白洲次郎についての本5選。日本を背負った男の真髄を知る

更新:2017.5.30

戦後、混迷を極める日本で、最大の権力を握った男、吉田茂に最も近かった白洲次郎。実直に、ひたすらに日本の国益と未来を考えた男が魅せる生き様。現代にも通じる日本男児の男らしさを、白洲次郎の著書を通じて紹介していきます。

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戦後の誇り高き日本獅子、白洲次郎

「いけすかねぇ野郎だ」という吐き捨て言葉で有名な白洲次郎。終戦直後、GHQや戦勝国の勝手な要望に断固として異を唱え、日本の国益のために奔走した人物として知られています。

占領軍配下の日本当時にあって、戦後の首相吉田茂と最も距離が近かったとされています。その中で吉田と共に、非常に強力な連合国最高司令部と闘い、戦後日本の礎を築くことに貢献するのです。熱く、風の様に颯爽と生きた白洲次郎という男。「男は中身だ」という事をまざまざと知らしめてくれるその生きざまに現代に生きる私たちも見習うべき点は多いでしょう。

今回は、日本の占領時の実情に迫る歴史背景と、日本男児の実直で清廉な生き方を同時に学べる、白洲次郎の良著を紹介していきたいと思います。

白洲次郎について意外と知らない6つの事実

1:少年時代は手のつけられない不良だった

白洲家は摂津国三田藩の学者の家系で、父・白洲文平は白洲商店という紡績業を営む企業を興して当時莫大な利益をあげていました。彼は実業家であり豪放な性格でもあった文平の子として生まれ、父の性格をしっかりと受け継いで「傲慢」と言われる手のつけられない不良少年へと成長します。

当時は、白洲がいつ問題を起こしても対処できるように菓子折りが常備されていたそうです。父は彼に通常では考えられない額の小遣いを1年分だと言って渡したり、中学生なのに車を買い与えたりするなどし、凄まじい金銭感覚で育った白洲はやがて親でも手に負えなくなりました。

そこで父が考えたのが、後に本人が「島流しだった」というイギリス留学です。

2:終生の友となったストラフォード伯爵

彼の父が選んだ留学先はイギリス・ケンブリッジ大学です。しかしこれまでろくに勉強していないため、入学時の成績は当然ながら最下位。しかし彼はそこで猛勉強し、2年後にはトップクラスの成績になりました。

白洲を最も変えたのは、彼と同じく車を愛した同級生の、7代目ストラフォード伯爵・ロビン・ビングです。ロビンはおとなしい性格で、白洲が喧嘩に遭ってしまった彼を助けたことから2人の出会いは始まったと言われています。またロビンは、伯爵なだけあり紳士的で礼儀に溢れた人物でした。2人は大学時代に愛車のブガッティやベントレーにのって大陸横断旅行を楽しむ仲になりました。

白洲が78歳となった時、2人は最後の対面を果たしています。それから4年後にロビンが先に亡くなるのですが、白洲はその連絡を息子から聞いた際、まだ言い終わらないうちに「ロビンか?……ありがとう。」と全てを察し、それだけ言って言葉を止めたといいます。

3:留学で英語に磨きをかけ、ついには英語が日本語よりもうまくなる

白洲次郎といえばネイティブレベルの英語を巧みに操ることで知られていますが、彼はそもそも日本にいた頃から家庭教師についてネイティブの英語を習っていました。そのため、イギリスに渡った時点で英語自体にはさほど問題はなかったのです。

そこに加えて計9年にも及ぶ留学生活を通し、英語に磨きをかけていきました。親友のロビンに多くの上流階級の貴賓を紹介してもらっていたこともあってか、彼の英語はイギリス英語であり、オックスブリッジ独特の訛りがありました。

また彼は子供を叱るときに、英語を使ってまくしたてていたというエピソードがあります。それだけ英語が身に染みていたのでしょう。

4:日本実業家との対立の原因は、外資の日本進出を助けようとしたから?

白洲はやがて吉田茂の側近として、商工省の下局である貿易庁の長官になります。そこでは汚職の根絶などを目的に風紀一新を図った政策で腕をふるい、「白洲三百人力」と称されるまでになりました。間もなく貿易庁は通商産業省と形を変え、これが現在の経済産業省となるのです。

彼は外資企業の進出に非常に積極的で、留学時代の人脈をフル活用してイギリス企業の日本進出を助けました。これが日本経済を支える第1歩になると考えていたからです。しかし、国内企業の進出を阻むかのような彼の行動は、他の官僚や実業家たちにとっては信じられないことでした。

