる本です。
- 著者
- 中川 八洋
- 出版日
- 2010-08-10
「近衛文麿の実像とは「優柔不断」の逆であって、独断と暴走的な実行力をもった政治家であった。「優柔不断」は"偽情報"である。」(『近衛文麿の戦争責任』より引用)
これを聞いて、どう思うでしょうか。近衛は優柔不断だというのは通説として定着していますが、実際の彼は自分の思想に基づいて行動し、日本を敗戦へと導いたというのです。
近衛が実際に共産主義者であったかどうかは分からず、本書を読んでどう考えるかは読者自身に任せられています。こういう考え方もあるのだということを知ることは大切ですし、違う意見の本を読むことでさらに知識を深めることができるでしょう。
大政翼賛会とは近衛文麿が組織したもので、一国一党という新体制を実現させるために作られました。本書では、大政翼賛会が作られるまでの歴史と、その失敗について書かれています。ファシズムと結び付けられることが多い大政翼賛会ですが、実際はどうなのかに迫る作品です。
- 著者
- 伊藤 隆
- 出版日
- 2015-12-11
戦前の日本がファシズムだとか、ファシズムの代表が大政翼賛会だとか言われることがあります。しかし大政翼賛会は作られたと同時に骨抜きにされてしまいます。もしその時代が一国一党を思想とするファシズムだったとすれば、大政翼賛会が失敗することはなかったでしょう。話が難しく感じるかもしれませんが、数多くの資料にあたって書かれているので、とても勉強になります。
近衛が作り上げようとしたものは何だったのか、そしてどうして阻まれることになったのかについて学ぶことで、戦前の政治の歴史もよく分かるはずです。
本書は、近衛文麿の手記をまとめた本です。「最後の御前会議」「平和への努力」「近衛上奏文」「世界の現状を改善せよ」「戦後欧米見聞録」「英米本位の平和主義を排す」が紹介されています。本人の声で語られているので、彼が考えていたことがストレートに伝わってくることでしょう。
- 著者
- 近衛 文麿
- 出版日
- 2015-07-23
「戦後欧米見聞録」は1919年に西園寺公望についてパリ講和会議に赴いた際の記録です。旅行記としても面白く読むことができ、また近衛の外国の情勢を見極める目に驚くことでしょう。第一次世界大戦後の荒廃状況や、そのなかに見えてくる平和な部分など、さまざまな諸問題を書き記しています。
「近衛上奏文」も、近衛を語るときには欠かせない文献です。彼が太平洋戦争に対してどう考えていたのかを理解することができます。どれも近衛自身が書いたものですので、嘘偽りがないと信じても良いでしょう。ぜひ近衛文麿の人物像を知る手がかりとしてください。
いかがでしたか。近衛文麿についてどんな評価を持ったでしょうか。戦争責任がないとは言えないでしょうが、そういう時代に総理になってしまったことで仕方がなかったとも考えられます。いろいろ思いを巡らせてみてくださいね。