戦後初めての日本人ノーベル賞を受賞した湯川秀樹。混乱と動乱の時期に物理学で栄誉を獲得した彼は、どのように日本を見、そして人間としてどのように人生を全うしたのか。彼の著書を中心にその生き様を探っていきます。
湯川秀樹は1908年に生まれ、1981年に没した、日本を代表する物理学者です。彼は日本人で初めてノーベル賞を受賞しました。
受賞の年は1947年。日本では終戦直後、敗戦の影響からまだ日本人が立ち直れていない時期でした。そんな折、日本人として栄えある初のノーベル賞受賞。日本国内は歓喜に沸き、湯川はその実績で日本人に勇気を与えたのです。
湯川秀樹は学者としての高い目標を掲げ、そして日本の未来に希望を見せてくれました。今回は、天才と呼ばれた彼の考え方や生き様を、著書を中心に紹介していきます。
1:代々続く学者の家系の生まれ
初名を小川秀樹といい、後に医者である湯川玄洋の娘のスミと結婚し婿養子となって「湯川秀樹」と名乗りました。
小川家は代々学者の家系であり、湯川も幼少期から学問に深く親しみました。彼の兄弟も現代では学会では著名とされる人物ばかりです。長兄・小川芳樹は父の後を継いで冶金学・地質学者となり、次兄・貝塚茂樹は東洋史学者となりました。
四男・小川環樹は中国文学者として『論語』『史記』『孟子』等の思想史や出土資料に着目した研究法を確立させ、漢和辞典の監修にも携わっています。
それぞれが各分野で権威を言われる立場に立つ人物で、湯川も現代にいたるまで物理学を牽引する立場となるのです。
2:実は学者への道を閉ざされかけていた
天才と称される湯川秀樹ですが、幼少期は他の兄弟と比べて出来が悪いと言われていました。その理由は、彼はあまりしゃべるのが得意ではなく、何か面倒なことがあったら京都弁で「言わん」と言って逃げていたためです。そのせいで、「イワン」というロシア語のあだ名をつけられていました。
ひ弱な性格でもあったことから、柔道部の先輩からはよくいじめられていたそうです。こうしたトロいと言われてしまうような性格であったことから、父である小川琢治は何を考えているのか分からないといって、卒業したら大学ではなく専門学校に行かせようと考えていたこともあるのだとか。
しかし、湯川は旧制中一の時点で3年の数学の授業をおとなしく聞いているほど勉強が好きな学生でした。このように、元から能力が高く学究肌だったのです。彼の父がもし社交性の低さに早々にさじを投げていれば、天才物理学者は生まれていなかったのかもしれません。
3:伝説の教授の教えと友人と切磋琢磨した大学時代
小川家は兄弟ともども京都帝国大学に進学しそれぞれの道を進みました。湯川が進んだのはやはり物理学でした。彼の同級生には同じくノーベル物理学賞をとることとなる親友でライバルの朝永振一郎がいました。2人は京帝大時代、日本の数学界隈では伝説といわれている岡潔教授の講義を聴講していました。
湯川は高校時代の経験から自分は絶対数学者にはならないと決めていましたが、彼にとっても岡潔の授業は大変すばらしく新鮮な空気の漂うものであったといいます。
彼らはのちにそれぞれが大学に残って研究を続けましたが、朝永はあっさりと進路を決めて順調に進んでいるのに対し、自分はいつまでたってもうだつが上がらないと嘆いていたそうです。
4:中間子論を提唱し、アインシュタインやオッペンハイマーと交流を持つ
湯川は中間子論を発表し、それが後に証明されてノーベル物理学賞を受賞しました。こうして彼はアメリカに渡ることとなり、コロンビア大学客員教授となりました。これはオッペンハイマーの誘いに応じていたわけなのですが、そこですぐにあのアインシュタインが湯川の研究室に訪ねてきます。
アインシュタインは湯川にとっては憧れの人でした。しかし彼は部屋に入るやいなや湯川の手を握り「原爆で何の罪もない人を傷つけてしまった……すまない」と何度も言い肩を震わせて泣いていたそうです。
アインシュタインが唱えた相対性理論は、当時各国で注目されていた原爆の基礎となっていました。20世紀最高の頭脳と言われていたアインシュタインですが、彼自身にとって彼の業績は決して誇れるものではなかったのです。
これは湯川にとって、1人の人間として科学とどのように向き合っていくのかという大きな転機となりました。