当時白洲は、連合国軍によって返却された日本製鐵広畑製鉄所の処置をめぐって、永野重雄と意見を争っていました。白洲は外貨獲得のためにあっさりイギリス企業に売ってしまえと言いますが、永野は復興に必須の企業をどうして外資に渡せるものかと頑迷に否定。最後は白洲が泣いて謝り買収は取りやめになったとされています。

また日本航空設立の際には、アメリカ系の航空企業を建てようとして当時の社長らと対立していますが、最終的には白洲が折れて企業設立を諦め、無事日本航空が運航を許可されました。

当時の日本企業は、公職追放などの影響を受けて著しく危うい状態にあり、白洲にとっては外資を呼ぼうと画策することで日系企業を大きく刺激しなくては、日本が世界の中で取り残されると感じていたのかもしれません。

5:サンフランシスコ平和条約でのやり取りの真偽

白洲は、日本は敗戦国ではあるがアメリカの奴隷になったわけではないという主義のもと、決して米軍に媚びを売ることはありませんでした。「従順ならざる唯一の日本人」という彼の評はこの態度からきています。

1951年、白洲は吉田茂のサンフランシスコ平和条約調停に同行します。この時に吉田が書いた演説文が全て英語で、さらにGHQに対する美辞麗句が連ねられていることを見て激怒します。吉田らは慌てて演説分を全て日本語に翻訳しなおし、当日は長さ30cmにも及ぶ巻物を持参して日本語で演説文を読み上げました。

しかし、実は白洲が激怒する以前に、演説文は英語と日本語の2種類用意されていて、吉田が前もって白洲らに相談した結果、日本語を採用したという説もあります。いずれにせよサンフランシスコの地では長い原稿が台にあがり堂々と日本語が読まれ、「吉田のトイレットペーパー」と呼ばれるようになりました。そこに白洲がどれだけの貢献をしたのかはわかりませんが、これによってアメリカと日本は対等な立場に立つことが世界中に認められたのです。

6:東北電力の初代会長、そして超大手企業の役員・顧問を歴任した

東北電力の初代会長は、白洲次郎です。彼はすでに官僚時代から公営企業の民営化を進めており、企業の競争を促していました。会長となったのはサンフランシスコ平和条約の直前からですが、東北電力の要となる只見川の水利権を獲得するなどして、東北電力が9大電力会社の一角として大きく繁栄する基礎を築きました。

他にも大沢商会、マルハニチロ、ウォーバーグ証券、日本テレビといった超大手企業の会長や顧問を歴任し、日本企業の発展に貢献していきます。白洲は決して自分で企業を立ち上げることはありませんでしたが、交渉力に優れており、表に出ずに交渉を進めるような人物であったのでしょう。

白洲次郎こそが日本男児の持つ魅力を体現している

『風の男 白洲次郎』では、戦後の混乱期における政治の場で、熱い情熱を持ったひとりの男の背景が語られています。特に他の白洲関連の書籍と違い、この書では、日本国憲法誕生に至るまでの秘話に重点が置かれ、吉田茂との濃密なやり取りや、GHQとの果てしない折衝がより濃く描かれています。

著者
青柳 恵介
出版日
2000-07-28

物語序盤にあるこんな描写に白洲の人柄がよく表れています。

「しかし来訪と言っても、それは一風変わっていて、鶴川村で開拓して獲れた大根や人参を新聞紙で乱暴にくるみ、ドサッと玄関に放り込み、そのまま立ち去っていくだけである。」
(『風の男 白洲次郎』より引用)

まさに風の男ですね。颯爽としています。

そしてそんな白洲次郎の人柄は政治の表舞台に現れてからも決して変わることはありませんでした。戦争に負けた西洋人に対して長い間頭が上がらなかった日本人。白洲にしてみれば、西洋人同様に、こんな日本人にもまた「いけすかねぇ野郎だ」という感情を抱いたんでしょうね。当の本人は、西洋人相手にも強い論調を崩さず、ひたすら我を貫き通していきます。当然の事、相手からは警戒の色や批判の声がさんざ飛ぶのですが、彼はなんのその。風のようになびいては批判を受け流し、先へ先へと進んでいきます。

彼の真っすぐな気性をよく現した言葉に、下記の言葉があります。

「終戦直後はとにかく占領軍を利用して儲けようという連中がいっぱいいたんです。(白洲)次郎さんが一番耐えられなかったのは、そういう連中でしょう。」
(『風の男 白洲次郎』より引用)

吉田政権を支え、吉田政権を作り上げた男

吉田茂の側近としての白洲次郎の伝記という側面が強い本です。吉田が戦後の首相として立ち上がり、その後、どのように第2次政権まで発足させたのか、吉田に近い白洲のストーリーがあるからこそ、その裏側がよく描写されているのです。ひとりの男の物語を読み進める面白さだけでなく、戦後の混迷期の日本の実情を知る至高の歴史本と言ってもよいかもしれません。

