「言語」という切り口から本を紹介するシリーズ第3回。当分は紹介する本が尽きる気配もなく、3回目にして言語の深淵さを感じている次第である。そんな今回は、数多く論ぜられている言語と芸術についての本の中でも、選りすぐりの3冊をご紹介しよう。
『芸術を創る脳 美・言語・人間性をめぐる対話』は、言語脳科学者である著者が「音楽」「将棋」「マジック」「絵画」の四分野で活躍中の第一人者と、「言語」をキーワードに芸術創造過程を探ろうと意図して行った対談集である。
芸術家たちの教養に富んだ言葉は、知的好奇心を刺激する。また、芸術家という特殊な視点から私たちの身近にある様々な問題に視点を広げて語っているので、本書は普段から自分が興味関心を持っているトピックについて掘り下げるきっかけともなるだろう。
- 著者
- ["曽我 大介", "羽生 善治", "前田 知洋", "千住 博"]
- 出版日
- 2013-12-27
「このプロセスという考え方が欠落しているのが、現代ではないでしょうか。工業製品は結果の完成度だけを求めがちです。〔…〕こうしてお話しているうちにも、どんどん頭が回転していき、酒井さんが今言われたような、より広い世界観や、より複雑な世界観が展開していくのも言語のプロセスでしょう。そして、さまざまな創造のプロセスを分かるようにするのが、芸術の役割なのです。」(千住2013, 225項「Ⅳ なぜ絵画は美しいのか 千住博(日本画家)」)
「芸術は人間の言語機能を基礎とする」仮説が、本書に一貫して存在している。
芸術が生み出す想像力は人間だけに存在しているが、「コンピューターによる電子化が進む中、人間は本来の姿を見失い、言語による対話の能力すら退化させようとしている。そうした危機感を背景にして、学問は芸術と手を携え、人間の言語や心の本質を明らかにしていかなければならない。」(酒井2013, 258項)とある。
全体を通して対談を見ると、互いに幅広い視点から相手の価値観を尊重しようと、本書自体がまさに「人間本来の言語による対話」に強くこだわっているのがひしひしと伝わってくる。
吉本隆明の編集者であった宮下和夫を中心に、吉本が亡くなった後20冊ほど吉本の本が出版された。そのうちのひとつが『吉本隆明〈未収録〉講演集』で、今回は第十二巻である『芸術言語論』を取り上げる。
本書は1980年11月から2008年7月までの講演集であるが、たんに年代順ではなく、内容に応じたテーマ別の配列になっている。
冒頭、昭和女子大学で行われた講演「芸術言語論」で、「今まで話してきたようなことは、ほぼ五十年にわたって頭の中で揉んできた考えなので、一度や二度でかたがつくことではありません。〔…〕こういう話をするには二十年くらいかけないと(笑)。」(吉本2008, 45項)と始まるが、それを28年間にわたる吉本の考えを本書でまとめて達成したんだよ、と巻末で繋がる仕掛けになっている。
「僕はこの芸術言語論で、社会的・国家的なコミュニケーションをかわすために言語は存在するという考え方を否定しました。言語においてメインになるのは沈黙であると、僕は考えたわけです。」(吉本2008, 16項)
吉本は、コミュニケーションが枝葉だとするならば自分の中での「沈黙」の言葉が、人に物事を伝える段階以前の幹であり、それこそが核なのだという。
- 著者
- 吉本 隆明
- 出版日
- 2015-11-05
また、文学の意義についてもこう語っている。
「物事の体験というのはおどおどしながらやるものではなくて、本当にそう思ったら本当にそういう深い深い感情でそういうのを体験するのだったなというふうに、今度やるときはそうしようとか。そういうふうに、いろいろな意味で役に立つというような読み方ができるものがあります。それがやはり文学作品の良さといえば良さだと思います。つまり、そういうところが文学の作品、言語の芸術の弱点であり、同時に良さである」(吉本1992, 296項「新・書物の解体学」)
私にとって初めての吉本隆明の本だったのだが、同じく名前は聞いたことはあるけど読んだことはないという若い人は多いのではないだろうか。
しかし、宮下はこう断言している。「親鸞や安藤昌益が数百年、宮沢賢治が数十年して復活したように」吉本の読者は「読者が絶えた後、いつの日にか、必ず復活してくるだろう」と。
現在では差別的とみられる表現もあるが、あえて注釈をつけなかったのには意味があるのだろう。
読んで損はしなかったというか、現代文学に通じる普遍性があると感じた。(吉本は「本質」という言葉をよく使っている)特に、文学青年・少女におすすめの一冊。
共感覚とは、「ある感覚刺激に対して思いもよらない種類の感覚が同時に立ち上がる現象」である。また、生来備わった神経現象としての共感覚は、神経学や脳科学、心理学の分野であり、文学作品に現れる共感覚は、文学や言語学あるいは歴史学の範疇とされてきた。
本書は第Ⅰ部と第Ⅱ部で「身体」「言語」に分け、両面からのアプローチで多分野の専門家が共感覚について論じている、じつに興味深い良書である。
第Ⅰ部では神経科学など科学的な見地から近年の研究動向を紹介していているが、それらの「科学的な定義に基づいた共感覚」は必ずしも芸術・文学の「共感覚的表現」と結びつかない。私たちを感動させてきた共感覚の法則は、科学的にはまだハッキリしていないのが現状ではある。
しかし、本書は人文学的な見地からも含め共感覚表現全体を俯瞰する中で、今後の科学的研究のあるべき姿が相互作用的に現れることをねらった位置づけにもあるのだ。
- 著者
- 出版日
- 2016-05-11
「マックス・ノルダウは、理性や社会的規範に則って区別されるべき諸感覚を混沌とした形で提示する共感覚的表現を、原始の動物的表現であると批判した。そもそも分類という行為自体が知性によってなされるものであるため、文明とは混沌としたものを知性でもって分類していくことと考えられていた。
〔…〕
他方、ヴィクトル・セガレンは、共感覚的表現を好んだ象徴派詩人たちを擁護し、諸感覚を意図的に結び付けたこの総合的表現を一時的ではあるが奨励した。芸術とは、ワーグナーが提唱したように音楽、文学、舞踏、絵画、建築などあらゆる種類の芸術が統一した形で諸感覚に訴えかける総合的表現とみなすことも可能である。この諸感覚の融合による共感覚的表現を文明の頽廃とみるか、意図的な総合芸術とみるかは紙一重であろう。」
(田島義士2016, 276項「共感覚的表現は世界を変え得るのか——ランボーの「母音」を通してみる一考察」)
たとえば、数字に性格を感じるとか文字に色を感じるなどが共感覚であるが、1867年にフランスで出版された『色彩の音楽』では虹の七色とドレミの七音が結びつけられている。
ド(赤)、レ(オレンジ)、ミ(黄)、ファ(緑)、ソ(青)、ラ(藍)、シ(紫)、ド(赤)
他の論考でも様々な文学や詩が紹介されているが、言語を研究しているだけあって紹介するもののチョイスが良いし、文章の表現が多彩である。
芸術において私たちを感動させる共感覚の仕組みが科学的に解明されれば人工的に感動させることができる可能性が高まるらしい。今後にも注目。
言語×アートの3冊、いかがだっただろうか?
言語と芸術関係の本はまだまだたくさんあるので、いずれまたご紹介できればと思う。この本をきっかけに、芸術を言語との関連性からみる観点に興味を持ってくれたらうれしい。