5:物理学だけでなく短歌、漢学もたしなんだ
湯川の祖父、小川駒橘は漢学に精通していました。そのため、祖父の教えをうけた湯川の兄弟は東洋史や中国文学を牽引する立場となっています。湯川も幼少期は漢学の素養を身につけさせられていました5、6歳の時には祖父によって漢学の書籍を読まされていたそうです。
そのおかげもあり、湯川は物理学だけでなく短歌をたしなんでいます。1950年の天皇主催の宮中歌会始で「春浅み藪かげの道おほかたは すきとほりつつ消えのこる雪」と詠っています。平和への祈りも込めて、広島の平和公園には「まがつびよふたたびここにくるなかれ 平和をいのる人のみぞここは」という短歌が刻まれています。
彼は理論物理学という抽象的な学問にて成功を収めましたが、その基礎となったのは漢学の思想哲学史的な考え方だったのかもしれません。
6:彼の名前が単位の名前になりかけた
我々が普段使う長さの単位はどこからどこまでが常用されているでしょうか?日常で生活する上では、長い方はキロまで、短い方はミリまで知っていれば十分でしょう。もっと微細なものでもマイクロまでいけばもうだいたいの人工物はすべてカバー可能のはずです。しかしそのさらに、ナノ、ピコと続き、次にフェムトメートルが入ります。
このフェムトメートル、実は湯川秀樹の功績を元にしてユカワと名付けようという動きがありました。この単位は要するに原子核などに使うことから、この功績は当時エンリコ・フェルミと湯川に帰するものと考え「フェルミ」「ユカワ」という呼称を用いられていたのです。
しかし現在ではこれはすでに過去の話であり、フェムトメートルという呼称は物理学会でも完全に固定されたものとなっています。
7:因果律の破れをも提起した
湯川の学術的な功績は中間子だけではありません。実はタイムマシンなど時間移動にもかかわる因果律の破れについても提起していたのです。
これも非常に難しい話なのですが、簡単に言うと、我々が現在生活している世界やそこにある物質というのは量子というものが突然変異を起こして発生したもので、そこには意識という過去から未来へという一定方向にしか時間が進まない因果律が成立しないというのです。
そしてこれを応用すると、因果律を超越した存在である人間らは時間空間を超えることも可能である、つまり時間旅行も必ず達成できるだろうというのが因果律の破れになります。湯川が提起したのはあくまでも理論上の話で、しかも現在に至るまで証明はされていません。
しかしあのスティーブン・ホーキンス博士もこれと同じようなことを述べているように、未だに多くの科学者が我々人類が未知の世界に到達できる可能性を追い続けています。
『目に見えないもの』は、湯川秀樹の著書では珍しい、専門の物理学に焦点を当て、素人にも分かりやすいかみ砕いた言葉でエッセイ風に書かれています。物語は神話から、昨今の物理学の現場事情、そして枠を越えて哲学や生理現象、心理まで多岐にわたっています。
- 著者
- 湯川 秀樹
- 出版日
- 1976-12-08
学問や教授という言葉を聞くと非常に硬いイメージを思い起こしてしまいがちですが、彼のこの『目に見えないもの』を読んでいると、明らかに柔らかい物に包まれる安心した気持ちにもなってくるのです。それは彼の持つ人間性にも関係しているのでしょうか。
しかし湯川の科学に対する率直な想いというのは、しなやかで強いものを感じざるを得ません。
彼の他の著書を見ても、決して偉ぶった学者然とした人物は見当たりません。それどころか優しい人柄が顕著に表れてくるのです。しかもその中には自分の学問に対する信念というものがあります。硬軟使い分けるのが非常に上手い人なのでしょう。
この書でも父親が子供に諭すように、丁寧かつ分かりやすい文章で科学を解説しています。だから、学問を志す者だけでなく、少しでも知に対して興味のある人におすすめの内容とも言えるでしょう。
学者としての男の生き様を描いた作品。湯川秀樹の世の中に対する真摯な姿勢を垣間見る事が出来ます。
本書では、湯川秀樹が語り手となり、工学博士である市川亀久彌(いちかわ・きくや)が聞き手に徹し、様々な歴史上の人物の批評をしていきます。この本は単なる人物伝に限らず、創造性から見る天才として人物を考察する所が面白い点でしょう。考察する対象の人物には弘法大師や石川啄木、ゴーゴリ、ニュートンが挙げられています。