著者
北 康利
出版日
2005-07-22

「主人が、朝早くから家のまわりの草むしりに精を出している。(中略)(こうして見るとタヌキが百姓に化けてるみたいだな、いやキツネか・・・・)」
(『占領を背負った男』より引用)

この『占領を背負った男』では、白洲次郎という一人の人間の紹介というよりは、戦後の日本政治の中で彼がどのように戦い抜いたのかに焦点が当てられています。小説風に仕立てあげられた本の構成のため、人物描写よりもストーリー重視で進行している事が理由のひとつでしょう。

中盤で「俺は吉田と対を成す存在だ」などという発言が出てきます。吉田の側近として辣腕(らつわん)を振るったイメージの強い白洲ですが、彼としては首相の補佐という役割に甘んじたくはなかったのではないでしょうか。そこにあるのは政治家や官僚という職種を通り越した一人の強固な日本人がいた様に思えるのです。勝戦国の外国人相手にも1歩も引くことなく日本にとって最善となる道を模索していく、白洲次郎とはそんな一本筋の通った誇りある日本人だったのでしょう。

「次郎の場合、通常の“人事を握る”というのとは事情が違う。ふつう、人事を握ろうとする人間の目的は、それをてこに自らの勢力を伸張させようというものだが、彼の場合、“仕事を成功させるためには誰が適任か”が唯一の基準だった。」
(『占領を背負った男』より引用)

また、彼の場合政治の中枢を一挙に収めるとか、やがて首相にとか、野望が一切感じられない所が魅力のひとつといっても過言ではありません。吉田の最側近として仕事をしているのなら、やがては大臣にという下心があっても然るべきなのは人間の性とも言えます。しかし、白洲次郎の場合、上記引用の通り、仕事に対する成功、つまりは日本の国益の事にしか念頭になかったといってよいでしょう。

彼の生き方は決してスマートとは言えないけれども、日本人の誇りと熱い男の生き様をこれでもかと教えてくれるのです。真の男の格好良さとは何か。現代を生きる我々にも示唆してくれる白洲次郎流の問題提起がこの書にはあります。

不器用な生き方を全うする事

イギリス人顔負けの深い彫りのある顔立ち、ダンディで重厚感のあるファッションセンス。しかし、白洲次郎の良さは見た目だけではありません。戦後、GHQや民生局と対峙してきた彼の強い精魂は、日本を占領下に置きたいと画策する外国人の度肝を抜きました。

コロナブックスの『白洲次郎』は白洲の伝記として端的、かつ明瞭に彼の人となりが語られている良書です。非常に読みやすく、比較的内容も要点だけに絞られているので、忙しい方にはおすすめの内容かと思います。

著者
["白洲 正子", "辻井 喬", "宮沢 喜一", "青柳 恵介", "朝吹 登水子", "中村 政則", "三宅 一生"]
出版日

一方、日本男児の鏡とももてはやされ、礼賛される白洲次郎ですが、本当に彼を参考にして生きるべきなのでしょうか。

その生き方はイギリス人のようなスマートさは見られず、不器用といってもいいでしょう。それこそ彼の男らしさという個性に繋がっていくのですが、よりスマートな生き方が奨励される現代において、彼のような人間が組織の一員として入ってくると、多くの方の非難を浴びるのは目に見えているのではないでしょうか。

今でこそ、彼の生き様をたたえる評価が多いです。そして、この『白洲次郎』の中でも後世の人が評価するひとりの男というのは清廉で高潔な高い理想を掲げた人物として描かれています。反面、物語の途中では、組織の中で苦悶する白洲の姿も捉えられ、いかに彼のような生き方が世の中で生きにくいかがありありと分析できます。しかし彼は厳しい社会の現実から目を背ける事無く、ひたむきに自分の正義を貫き通そうとします。

もし白洲次郎のような男の生き方に憧れ、そうなりたいと願うのならば、社会から受けるであろう自分に対する批判をものともしない精神的な強さが必要となってくるでしょう。

それでもやっぱり格好良い

『レジェンド 伝説の男 白洲次郎』は、他の白洲関連の書籍から更に綿密な取材と調査により、新しい部分を付け加えて登場した新説本です。さらに深い詳細な記録を読みたい方におすすめと言える内容となっています。

戦後の激戦期というストーリーを追っていくなら他の白洲次郎に関する書籍で十分だと思いますが、この書では彼の「人間力」に極力焦点を当て、今に通じる男の魅力を世に問う良書となっています。

