「優雅」なのか「庶民」なのか “中央線”な人々

更新:2021.12.1

今回、調べるまで知らなかった。中央線が名古屋までつながっているなんて。 7年くらい前に上京してきた身としては、都内の路線図を頭に入れるのに精一杯で、いまだに、東京と甲信越との繋がりとか、房総半島へ延びる路線とか、理解が及ばない。ましてや名古屋とつながっていたなんて! 私の中央線は、左端が高尾駅で断ち落とされていたのである。そんな矮小な我が路線図によれば、中央線は中野、高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪、西荻窪、吉祥寺、三鷹。これらの駅に象徴される。 なんてステレオタイプ! 田舎者のイメージ!

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かどうか、わからない

それでも強気に断じるならば、(私的狭義の)中央線は、駅からの徒歩を厭わない人々が住まう路線である。おしゃれカフェが点在。でもスーパーは庶民派。こぢんまりしたビストロこそ美味。サブカル万歳。しばしば電車が遅延。駅まで遠いことの不便さを飲み下した上で、てくてく歩くことを選ぶ人たち。

『優雅なのかどうか、わからない』は、離婚を機に吉祥寺駅徒歩15分の古民家に引っ越した、40代後半の男・岡田が、改めて人生や恋愛にとまどう物語である。

“高価だけど、良いモノ”に囲まれるのが好きで、職業は雑誌編集者。嬉しそうに新居のリノベーションの段取りをつけ、本物の暖炉にこだわり、書斎の壁には一面の本棚。最初は、岡田が醸し出す“大人の趣味人”ぶりに読みながらイライラしたが、これが『Casa BRUTUS』に連載された小説だと気づいて納得した。岡田は、現在の恋人との宙ぶらりんな関係にもだえ、「また人と一緒に暮らすこと」と直面せざるをえなくなる。

読み進めると、当初感じていたイライラがだんだん、作者に仕組まれたものかもしれないとも思えてくる。彼は大人ぶった男だと勘違いされてしまう人なのかもしれない、いや、大人の男から脱皮する過程にいるのかもしれない、いや、でも完全に脱皮することは目指していないのかもしれない……云々。

そしてタイトルに立ち返ってはっとする。岡田の暮らしぶりは、元妻にも恋人にも「優雅」だと評されるが、その言葉を投げられた本人は、一歩退いて濁すのである。「なのかどうか、わからない」。

著者
松家 仁之
出版日
2014-08-28

作者はもともと新潮社「クレスト・ブックス」シリーズや『考える人』を創刊した敏腕編集者。50代で小説家デビューした。言葉に対する繊細さは職人的だが、恋愛を描くに、どこか気恥ずかしい上品さが漂うのも、ひとつの個性か。丁寧をわざわざ「ていねい」と書いて訴えてくるような感性は私には相容れないけれど、この小説は、「ていねいと書くべきかどうか、わからない」とでもいうような曖昧さが快い。悩んだ末に丁寧さや優雅さを選び取った、“中央線の人”の物語である。

向き合ってご飯を食べること

もっと屈託なく、庶民的な中央線に暮らす人たちもいる。

『きのう何食べた?』は、ゲイのカップルの日常(主に食生活)を描いた漫画である。新刊発売と同時に本屋に平積みになる人気作だ。主人公たちが作るご飯には、毎話、細かなレシピが添えられている。絵なのに! モノクロの絵なのに! 写真じゃないのに! おいしそう。ぜんぶおいしそう。材料はほとんど、近所のスーパーで安売りされていたもの(主人公が食費に超うるさいから)。そのスーパーの名前や風景の描かれ方から推察するに、彼らが住んでいるのは阿佐ヶ谷だ。

「料理」よりも「食事」に焦点が当たっているのが良い。ゲイのカップルだからといって特別何かが深刻だったり麗しかったりシンデレラだったりしないのも良い。家庭の中で、食べたいものを作って、食べること。子どものいないカップルだから、毎日二人は向かい合って、ご飯を食べる。北欧のソファではなく特売品とフライパン。これも一種の、丁寧さで、優雅さか。ただ彼らも、そんな自分たちの暮らしのことを、岡田とは違うニュアンスで、「べつに、優雅なのかどうか……」と言うだろう。

著者
よしなが ふみ
出版日
2015-11-20

生の中に組み込まれた性

冒頭の通り、中央線(中央本線)は東京駅から高尾、甲府、さらに長野の塩尻をめがけてのぼり、名古屋に辿りつく。端から端まで8時間はかかるらしいが、もしこのルートを乗り通すなら(青春18きっぷで?)、車内で開くのはどんな本が良いだろうと考えて、自宅の本棚をごそごそする。

なかなかぴったりなものがない!!!!! と唸った末、抜き取ったのが『学問』だった。

舞台は静岡県美流間(みるま)市。架空の地名だが、モデルは同県磐田市だという。駅でいえば東海道線で、まるきり海に面した町だ。でもこの本は、潮風の届かない山間を進む車輛の中で、ときどき乗り換えを強いられながら、車窓に田舎町と地方都市を捉えつつ8時間ぶっ通しで読むにふさわしい物語だと思う。
 

著者
山田 詠美
出版日
2009-06-30

帯に書かれたキャッチコピーは、「私ねえ、欲望の愛弟子なの」。どぎついけれど、山田詠美らしい。欲望とは、隠喩でもキャッチーぶった言葉でもなく、そのままの意味だからだ。父親の転勤で、仁美は小学2年生のとき東京から美流間に引っ越してきた。やがて3人の友達ができ、いつも4人組で行動するようになる。友情と恋愛のあわい、ともに中学、高校と経る中で、みなは大人になっていく。大人になる、とは生と性の喜び、歯痒さ、羞恥を知ることだ。

この小説については、女の子の性の目覚めを描いたセンセーショナルな作品、などという書評も目にするけれど、それは全体の一部でしかない。山田詠美は、生の中に組み込まれた性を、描く人だからだ。

“脳裏に散らばる日常の塵芥が沈殿するのを待って、その澱の上に広がる澄み切った空間に、仁美は、知る限りの彼の断片を並べて行きました。口や手足、肩や胸などの体の部分はもちろん、声や匂いや動作によって起きる風、溜息など。そして、それらが作り出した逸話。逸話が彼女に触れることで生まれた記憶。”(p. 285)

舞台が、高度経済成長期の片田舎であるのが良い。情報過多の都会でマセていくのではなく、勝手に“体験してしまう”中で身につけた欲望を、仁美は躊躇なく飼い馴らし、神聖なものにまで仕立てあげてしまう。優雅ではないけれど切実でまっすぐなもの。それを学んで、問うてゆくこと。

ストーリーは、彼女たちの人生の青春期に絞られているけれど、小説の中ではとても効果的な方法で、仁美ら4人の人生の最期まで目配せされている。だから一気に読まないとだめだ。邪魔されることのない一直線の電車の中は、その場に非常にふさわしい。

前回(銀座線)のあとがきで太宰治に触れたのだが、そういえば彼の東京での住まいといえば三鷹だったと思い至り、季節はずれと知りながら、掌編「メリイクリスマス」を読み返した。戦争が終わり、疎開先の故郷・津軽から久しぶりに三鷹に戻ってきた「私」は思う。

「久し振りの東京は、よくも無いし、悪くも無いし、この都会の性格は何も変って居りません。」 
アメリカの兵士が通りを歩くのを見ても、「東京は相変らず。以前と少しも変らない。」

太宰はこの町に、何を見たかったのだろう。きっと、優雅さでもなく、所帯じみた安心感でもなく……。

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