- 著者
- 湯川 秀樹
- 出版日
「単芸型の人というのは、一つのことしかできないけれども、その一つが偉大な仕事になっているという場合がありますね。」(『天才の世界』より引用)
上記は弘法大師(空海)を考察した時の市川の感想ですが、弘法大師は逆に多芸型の人間で様々な事業を起こした天才であると湯川は語っているのです。ここでは、天才には多芸型と単芸型の2タイプが存在すると述べられています。
弘法大師と比べると、湯川などは完全に単芸型の天才だと思わざるを得ません。他の湯川の著書を見るに、自分でも自分の事を「アンバランスな人間」と語っているのです。つまり、多くの事を器用にこなすことは苦手だけれど、自分の得意な一つの事に全力を傾ける事が出来るという事を意味するのでしょう。
ある種不器用とも言えるこのタイプの人間は、他方で一つの大事を成し遂げる高い可能性を秘めているのではないでしょうか。湯川も物理学という分野において、ノーベル賞受賞という大きな成果をあげました。
弘法大師というのは何事も平均以上にこなす万能型の人間であったようです。宗教という一つの目的にこだわらず、学問では哲学を学んだり、詩を書いたり、社会面では池を掘ったり、橋を架けたり、しかも語学や筆法にもその才能を存分に発揮します。
ここから考えられるのは、人間というのは持てる創造性を一方に集中させるのか、それとも他方へ分散させるのかで異なるということ。そして本当の天才というのは、分散された創造性を、一人の人間の事業としてまとめ上げていく、このまとめる力にこそあるのでしょう。
「感受性は、一般的な条件として、ひじょうにだいじだと思いますね。」
(『天才の世界』より引用)
天才が天才たる条件として、湯川は決して知性は重要な指標ではないと語っています。現在でも勉強や仕事が出来る人を指して「頭が良い」、「賢い」という表現がされてます。しかし、この書で挙げられた何人もの天才に対する考察を読んでいると、頭の良さや賢さというものより、もっと人間的な感情を全面に出した、泥臭い人間たちが数多く登場することを知るのです。
そして彼らは内に秘める人間らしい感情を抑えずに、社会に対して放出していく。天才を測る指標に、この感情の表現力が非常に大きなウェイトを占めているのではないでしょうか。
天才かどうかは別として、人間である以上、根本に備えているべきは、やはり人間臭い人間味のある感情である、ということを感じられる一冊です。
世の中は「なぜ?」という現象で満ちているでしょう。
もちろん、そんな「なぜ?」を全て解決する事は出来ませんが、その疑問に答えるヒントを与えてくれる方は世の中にたくさんいるのです。その一人が『宇宙と人間 七つのなぞ』の著者、湯川秀樹といっても過言ではありません。
- 著者
- 湯川 秀樹
- 出版日
- 2014-03-06
お子さんを持つ方には良くお分かりかと思いますが、子供はこの「なぜ?」に対して率直に疑問をぶつけてきます。例えば、「なぜ地球は青いの?」とか、「なんで太陽は明るいの?」といった素朴な疑問。
よほど時間に暇がある人でない限り、こうした子供の疑問に対して真剣に悩み、真剣に答えようとする大人は少ないでしょう。私たちは成長するにつれて、忙しさを理由に「なぜ?」という疑問を心のどこかにひっそりと閉じ込めてしまうのです。
しかし、湯川秀樹はこうした疑問に体当たりで挑もうとします。愚直とも言える、彼のこうした知への果てしない欲求こそ、彼の魅力でもあり、読者に感動を与えてくれるのでしょう。
『宇宙と人間 七つのなぞ』では、単に宇宙に秘密、人間の神秘に焦点が当てられているだけではありません。宇宙と人間をつなぐありとあらゆる物に疑問を呈して、それを解決しようと努める一人の男の物語とも言えるのです。
物理学でノーベル賞をも受賞した経歴のある湯川ですが、彼でさえ、子供から投げかけられる率直な疑問に悩んでいる描写があります。それだけ宇宙、ましては人間自体に、解明できない謎がたくさんあり、謎が多ければ多いほど私たちの探求欲を刺激してやまないのです。
