青春小説 ―― 詩は書かなくとも、詩人の精神が青春である

青春小説 ―― 詩は書かなくとも、詩人の精神が青春である

更新:2021.12.13

学生時代、僕は警備員のアルバイトをやっていた。ホームセンターの駐車場で誘導灯を振ったり、雑居ビルの守衛さんみたいなことをしたり。町田のショッピングセンターの深夜の見回りは怖かった。真っ暗闇の洋服店に佇む不気味なマネキン、回転寿司店のカウンターの上を駆けずり回るゴキブリの群れ……ハッとして心臓が止まりそうになる。とても規則通りに巡回する気にはなれず、何度かおざなりに見回って、あとは適当に報告書に記しておいた。

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恵比寿にあった製造メーカーの自社ビルの守衛は、二年ほどやった。僕の担当は日曜で、つまりは休日出勤してくる社員のために鍵を開けるのと、ビルの巡回が仕事。恐ろしく暇で、日中はたいがい読書するか居眠りするかしていた。なぜだかよく金縛りにあった。

一人の若い社員が比較的よく休日に来社した。そのうち話しかけてくるようになり、「ねえ、今度飲みに行こうよ」と僕を誘うのである。どうやら飲み屋に行って一緒に女の子にちょっかいを出そうということらしい。どうもそんな気分にはなれず、おまけにソファーに腰かけ熱っぽく語る彼の尻の下には、さっきまで僕が読んでいた谷崎潤一郎の『春琴抄』がグチャグチャになって潰れている。とてもこんな無神経な奴とは友達になれない、僕は体よく断ったものだ。

社内には訓示やら注意事項のようなものがよく貼られていた。ある時、次のような貼り紙を見つけた。「OA的反省──◯ 文学的反省──×」。一瞬何のことやら分からなかったが、おそらく合理的建設的反省をしなさい、文学的な、堂々巡りをするような、自己憐憫、自己陶酔、とにかくいじけたような反省はやめなさい、ということだろう。何しろ僕は気質は文学青年なものだから、これを見て憤慨した。おかしいだろ、本来人間性とは芸術の側から語るべきものじゃないか、よし、僕は月給取りになんかならないで、一生アウトローで生きてやろう、そう強く思ったのであった。

青春とは、繊細さであり、大胆さであり、何ものにもとらわれない自由さ、既成のものへの反逆、未知なるものへの憧憬にある。詩は書かなくとも、詩人の精神が青春である。むろんこれは概念ではあるが。若者でも上記すべてを備えた人はなかなかいないだろうし、また一個も持たないという人もいないだろう。

若い頃に強く惹かれる小説というのがある。青春の特質をうまく表しているもので、それらは色褪せず永遠の輝きを放っている。いたずらに青春を描けばいいというのでもなく、男が出てきて女が登場し恋愛して……となるとむしろ凡庸である。けして現実は好転せず理想を追う作中人物は煩悶するばかり、そういうものを青春小説というのではなかろうか。

檸檬

著者
梶井 基次郎
出版日
たいがいの本好きの人なら、きっと若い頃に読んだであろう本。未読の人のためにも、若い人のためにも、この本は挙げておきたい。表題作『檸檬』。出だしから末尾まで、完璧である。ナイーブで、熱っぽい。憂鬱と貧乏であることが強調されているが、情緒の安定した若い人などかえって薄気味悪い。また、何も持たないことこそが青春の特権である。

「私」は、みすぼらしくて美しいものに心惹かれている。このところはかつての情熱を失ってしまったかのようだ。──だが人はしばしば二十代前半にいやに真面目に、恬淡となるものである(そしてまた、たいがいの人は中年とともに俗っぽくなる)。純粋さを追えば、世の中は耐え難く映りさえもする。「私」は一個の檸檬を芸術爆弾に見立て、書店の棚に放置してくる。この破壊衝動は、若い頃の僕自身確かに覚えがある。

読書の楽しさを教えてくれたI君が、ずいぶん昔にこう言っていたことを思い出す。「和嶋、この間K書店に行ったらさ、画集の上に檸檬が置いてあるんだよ! 梶井基次郎やってる奴、いるね」。I君の目はとても嬉しそうに、キラキラと輝いていた。

哀しき父・椎の若葉

著者
葛西 善蔵
出版日
1994-12-05
郷里が同じ青森ということもあって、葛西の小説は二十代の頃にまず親しんだ。不如意な生活がこれでもかと書き連ねられている。私小説の極右と称されることが多く、実際その貧乏っぷりは惨憺たるものだったらしく、貧乏だからそうした小説を書いたのか、小説を追求するがゆえに貧乏になっていったのか、もはやどっちが先だか分からないほどに、生活と作品が密着していた作家だったという。

再読して、定石通りにはいかない変わった比喩を用いる文体といい、這いつくばってでも理想を追い求めんとするその姿勢といい、根底は詩人であることに気がついた。文庫の解説とかぶって恐縮だが、『悪魔』の一文を抜き出してみる。

“運命はいつも悲しい。霊魂はいつも淋しい。そこに我等の芸術がある。俺は霊魂の平行を信じない。俺の霊魂は常に衝突し、交叉してそして一層の深い永遠の孤独に墜ちて行く。永遠の孤独……それで結構々々、俺は忍路高嶋を唄おう。忍路高嶋は俺の少年の夢だ。俺は少年の夢を抱いて忍路高嶋を放浪したのだ。俺の胸は火であった。けれども俺は凍え死のうとした”

忍路高嶋とは、〽忍路高島およびもないが  せめて歌棄磯谷まで……と唄われる歌。つまりなかなか到達できない地点、理想主義のことをダブルミーニングでいったと思われる。上の文は酒場での一コマ。似たような物言いを飲み屋で実際に耳にすることもあるが、ここにあるのは紛れもない詩人の魂である。

白痴

著者
坂口 安吾
出版日
1949-01-03
坂口安吾もまた、青春の作家である。潔い文体、小気味いい論調、瑞々しい感性、とらわれない精神。流行作家になってからはやや調子が出過ぎて、書き飛ばし感のあるものもなくはない印象だが、安吾その人は永遠の若者のように颯爽と時代を駆け抜けていったのではないか。

『白痴』は、理想と現実の乖離にうんざりしている新聞記者、伊沢の視点で語られる。伊沢の周りにひしめく卑小でしかない人々。そして隣りの狂人一家。人物描写が痛快で、ほとんど漫画のように読める。しかし常人と狂人といったいどこが違っているというのだ──このすべてが等価値、もしくはさしたる価値などないという認識が、この作品の一貫したテーマである。時は戦時下、空襲の最中に歯磨きをする描写など、妙にリアリティがあって共感を覚える。人はどうでもいいことに拘泥し執着するものだし、またそのどうでもよさが人生の一面だったりする。ふとしたことで白痴の女と同棲することになった伊沢だが、爆撃の中を一緒に生き延びても一片の愛情すら白痴に抱いてはいない。かといって捨てる張り合いも持てない。何ら明日への確証がないからだった。

怖いような、それでいてどこか透明な清々しさを覚える小説である。すべての価値が崩壊した終戦を経たからこそ書けたのかもしれないが、果たして現代にこのような小説が生まれるのだろうか。もしかしたら、今の時代そのものが青春を失ってしまっているのかもしれない。

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    バンドマンやソロ・アーティスト、民族楽器奏者や音楽雑誌編集者など音楽に関連するひとびとが、本好きのコンシェルジュとして、おすすめの本を紹介します。小説に漫画、写真集にビジネス書、自然科学書やスピリチュアル本も。幅広い本と出会えます。インタビューも。

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