著者
北 康利
出版日
2012-02-07

白洲に関する写真が多く収められています。社会生活では見た目や服装は非常に重要ですね。それは政治の世界ならなおさらです。なぜなら、見た目や服装によって相手に与える印象がガラッと異なってくるからです。この書では、彼が政治の舞台でいかに見た目や服装にこだわっていたか、意識していたかを知る手がかりにもなるでしょう。

また、戦後直下のGHQや民生局とのストーリーは他の書籍でも多数紹介されていることから、かなり薄弱な内容に抑えています。その分、その後の日本の経済復興に投じた白洲の物語が克明と記載されています。

戦後の復興がひと通り進んだ後の日本で、白洲は経済問題に焦点をあて、またそこに憂いの感情をわかせました。彼の心配の種になったのは戦後の堕落した政府ばかりではなく、その政府と密接にかかわり合った経済界の人間へも及んだのです。

以前まで紹介した書籍が全て政治の場での白洲次郎ならば、本書では経済に通じる彼のもうひとつの顔を見ることができるでしょう。実業家としても名を馳せた彼の功績がよく分かる物語となっています。

プリンシプルなき国に生き延びる術はないと説く、珠玉の一冊

今まで紹介した書籍が全て白洲次郎に関する他者が執筆した文章であったのに対し、この『プリンシプルのない日本』だけは、完全に彼が書き残した後世の我々に対しての直接のメッセージとなっています。

その内容はと言えば、最初から最後まで一貫して終戦から戦後復興期までに至る政府に対しての諫言(かんげん)。第二次世界大戦に負け、国民は失意のどん底にありました。しかし、その国民を引っ張るべき政治家や官僚という、国の要職を務める人には、強い志と希望という強固な意志が求められていたのです。けれど日本の高官は長らく続く腐敗の連続から、まだ堕落から抜けきれない状態が続きます。その部分に白洲が喝を入れるのです。

著者
白洲 次郎
出版日
2006-05-30

強気を挫き、弱気を助ける。白洲次郎の性格を表す言葉としてこれほど該当するものもないでしょう。

白洲と距離の近かった当時の首相、吉田茂などもこのタイプの人間だったと思われます。その点、長い期間、政治の中枢で共に激闘を乗り越えた仲の2人は、お互いよく似た2人だったのではと思わざるを得ません。

彼の言葉をつらつらと読んでいくとプリンシプルという意味合いの文章がよく出てきます。この本のタイトルにもなっている言葉ですね。ではプリンシプルとはどういう意味なのでしょうか。それを綺麗な文言で例えている彼自身の言葉があります。

「現在の日本の復興ぶりなどということは、言わばクリスマス・ツリーみたいなもので、飾り付けて豆電気がついていろいろの物がぶらさげてあって、見ると本当に綺麗なものだが悲しい哉あのクリスマス・ツリーには根がない。あの木は育たない。あの木はきっと枯れる。本当はツリーでなくてただの枝みたいなものだから。」
(『プリンシプルのない日本』より引用)

復興後しばらく経っての日本では、どんどん復旧工事が進み、新しい家や建物が修復されていくが、結局のところ上辺ばかり直したところで、日本人の意識が高まらなければ、日本の国家は決して良くならない。つまり、根の部分が無かったり、存在しても全く成長しないようでは木そのものは早い内に枯れてしまうのだ、と警鐘を鳴らしているのでしょう。ここで、白洲が指摘するのが木の根にあたる、物事の根本を指し示しています。

そう、プリンシプルとは根本や原理など、基になる部分を表す言葉なのです。彼の著書の中でもこの基幹部分を相当意識して書かれているのが分かります。

結局彼が言いたかったのは、表面の部分にこだわるな、根本を育め、という事ではなかったのでしょうか。つまり、物事の本質に焦点をあてよという事ですね。例えば、身近にある機械が壊れてしまった時、根本の部分を直さない限りは、応急処置をしていったんは直ったかに見えても、短時間の内にまた故障する、こういう事でしょう。白洲は物事は本質を捉えない限り、何も意味を見出さない、という事を良く分かっていたのだと思います。

そんな白洲が切り込む対象は政府と、経済、そして国民にも及びます。物事の本質を分かりやすく、そして彼らしいストレートな言質で伝え、多くの人に本質を理解してほしかったのでしょう。

あまりにも実直でストレートだからこそ疑問が湧く。それが白洲次郎の魅力の一つでしょう。しかしそれでも彼は真っすぐに生き抜きました。

「彼のようになりたい」と思うのも、「彼のようでは生き抜けない」と思うのも自由です。一方で歴史は彼を評価したのです。政治面から、そして経済面から白洲次郎という一人の男をつぶさに見ていく。ぜひ一冊手に取って、彼の生き様を感じ取ってみて下さい。

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