大切なのは「なぜ?」と思う素直な思いに背を向けずに、自分なりに、答えが見つからずとも、問題の解決に真剣に挑むことでしょう。この本の中での湯川の探求と挑戦は、私たちにその勇気を与えてくれる、とても力強いメッセージが含まれています。
今日正解だと思っていた事が、明日には不正解になるかもしれない。学者たちの日々の生活では、こんな恐怖が夜な夜な頭をもたげ、見る事すら出来ない不透明な恐怖に苛まれているのではないでしょうか。
それだけ一つの事を探求し、真実を見出すことは、同時に自分の背後から猛スピードで追いかけてくる追随者から必死で逃げていくことでもあるのです。
- 著者
- 湯川 秀樹
- 出版日
- 2011-01-25
湯川秀樹は、常に自分の事を客観視できたのだそう。物語の途中でエピローグを差し挟むという珍しい執筆方法をとることもある彼ですが、そのエピローグの中であえて一人称を「わたし」では無く、三人称の視点から語った物語が載せられています。この文章構成を見るだけでも彼がどれだけ自分自身を客観視していたのかが分かるのです。
「バランスの取れていない少年だった。(中略)もしこのアンバランスさが私になかったら、どういうことになっていたろうか。(中略)物理学の研究者として割合早く一人前になれた理由の一つとして、この不調和な、かたよった人間形成が大いに力があったのではなかろうか。」(『旅人 ある物理学者の回想』より引用)
作中の上記の文からも分かる通りでしょう。
ここで思う事は、バランス、バランスと声高に唱えられる昨今ですが、何か一つ事を成し遂げるにはアンバランスな感覚も決して悪くないということです。むしろアンバランスな感覚こそ、大事の成就には欠かせないのではないでしょうか。アンバランスと言えば聞こえは悪いですが、良い意味で言うと一つの物事に集中できるということでしょう。
湯川秀樹の特徴は自分への客観視と前述しました。彼は自分を客観視する事で、人付き合いや社会生活への適合への不器用さを悟り、一心不乱に勉強に専念したのです。アンバランスな性格と自身を深く分析したことが、物理学への情熱へと転移したのでしょう。彼が天才と呼ばれる理由は、知識や造形に対する深さではなく、アンバランスさから来る学問への徹底した熱意にこそあったのではないでしょうか。
この『本の中の世界』では、主に湯川秀樹がこれまで愛読してきた書物を紹介していく内容となっています。しかし単なる書評に終始せずに、湯川の生きてきた時代背景や生き様も合わせて書かれている点が大きなポイントと言えるでしょう。
特に、湯川の生きた時代の日本には研究に対する理解がそれほど進んでいなかったのでないかと感じられます。そして時代を経るに連れて、徐々に理解が進めばよかったのですが、資本主義の到来と共に、研究に対しても成果主義が求められるようになったのは少し物悲しい気持ちを抱いてしまうのです。
- 著者
- 湯川 秀樹
- 出版日
さて、本書で紹介される彼の読書遍歴ですが、荘子から始まり、源氏物語、ナンセン伝、ロシア小説、果てはギリシャ記まで、中国からヨーロッパまで世界中を巡り巡っています。特に彼の中国古典に対する造詣の深さは頭が下がる思いになるでしょう。
俯瞰してみると、彼の紹介する本は人間に関する物が大半を占めています。物理学者ですが、物理学に関する本が一つも紹介されていないことがまた面白いのです。紹介されている本は人間をテーマに書かれたものが多い事から、本を読む目的というと感受性を養うためにあると言っても良いでしょう。
学者だから知識や理論が必要かと言えば、決してそれだけではないのだと感じます。天才学者を養成してきたのは、高い地位でしか得られない崇高な知ではなく、あくまで人間らしい泥臭い感覚にこそあったのでしょう。この『本の中の世界』では、それが顕著に表れ、非常に読み応えのある内容に仕上がっています。
いかがでしたでしょうか。
湯川秀樹という学者の人となりが少しでも見えてきたのではないでしょうか。世間の学者像からイメージできる学者としては一種異様とも言える湯川。しかし、だからこそ彼は物理学の世界で頂点に君臨する事ができ、また後世から天才とまで呼び名されるほどの人物になったのではないでしょうか。
少しでも湯川に興味を持った方は、他にも良書がたくさんあるので、ぜひ一度お手に取って読んで頂ければと思います。